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第二巻 新法 第十一回 数と算盤

 二度目の御前廷議は、初冬の朝に開かれた。


 殿の中には、火鉢が四つ置かれていた。それでも、石の床から這い上がってくる冷えは、官服の裾から容赦なく入り込んできた。


 修平は、説明員の立つ位置で、両手を前に組んでいた。


 正面の座に、趙祺。その左右に、李徳彰、張文謹、王懐遠、陳世昌。今日は、葉正言のほかに、吏部尚書の胡敬之と、工部尚書の沈維新も列していた。国中の役所の帳簿の書き方を改める話になるかもしれない、と李徳彰が言ったからだった。


 修平の後ろには、韋明遠が控えていた。今日の説明の半分は、この男の仕事だった。


「林詳定。述べよ」


 李徳彰の声に、修平は一歩前に出た。


  ◇


「陛下。本日は、数の書き方について申し上げます」


 殿の中に、微かなざわめきが起きた。


 陳世昌が、わずかに首を傾げた。張文謹は、表情を変えなかった。


「はじめに、申し上げておかねばならぬことがございます」


 修平は、拝礼してから、顔を上げた。


「この国の算術は、優れております。算盤は、手元の計算において、私の知るどの国の道具にも劣りません。算木を使えば、司天監では天の運行を、何百年先まで推すことができます。商人の帳場では、毎日、何千という取引が、算盤の上で正しく計算されています」


 修平は、韋明遠の方を示した。


「司天監の韋算学が、この四月あまり、私の話に出てくる数を、すべて算木で検算してくれました。私が桁を誤ったところを、何度も見つけてくれました。この国の算術に、足りないところがあるとは、私は思いません」


 胡敬之が、少し意外そうな顔をした。


「では、何を改めるのか」


 修平は、韋明遠から、一枚の紙を受け取った。


「これは、ふた月ほど前、韋算学が戸部で国の証文の話を検算したときの紙です」


 修平は、紙を掲げた。


 漢数字が、縦に、紙いっぱいに並んでいた。朱で訂正した跡が、三か所あった。


「韋算学は、算木の上では、正しく計算しておりました。けれど、その答えを紙に写すときに、三か所、桁を読み違えました。本人が、見直して気づきました。——では、韋算学が気づかなかったら、どうなっていたか」


 修平は、紙を下ろした。


「算盤も、算木も、計算が終われば、珠は元に戻り、木は片付けられます。計算の途中に何があったかは、どこにも残りません。残るのは、紙に写した答えだけです。その答えが正しいかどうかを確かめるには、もう一度、はじめから計算し直すしかない」


 修平は、殿の中を見渡した。


「一人の算学官の、一枚の紙なら、それでよいのです。けれど、戸部が今、作ろうとしている国の帳簿は、国中の転運司と、総領所と、州県の帳簿を、同じ物差しで読み替え、都で足し合わせるものです。何百という役所の、何千という吏員が、それぞれの帳場で計算し、その答えを紙に写して、都へ送る。都では、それを足し合わせ、検算する」


「どこかで一か所、桁を読み違えたら」


 李徳彰が、低く言った。


「誰が、それに気づくのか」


「はい」


 修平は、頷いた。


「算盤が遅いのではありません。算盤の上で終わった計算を、千里先の官吏が同じ手順で確かめられないことが問題なのです」


  ◇


 韋明遠が、一歩前に出た。


 手に、もう一枚の紙を持っていた。


「陛下。私から、ご覧に入れたいものがございます」


 趙祺が、頷いた。


 韋明遠は、紙を卓の上に広げた。


 宰執たちが、身を乗り出した。


 紙の上には、見慣れない記号が、横に並んでいた。


「これは、林詳定から教わった、数の書き方でございます」


 韋明遠は、記号の一つひとつを、指で示した。


「一から九までを、それぞれ一つの印で書きます。そして、十、百、千、万を、字で書く代わりに、印を置く場所で表します。右の端が一の位。その左が十の位。その左が百の位」


