第二巻 新法 第十二回 都堂の波紋
年が明けて、春の初め。
都堂の広間には、朝から火鉢の炭が赤々と熾っていた。
参知政事・王懐遠は、自分の席について、卓の上の文書の束を見下ろした。
銭法の詳定。
戸部と、詳定官・林修平の詰所から上がってきた、中央の行の設立案だった。一年近い詳定の結果が、百枚を超える紙にまとめられていた。今日の都堂は、その案を、どう法として形にするかを議する。
左丞相・李徳彰が、議題を読み上げた。右丞相・張文謹が、黙って頷いた。
最初に口を開いたのは、参知政事・陳世昌だった。
「この案について、私の手元に、各地から書状が届いておる」
陳世昌は、自分の卓の上の、もう一つの束に手を置いた。
王懐遠は、その束の厚さに、少し驚いた。
「両浙路と福建路の転運司から。成都府の銭引務から。杭州と泉州の両替商の組合から。開封の銀の取引をしておる商人たちから。それに、いくつかの州の知州から」
陳世昌は、一枚ずつ、書状を卓の上に並べた。
「読み上げよう」
◇
陳世昌の読み上げは、半刻近く続いた。
両浙路の転運司は、会子の発行と交換の実務を中央の行へ移せば、転運司が長年扱ってきた会子の帳簿と、その帳簿を扱う吏員がどうなるのかと問うていた。
成都府の銭引務は、四川では鉄銭と銭引が百年以上にわたって独自の仕組みで回ってきた、それを都の一つの行の帳簿に組み込めば、四川の商いの事情が都には伝わらなくなる、と書いていた。
杭州と泉州の両替商の組合は、官が認めた銀行だけが預りを扱えるようになれば、これまで両替と預りで生計を立ててきた数百の店が潰れる、と訴えていた。
開封の銀の商人たちは、中央の行が紙幣を扱うなら、銀の値はどうなるのか、銀で決済している遠方との取引に障りは出ないのか、と問うていた。
ある州の知州は、ただ一行、こう書いていた。
新しき制の善し悪しは、臣には判じかねる。ただ、旧き制の下で今日も商いをする民が、明日も同じく商いを続けられるかを、朝廷がお考えくださることを願う。
陳世昌は、最後の書状を卓の上に置いた。
「私は、この案に反対するのではない」
陳世昌は、都堂の面々を見回した。
「林詳定の案は、一年をかけて、戸部の帳簿を読み、会子務の古い記録を読み、両替商の話を聞いて作られたものだ。筋は通っておる。だが、筋が通っておることと、それを明日から国中で行えることは、別だ」
陳世昌は、両替商の組合の書状を指で叩いた。
「この国の商いは、会子と銭引と、数えきれぬ両替と預りと手形の上に、何百年もかけて積み上がってきた。その上に、新しい行を一つ置く。それはよい。だが、置き方を誤れば、下に積み上がったものが崩れる。崩れたとき、困るのは、この書状を書いた者たちと、その者たちと商いをしておる民だ」
王懐遠は、陳世昌の横顔を見た。
六十二歳。都堂の中で、最も年長の一人だった。保守的だと言われる。旧い制度の現場の声を代弁する、と。
だが、今、陳世昌が代弁しているのは、自分の私益ではなかった。現場で制度を回している者たちへの、責任だった。
「陳参政の懸念は、もっともだ」
李徳彰が、静かに言った。
「この書状を、林詳定に見せよう。御前の廷議で、答えさせる」
◇
御前廷議は、その五日後に開かれた。
修平は、説明員の位置に立ち、陳世昌が都堂で読み上げた書状の写しを、手元に持っていた。五日間、それを読み、答えを考えた。
「林詳定。陳参政の懸念に、答えよ」
李徳彰の声に、修平は一歩前に出た。
「陳参政が集めてくださった書状は、この一年、私が戸部で考えてきたことの、最も弱いところを突いております」
修平は、陳世昌の方を向き、拝礼した。
「ありがたく存じます」
陳世昌は、無言で、軽く頷いた。
「まず、両替商と、預りを扱う店のことです」
修平は、写しの一枚を掲げた。
「官が認めた銀行だけが預りを扱えるようにする、というのは、この案の本意ではございません。今ある両替商、質庫、預りを扱う店、手形を割り引く商人。そういう者たちを、締め出すのではなく、つなぐのです」
「つなぐ、とは」
陳世昌が、問うた。
「元手と、帳簿と、蔵の銭について、一定の決まりを満たした店は、願い出れば、官の認めた銀行になれるようにします。今の店を畳んで、新しい店を開く必要はありません。今の店のまま、帳簿を整え、元手を備え、検めを受ければよい。高元亨の店のように、元手と蔵の銭を厚くしている店なら、今日にでも認められるでしょう」
「決まりを満たせぬ店は」
