第二巻 新法 第十回 財政乗数
参知政事・王懐遠が詰所に姿を見せたのは、秋も深まった、ある雨の午後だった。
修平は、その日、韋明遠と二人で、数の書き方について話し込んでいた。机の上には、漢数字で書いた検算の紙と、修平が試しに書いてみた別の書き方の紙が並んでいた。
戸口に立った男を見て、韋明遠が、慌てて立ち上がった。
修平も、立ち上がった。
四十代の後半。李徳彰よりいくらか背が高く、顔の輪郭が柔らかい。紫の官服の裾が、雨に濡れて色を濃くしていた。
「参知政事・王懐遠だ」
男は、軽く会釈した。
「李丞相の使いで来た。都堂で、そなたに聞きたいことが出た」
修平は、王懐遠に椅子を勧めた。王懐遠は座ると、机の上の紙を、ちらりと見た。二種類の数の書き方を、見比べるように。
それから、修平に向き直った。
「京西路の堤のことは、聞いているな」
「はい。国の証文で、費えを賄う話を、戸部で詰めております」
「その話が、都堂に上がった」
王懐遠は、指を組んだ。
「都堂は、証文そのものについては、まだ決めておらぬ。だが、その議論の中で、陳参政が一つ問うた。——国が百貫を使えば、国の商いも、百貫だけ良くなるのか、と」
◇
「陳参政は、こう言われた」
王懐遠は、陳世昌の言葉を、そのまま伝えた。
「堤を直す費えに、百万貫を使う。それは、堤が直るという意味では、百万貫の値打ちがある。だが、それだけのことだ。国が百万貫を使えば、その百万貫は、商人や民の手から、国を通って、堤を作る人足の手に移るだけだ。国の商いが良くなるわけではない。むしろ、証文で商人から百万貫を借りれば、その商人が他に使えたはずの百万貫が、なくなる。差し引きで、国の商いは、何も変わらぬ。——そう言われた」
修平は、少し感心した。
陳世昌は、参知政事の中でもやや保守的な人物だと聞いていた。旧い制度の現場の声を代弁する、と。その陳世昌が、これほど筋の通った問いを出したのだ。
「李丞相は、何と」
「李丞相は、林詳定に聞いてみよ、と言われた。それで、私が来た」
王懐遠は、少し笑った。
「私も、聞いてみたかった。国が百貫を使えば、百貫で終わるのか」
◇
「一つ、例を作ってみます」
修平は、新しい紙を広げた。
「国が、堤を直すために、百貫を使ったとします。その百貫は、まず、堤を直す人足の手に渡ります」
紙の左に、「人足 百貫」と書いた。
「人足は、その百貫をどうするか。全部を蔵にしまい込むでしょうか」
「しまい込まぬな」
王懐遠が、答えた。
「人足は、日銭で暮らしている。米を買い、塩を買い、酒を飲む」
「では、百貫のうち、八十貫を使い、二十貫を貯めるとします」
修平は、「人足」から矢印を引き、「米屋・塩屋・酒屋 八十貫」と書いた。
「八十貫は、米屋と塩屋と酒屋の手に渡ります。米屋たちは、それをどうするか」
「また、使う」
「その八割を使うとすれば、六十四貫」
修平は、矢印をもう一本引いた。「米屋たちが使う 六十四貫」。
「六十四貫は、米屋に米を売った農家や、塩を運んだ船頭や、酒を造った酒蔵の手に渡ります。その八割、五十一貫が、また使われる。その八割が、また」
修平は、矢印を、紙の下へ向かって、何本も引いた。数字が、少しずつ小さくなっていった。
「最初の百貫が、次々に誰かの稼ぎになり、その一部が使われて、また誰かの稼ぎになる。全部を足し合わせると」
韋明遠が、算木を並べていた。
手が、止まった。
「……五百貫」
韋明遠は、顔を上げた。
「八割ずつ使い続ければ、足し合わせて、最初の百貫の五倍になります」
王懐遠の目が、わずかに大きくなった。
「五倍」
「この例の通りなら、です」
修平は、すぐに付け加えた。
「これは、うんと削った例です。人足が八割使う、米屋も八割使う、みんなが八割使う、と決めてしまっている。本当は、そうはなりません」
◇
「どこが、違う」
「まず、人が稼ぎのうちどれだけを使うか」
修平は、紙の余白に、書いた。
使う割合。
「稼ぎが増えたとき、そのうちどれだけを使い、どれだけを貯めるか。人足は、日銭で暮らしているから、多くを使うかもしれない。けれど、裕福な商人なら、稼ぎが百貫増えても、そのうち多くを蔵にしまうかもしれない。使う割合が高いほど、この連なりは長く続き、足し合わせた額は大きくなる。使う割合が低ければ、すぐに細くなる」
修平は、もう一行書いた。
漏れ。