 韋明遠は、紙の上の、一つの数を指した。


「たとえば、この数。漢数字で書けば、一万二千三百四十五。ここでは、印を五つ並べるだけで書けます」


 陳世昌が、眉を寄せて、紙を覗き込んだ。


「字の数が、少ないな」


「少のうございます。そして、もう一つ、大事なことがございます」


 韋明遠は、紙の上の、丸い印を指した。


「位に何もないときは、この丸い印を置きます。算木では、その位に何も置きませぬ。算盤では、珠を動かしませぬ。司天監の暦算では、空いた位に丸を記す者もおりますが、帳簿で使う者はおりませぬ。——この書き方では、何もない位にも、必ず印を置く」


 韋明遠は、紙の下半分を示した。


「そして、これが、足し算でございます」


 二つの数が、上下に、位を揃えて並べられていた。その下に線が引かれ、答えが書かれていた。位の上には、小さな印で、繰り上がりが記されていた。


「算盤なら、珠を動かして、答えだけが残ります。この書き方では、上の数と、下の数と、どの位で繰り上がったかと、答えとが、全部、紙の上に残ります」


 韋明遠は、紙から顔を上げた。


「後から、誰が見ても、どこで何をしたかが分かります。千里先の吏員が、この紙を受け取れば、同じ手順で、同じ答えになるかを、確かめられます。どこで間違えたかも、すぐに分かります」


 殿の中が、静かになった。


  ◇


 最初に口を開いたのは、葉正言だった。


「林詳定。私は、この話を、先月、戸部で聞いた」


 葉正言は、卓の上の紙を見下ろしていた。


「はじめは、反対だった。国中の吏員に、見たこともない印を覚えさせる手間を考えれば、割に合わぬと思った。算盤を使えぬ吏員はおらぬ。漢数字を読めぬ吏員もおらぬ。そこへ、外の国の印を持ち込めば、かえって間違いが増える」


 修平は、黙って聞いていた。


「今も、その心配は消えておらぬ」


 葉正言は、そう言ってから、韋明遠の足し算の紙を指した。


「だが、これを見て、一つだけ、認めざるを得なかったことがある。——戸部の検めの役人は、今、州県から上がってきた帳簿を検めるとき、帳簿の答えが正しいかどうかを確かめるために、はじめから算盤を弾き直している。帳簿一冊を検めるのに、三日かかる。この書き方なら、途中の計算が紙に残っている。検めの役人は、どこかの一行を選んで、その一行だけを確かめればよい。一冊が、一日で済むかもしれぬ」


 葉正言は、顔を上げた。


「私が認めるのは、そこまでだ。検め、再計算、それから、中央と地方の帳簿の書式を揃えること。その役に立つなら、使ってもよい。それ以上のことは、まだ分からぬ」


 修平は、深く頭を下げた。


 それで、十分だった。


「一つ、申し添えます」


 修平は、言った。


「この書き方は、漢数字や算盤を廃するためのものではありません。算盤は、手元の計算に、引き続き使えばよいのです。商人の帳場も、今のままでよい。ただ、国の帳簿、国と地方の間でやり取りする数、後から誰かが検算せねばならない数だけ、この書き方で残す。——計算は算盤で。記録はこの書き方で。そういう分け方で、よいと思います」


 胡敬之が、腕を組んだ。


「吏員に覚えさせるのに、どれくらいかかる」


「九つの印と、丸一つです。それに、位を揃えて書く作法。算盤を使える吏員なら、ひと月もあれば」


 韋明遠が、横から言った。


「司天監の見習いに、試しに教えてみました。十日で、足し算と引き算は書けるようになりました。掛け算は、もう少しかかります」


 胡敬之は、しばらく考えていた。


「……まずは、戸部と、都の近くの転運司で、試してみるか」


  ◇


「もう一つ、申し上げたいことがございます」


 修平は、韋明遠から、別の紙の束を受け取った。


「物の値の、調べ方です」


 趙祺が、わずかに身を乗り出した。


「先日、王参政に、国の支出がどこまで効くかは、物の値と、職のない人の数と、工房の動きを見なければ分からない、と申し上げました。その数が、この国には、今、ほとんどありません」