「両替と、小さな預りは、これまで通り続けられます。ただ、官の認めた銀行でなければ、中央の行に準備を置き、中央の行の帳簿で他の銀行と清算することはできない。——そういう店が、商人の手形を認められた銀行へ持ち込んで割り引いてもらい、その銀行がさらに中央の行へ持ち込んで割り引いてもらう。そうすれば、小さな店も、手形を通じて、中央の行の網の端につながります」
陳世昌が、書状の一枚に目を落とした。
「……数百の店が、潰れずに済むか」
「潰れずに済むように、段を分けます。はじめの三年は、決まりを緩くし、その後、少しずつ締める。店が帳簿を整え、元手を備える時間を取ります」
◇
「次に、紙幣を扱う官署のことです」
修平は、成都府の銭引務の書状を掲げた。
「会子務も、銭引務も、転運司の会子の帳簿も、廃しません。中央の行が、それを一夜にして取り上げるのではない。発行の残り、交換の実務、偽造を防ぐ手立て、紙と版木の管理、帳簿。それを、何年かかけて、段を追って中央の行へ引き継ぎます。引き継ぐのは、仕事と、帳簿と、それを扱ってきた吏員です」
修平は、少し間を置いた。
「蔣守拙という、会子務で四十年帳簿をつけてきた吏員がおります。この一年、私はその人から、会子の実務のほとんどを教わりました。中央の行ができても、会子務の帳簿を読める者は、その人と、その人が育てた吏員しかおりません。そういう人たちなしに、中央の行は動きません」
陳世昌の表情が、わずかに緩んだ。
「四川については」
修平は、銭引務の書状を指した。
「四川の鉄銭と銭引は、四川の事情の中で回ってきました。都の一つの帳簿に、何もかも組み込むのではありません。中央の行には、本院のほかに、支院を置きます。四川には、成都に支院を置く。支院は、四川の銀行の準備を預かり、四川の中での清算を扱い、四川の物の値と商いの様子を、本院へ報せる。本院は、支院を通じて、四川の事情を知る」
「支院は、いくつ置く」
李徳彰が、問うた。
「まずは、四つを考えております。開封の本院のほかに、東、西、南、北。詳しい置き場所は、戸部と詰めております」
◇
「では、中央の行そのものは、誰が治める」
張文謹が、初めて口を開いた。
右丞相は、五十九歳。文書と調整の人だと言われていた。その声は、穏やかだった。
「中央の行に、委員の会を置きます」
修平は、手元の紙を開いた。
「中央の行の長と、その副と、何人かの委員。金融と、紙幣と、帳簿と、商いに通じた者を選びます。委員は、陛下が任じます。ただし、一度任じられたら、決められた年限のあいだ、よほどの罪がない限り、罷免されません」
「罷免されぬ」
「はい。そして、委員の会が、中央の行の利を決め、紙幣の出し入れを決めます。都堂も、戸部も、それを命じることはできません」
殿の中に、微かなざわめきが起きた。
陳世昌が、ゆっくりと口を開いた。
「それは、おかしい」
声は、静かだった。
「中央の行は、陛下の勅許によって置かれる、国の機関であろう。陛下の国の、陛下の行だ。その行が、陛下の命令すら聞かぬというのか。臣下が、陛下の命を拒める機関を、陛下の国の中に作るというのか」
陳世昌は、正面の座の方を向いた。
「陛下は、天下の統治の責任を負っておられる。天下の銭のことも、その責任の内であろう。陛下が、天下のために、利を下げよ、と命じられて、それに従わぬ行があってよいのか。——私は、それを、統治の責任の問題として申し上げておる」
殿の中が、静かになった。
修平は、陳世昌の言葉を、黙って受け止めた。
これが、今日の廷議の最も大きな争点になることは、李徳彰から前もって聞かされていた。
◇
「陳参政のお尋ねは、この案の、最も大事なところです」
修平は、陳世昌の方を向き、深く拝礼した。
それから、正面の座に向き直った。
「陛下。お許しを得て、一つの問いを申し上げます」
趙祺が、頷いた。
「陛下が、今日、天下に向けて、朕はこれから紙幣を乱発しない、と約束なさったとします」
修平は、ゆっくりと言った。
「民は、それを信じるでしょうか」
殿の中の誰も、答えなかった。
「陛下は、今日、本心からそうお約束なさるでしょう。私は、それを疑いません。けれど、民は、こう考えます。——では、北で大きな戦が起こり、軍費が足りなくなったら、どうなるのか。堤が切れ、凶作が重なり、税が入らなくなったら。そのとき、陛下の前に、戸部尚書が進み出て、北の兵が飢えております、紙幣を刷らせてください、と申し上げたら。陛下は、今日の約束を、守り通されるだろうか」
修平は、蔣守拙の話を思い出していた。
「会子務の吏員たちは、刷れば値が崩れると、皆、分かっておりました。けれど、戸部の命でございます。北の兵が飢えれば国が危うい。刷らぬわけにはまいりませんでした」
修平は、言葉を切った。
「民は、それを覚えております。ですから、平時に、陛下がどれほど本心から約束なさっても、民は、非常の時にはその約束が破られるかもしれないと考える。そう考えれば、民は、紙幣を持つことを恐れます。少しでも値が崩れそうになれば、すぐに銭や品物に換えようとする。そうなれば、約束が破られる前から、紙幣の値は揺らぎます」
修平は、陳世昌を見た。
「自由に破れる約束は、最初から信用されないのです」
陳世昌は、何も言わなかった。
「ですから、私は、陛下の約束を、陛下ご自身でも簡単には破れない形にしたいのです」
修平は、正面の座に向かって、もう一度拝礼した。
「陛下の権威を削るためではありません。陛下の約束を、将来の陛下自身でも簡単には破れない形にするためです」
◇
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、陳世昌が、低く言った。
「将来の陛下自身、か」
「はい」
「臣下が、陛下を縛る、と聞こえるが」
「臣下が縛るのではありません。陛下が、ご自身を縛るのです」
修平は、言った。
「中央の行を置くのは、陛下の勅許です。委員を任じるのも、陛下です。委員の会に、利と紙幣の出し入れを任せると定めるのも、陛下の裁可です。陛下が、今日、ご自身の意思で、将来のご自身の手を縛る仕組みをお作りになる。——それは、陛下の権威が削られることではなく、陛下の言葉の重みが、増すことだと考えます」
修平は、少し間を置いた。
「いつでも増刷できるという自由は、朝廷にとって便利です。しかし民から見れば、それはいつでも価値を薄められるという不安でもあります」
陳世昌は、腕を組んだまま、じっと修平を見ていた。
「では、本当に非常の時は、どうする」
陳世昌は、問うた。
「北の兵が本当に飢え、税も、国の証文も、どうにもならぬとき。それでも、中央の行は、陛下の命を拒むのか。国が滅んでも、紙幣の値を守るのか」
「拒みません。ただし、陛下のお言葉だけでは、刷れない仕組みにします」
修平は、手元の紙を開いた。
「まず、戸部も、都堂も、軍も、地方の官署も、中央の行に紙幣を刷って国の支出を賄え、と命じる権限を持ちません。陛下の勅命であっても、それだけでは、紙幣を刷る命令としての効き目を持たない、と定めます」
殿の中が、大きくざわめいた。
李徳彰が、手を上げて、それを制した。
「続けよ」
「本当に非常の時に限り、中央の行の委員の会が、紙幣を刷ることの金融と物の値と信用と国の財への影響を審べ、委員全員が、やむを得ないと同意する。その上で、都堂が正式に議して、その責任を引き受ける。そして最後に、陛下が裁可なさる。この三つが揃ったとき、はじめて、刷ることができる」
修平は、紙を掲げた。
「陛下がお命じになっただけでも刷れない制度にします。委員会が全員で必要と認め、都堂が責任を引き受け、最後に陛下が裁可して初めて発行できる。紙幣を守るには、発行する力より、発行できない仕組みの方が重要なのです」
◇
「一つ、確かめたい」
王懐遠が、口を開いた。
「そなたの言う、刷ることを禁じるというのは、中央の行が、一切、新しい紙幣を出さぬということか。商いが大きくなれば、紙幣も要るであろう」
「いいえ」
修平は、首を振った。
「禁じるのは、国の支出を賄うために、中央の行の外から、刷れ、と命じることです。中央の行が、日々の務めとして、銀行や民が求めるだけ紙幣を出し、銀行に今日の銭を貸し、商人の手形を割り引く。それは、禁じません。それは、中央の行の帳簿の上で、必ず、手形や証文という持ち物と引き換えに出されるものです。国の支出の穴を埋めるために、何の持ち物もなく刷ることとは、違います」
王懐遠は、頷いた。
「その違いを、法の文言で、きちんと書き分けられるか」
「刑部と、中書の起草の官のお力を借りねばなりません」
修平は、正直に言った。
李徳彰が、わずかに口の端を上げた。
◇
正面の座から、声がした。
「陳参政」
趙祺だった。
「そなたは、朕が天下の銭の責任を負うと言った。その通りだ」
陳世昌が、拝礼した。