 張文謹が、初めて口を開いた。


「物の値なら、各州から、毎年、報告が上がってきておるはずだが」


「上がってきております」


 修平は、頷いた。


「戸部の書庫で、その報告を拝見しました。州ごとの、米、塩、布、鉄の値。毎年、秋に一度。国中の州から、漏れなく」


「では、足りておるではないか」


「その報告が、国中の州から全部揃うのに、どれくらいかかっておりますか」


 張文謹は、答えなかった。


 代わりに、葉正言が答えた。


「遠い州からは、翌年の夏までかかる。揃ったものを戸部で足し合わせ、まとめるのに、さらに半年。——去年の秋の値が、今年の暮れに、ようやく一枚の表になる」


「一年と、少し」


 修平は、言った。


「その表は、正確です。国中の州から漏れなく集めた数ですから。けれど、中央の行が、今月、利を上げるか下げるかを決めるとき、一年前の物の値を見て決めるわけにはまいりません。今月の物の値が要る。少なくとも、先月の」


 陳世昌が、口を開いた。


「天下の州県から漏れなく台帳を集めることこそ、正確な統治の基だ。漏れのある数で国を論じるのは、危うい」


 修平は、陳世昌の方を向き、拝礼した。


「陳参政の仰る通りです。漏れなく集める調べは、要ります。国の戸口、田の広さ、税の基となる台帳。そういうものは、何年かに一度、国中を漏れなく数えねば分かりません。私は、それを改めようとは思いません」


「では」


「ただ、それとは別の目的の調べが、要るのです」


 修平は、紙の束を開いた。


「天下をすべて数える調査は必要です。しかし今月の物の値を知るために二年かければ、その数は正確でも、政の役には遅すぎます」


  ◇


 修平は、紙の束の一枚目を、卓の上に置いた。


 大宋の地図だった。いくつかの都市に、朱で丸がつけられていた。


「全部の州を調べる代わりに、いくつかの大きな市を選びます。開封。杭州。成都。それに、広州、泉州、江陵、京兆府」


 修平は、朱の丸を、一つずつ指した。


「それぞれの市に、決まった調べの場所を置きます。決まった店、決まった市場。そこで、決まった品の値を、毎月、同じ日に、同じやり方で調べて、都へ送らせる」


「決まった品とは」


「民の暮らしに要る品を、ひとまとめにした籠を作ります」


 修平は、紙の束の二枚目を置いた。


 表だった。米、麦、塩、油、醤、酒、茶、布、薪、炭、紙、鉄の鍋、それに、家の借り賃。品の名の横に、それぞれの量が書かれていた。


「江南西路の、ある農家の帳面を思い出しながら、作りました」


 修平は、少し微笑んだ。


「民の一家が、一月に、何をどれだけ買うか。その籠の中身を、毎月、同じ店で調べて、籠全体でいくらになるかを見る。先月より高くなったか、安くなったか。去年の同じ月と比べてどうか」


「七つの市だけで、国中の値が分かるのか」


 陳世昌が、疑わしげに言った。


「国中の値、そのものは分かりません」


 修平は、正直に答えた。


「けれど、国中の値の動きの向きと、およその大きさは、分かります。開封で米が上がり、杭州でも上がり、成都でも上がっているなら、国中で上がっているのでしょう。開封だけが上がっているなら、開封に何かあったのでしょう。毎月、同じやり方で調べ続ければ、その動きが見えてきます」


 修平は、紙を指で叩いた。


「漏れなく数える調べは、国の形を知るため。決まった場所で毎月調べる調べは、国の動きを知るため。二つは、目的が違います。どちらかを捨てるのではなく、使い分けるのです」