「朕の祖父の代に、会子の値が崩れた。朕は、その後始末に二十年かかったと聞いて育った。祖父が、会子を刷らせたくて刷らせたとは、朕は思わぬ。北の兵が飢えていたのだ。祖父には、刷る以外に道がなかった。——いや、刷る道しかないように、制度ができていたのだ」
趙祺は、殿の中を見渡した。
「朕も、同じ立場に立てば、同じことをするかもしれぬ。朕の後の者も、そうかもしれぬ。朕は、朕を信じておる。だが、朕の後に、どのような者が座るかは、朕には分からぬ」
趙祺は、修平の方を見た。
「刷る道しかないように、制度ができていた。それを改める。——陳参政。朕は、これを、朕の責任を捨てることだとは思わぬ。朕の責任を、朕の後の者にまで及ぼすことだと思う」
陳世昌は、長いこと、床に手をついていた。
それから、顔を上げた。
「……臣は、陛下のお言葉を、承りました」
陳世昌の声は、静かだった。
「ただ、一つ、申し上げます。その委員の会とやらに、どのような者を任じるか。それを誤れば、陛下を縛る仕組みが、臣下の専横の器になりましょう。委員の選び方と、委員を監察する仕組みを、この案の中に、必ずお入れくださいますよう」
「もっともだ」
趙祺は、頷いた。
「李丞相。陳参政の言を、案に加えよ。刑部と中書の官を加えて、法の文言を詰めさせよ」
◇
同じ春、甘州。
経略安撫司の城外に設けられた宿営地に、西方へ向かう遠征の部隊が、少しずつ集まり始めていた。
狄承武は、宿営地の端の小高い丘に立ち、並んだ天幕の列を見下ろしていた。
禁軍の各地の指揮から選ばれた兵。廂軍から回されてきた輜重の兵と人夫。西域藩王府から来た道案内。商人から雇った通訳。そして、都から来た、外交の使節と、軍事の調査の官たち。
「兵たちが、落ち着きません」
韓奇捷が、丘を上がってきて言った。
「西へ何千里行くのか。帰ってこられるのか。向こうの国の者は、人なのか、魔族なのか。——噂ばかり、あちこちで」
「当たり前だ」
狄承武は、天幕の列から目を離さずに言った。
「俺にも、分からんのだから」
韓奇捷が、少し驚いたような顔をした。
その夜、狄承武は、自分の指揮の兵を、宿営地の焚き火の前に集めた。
四百人の顔が、火に照らされていた。
「西へ何千里行くのか、とお前たちは聞く」
狄承武は、兵たちを見渡した。
「正直に言う。俺にも、正確には分からん。西域藩王府までは、道がある。そこから先は、商人の道を辿る。商人の話では、そこからさらに半年はかかる。途中に、砂漠がある。山がある。別の国がある」
兵たちが、ざわめいた。
「向こうの国の者が、人か魔族か、とも聞く。商人の話では、人だ。ヴォルガルと長く戦っている国だ。だが、俺は、自分の目で見るまでは、信じぬ」
狄承武は、焚き火に薪を一本くべた。
「だから、備える」
狄承武は、指を折った。
「糧は、西域藩王府までの分を持つ。その先は、藩王府と、途中の国で買う。そのための銭は、会子ではなく、銀と銅銭で持つ。馬は、一人に二頭。薬は、医官を三人連れていく。道案内は、西域の者を二組雇う。一組がはぐれても、もう一組がいる。通訳は、商人の中から、三つの言葉を話せる者を選んだ」
兵たちの顔が、少しずつ変わっていった。
「帰ってこられるのか、とも聞く」
狄承武は、兵たちの目を、一人ずつ見た。
「帰ってくるために、準備をしている。英雄の話をするつもりはない。俺は、英雄ではない。お前たちを連れて行って、連れて帰ってくる。それが、俺の仕事だ」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
兵の一人が、手を上げた。まだ若い、二十歳にもならない兵だった。
「指揮使。怖くはないのですか」
狄承武は、少し考えた。
「怖い」
兵たちが、静まった。
「知らない土地へ行くのは、怖い。だから、知る。知るために、道案内を雇い、通訳を雇い、斥候を出す。怖いから、備える。備えれば、少しは怖くなくなる」
狄承武は、立ち上がった。
「出立は、秋だ。俺は、その前に都へ上り、使節の方々とともに、陛下の見送りを受ける。その間、お前たちは韓副指揮使の下で、ここで備えを続けろ。都からの本隊が甘州へ着いたら、合わせて西へ出る。それまでに、備えられるだけ備える。明日から、馬の世話と、長駆の訓練を始める」
兵たちが散っていった後、韓奇捷が、焚き火の前に残っていた。
「指揮使が、怖いと仰るとは思いませんでした」
「嘘をついても、兵には分かる」
狄承武は、焚き火を見つめていた。
「それに、怖くないと言う指揮官に、俺はついていきたくない」