 陳世昌は、しばらく黙っていた。


 それから、口の端をわずかに上げた。


「王参政から聞いた。半分は正しい、とそなたが言ったそうだな」


「……申し訳ございません」


「謝ることはない。半分は正しいと言われて、残りの半分を聞きたくなった。今のが、その残りの半分か」


「そのつもりです」


 陳世昌は、低く笑った。


  ◇


「その籠の値を、どう使う」


 趙祺が、初めて問うた。


 修平は、正面の座に向き直り、拝礼した。


「陛下。今すぐには、使いません」


「使わぬ」


「使える数に、なっていないからです」


 修平は、顔を上げた。


「一月の数だけでは、何も分かりません。それが高いのか低いのか、比べるものがないのです。三月、半年、一年と、同じやり方で調べ続けて、ようやく、値の動きの筋が見えてきます。凶作の年と、豊作の年。北で戦があった年と、なかった年。それを並べて、はじめて、今の値の動きが、いつもの揺れなのか、いつもと違うのかが分かります」


 修平は、少し間を置いた。


「ですから、まずは、調べを始めさせてください。一年、あるいは二年、数を溜めさせてください。その数が溜まったとき、中央の行が、それを見て利を決められるようにします。今の段階では、中央の行もまだございませんが」


 趙祺は、しばらく修平を見ていた。


「急がぬのだな」


「急いで作った数は、間違います。間違った数で決めた政は、民を困らせます」


 趙祺は、頷いた。


 それから、李徳彰の方を向いた。


「李丞相。数の書き方は、戸部と、都の近くの転運司で試させよ。物の値の調べは、七つの市で始めさせよ。どちらも、一年の後に、改めて議す」


「承りました」


 廷議が終わったとき、殿の外は、薄い雪が舞い始めていた。


  ◇


 同じ冬、河西路の北辺。


 狄承武は、長城の指揮所で、一通の命令書を読んでいた。


 甘州の経略安撫司を経て、枢密院から届いたものだった。封を切る前から、紙の厚さで、ただの軍令ではないことが分かった。


 命令書には、こう書かれていた。


 この二年、西域藩王府、極西藩王府、および西方との長距離の交易に従事する商人たちから、断片的な報せが相次いで寄せられていた。ヴォルガル帝国のさらに西方に、一つの大きな帝国が存在する。その帝国は、自らをロマニエ帝国と称し、ヴォルガル帝国と長く国境を接し、しばしば戦っている。西の果てにはロマニエの名を冠するもう一つの国があるといい、商人たちはこれと区別して、東ロマニエ帝国と呼んでいる。


 都堂と枢密院は、これらの報せを、それぞれ別の経路から来たものとして照らし合わせた。藩王府の報せと、商人の報せと、捕虜の供述とが、互いに食い違わぬことを確かめた。


 その上で、次のことを決した。


 西方へ、一つの遠征を送る。外交の使節を送り、その国の実情を調べる。軍事の調査の者を送り、その国の軍と、ヴォルガル帝国との戦いの実情を調べる。そして、それらを護るための部隊を送る。


 遠征の指揮官の一人として、河西路北辺の禁軍指揮使、狄承武を任ずる。


 狄承武は、命令書を読み終えて、しばらく動かなかった。


「指揮使」


 戸口で、韓奇捷が待っていた。命令書が届いたと聞いて、飛んできたのだろう。


「何と」


 狄承武は、命令書を韓奇捷に渡した。


 韓奇捷は、それを読み、顔を上げた。


 目が、輝いていた。


「西へ」


「西へだ」


「ヴォルガルの向こうへ」


「向こうへ、回り込んでいく。ヴォルガルの領を通らずに。道は、まだ分からん。それを調べるのも、仕事のうちだ」


 狄承武は、窓の外を見た。


 長城の向こうに、雪を被った平原が、どこまでも広がっていた。この夏、あの平原の向こうから、術者の光弾が飛んできた。あの若い捕虜が、足を引きずって運ばれてきた。


 あの捕虜は、今、甘州の牢で、少しずつこちらの言葉を覚えているという。


「軍議は、甘州で開かれる。来月だ」


 狄承武は、命令書を畳んだ。


「補給の算段から始める。西へ何千里行くのか分からぬ。馬と、糧と、矢と、それを買う銭を、どこでどう手に入れるのか」


「銭、ですか」


 韓奇捷が、少し意外そうな顔をした。


「会子は、西では通るまい」


 狄承武は、言った。


「北辺ですら、通らんのだ」


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