「それから、連なりの途中で、漏れていくものがあります。一つは、貯めること。もう一つは、税。稼ぎの一部は、税として国へ戻ります。もう一つは、外の国の物を買うこと。人足が、外の国から来た布を買えば、その銭は、この国の中の誰かの稼ぎにはならず、外へ出ていってしまう」
「漏れが多いほど、五倍にはならぬ」
「はい。二倍かもしれない。一倍を少し超えるくらいかもしれない」
王懐遠は、腕を組んだ。
「では、陳参政の言う、差し引きで何も変わらぬ、というのは」
「そういう時もあります」
修平は、言った。
「国の商いが、無理なく作れる量いっぱいで回っている時を、考えてください。田も、倉庫も、人も、みんな使われている。そこへ、国が百貫を使って、堤を直す人足を雇おうとする。けれど、仕事のない人足は、もういません。国が人足を雇えば、その人足は、どこか別の仕事から引き抜かれてくる。国が石や材木を買えば、その石や材木は、どこか別の商人が買うはずだったものです」
「差し引きで、何も変わらぬ」
「変わらないか、あるいは、人足の賃金や、石や材木の値が上がるだけ、ということもあります。それに、国が証文で銭を借りれば、世の中で貸せる銭を国が先に借りてしまうので、利が上がり、商人が倉庫を建てるのを控えるかもしれない。国が使った分だけ、商人の使う分が押しのけられる」
王懐遠は、しばらく黙っていた。
「では、陳参政が正しいのか」
「半分は、正しいと思います」
修平は、言った。
「国の商いに隙間がない時には、陳参政の言う通りになりやすい。——けれど、今の京西路は、どうでしょう」
◇
修平は、戸部から回ってきた京西路の報告を、机の端から引き寄せた。
「堤が切れて、三つの県の田が水に浸かりました。その田で働いていた農家は、今、仕事がありません。米を作れないのですから。その農家に米や塩を売っていた商人も、客が来ないので、商いが細っています。村の鍛冶屋は、農具の修理の注文が来ない」
修平は、報告の頁を指した。
「今の京西路には、使われていない人の手があり、使われていない商いがあります。そこへ、国が百貫を使って、堤を直す人足を雇う。人足になるのは、田が水に浸かって仕事のない農家です。その農家は、稼いだ銭で、米や塩を買う。細っていた商人に、客が戻る。鍛冶屋にも、注文が来る」
「誰からも、何も、引き抜いておらぬ」
「はい。遊んでいた手を、動かしているだけです。国が使った百貫は、誰かの使うはずだった百貫を押しのけているのではない。何もしなければ、何も生まれなかったところに、稼ぎを生んでいる。そういう時には、百貫は、百貫では終わらない」
修平は、紙に書いた。
「深い不況で、職のない人が多く、工房が止まっている時。中央の行が、利が上がるのを抑えている時。民が、手元に銭がなくて、稼ぎが入ればすぐに使う時。——そういう時には、国の支出が、国の商いを大きく支えます」
王懐遠が、ゆっくりと頷いた。
「もう一つ、陳参政の問いには、含まれていることがあります」
修平は、付け加えた。
「国が証文で借りた銭は、いつか、税で返すか、借り換えるかせねばなりません。民がそれを見越して、将来の税に備えて、今、銭を貯め込むなら、国が使った分だけ、民が使うのを控える。差し引きで、何も変わらない。——私の国でも、そう唱えた学者がいました」
「それも、正しいのか」
「そうなるには、いくつもの条件が要ります。民が、国の証文がいつ、どれだけの税で返されるかを、正しく見込めること。民が、自分の生きているうちに、その税を払うと考えていること。民が、手元に銭がなくても、将来の稼ぎを当てにして、いくらでも借りられること。——そういう条件が、全部揃えば、その通りになります」
王懐遠は、苦笑した。
「京西路の、田が水に浸かった農家が、将来の税を見込んで、銭を貯め込むとは思えぬな」
「私も、そう思います」
◇
「では、林詳定」
王懐遠は、紙の上の、矢印の連なりを指した。
「国が百貫を使うのと、民の税を百貫減らすのと、どちらがよい。どちらも、国の懐から百貫が出ていくことには変わらぬ」
「入り方が、違います」
修平は、紙の横に、二つの矢印を並べて描いた。
「国が、堤を直すために百貫を使えば、最初の一歩で、百貫が丸ごと、人足の稼ぎになります。人足への発注そのものが、百貫の買う力です」
「税を百貫減らせば、民の手元に、百貫が残ります。けれど、民は、その百貫を全部使うでしょうか。八十貫を使い、二十貫を貯めるなら、最初の一歩の買う力は、八十貫です」
王懐遠が、眉を上げた。
「同じ百貫でも、入り口で、もう差がつく」
「はい。そして、誰の税を減らすかでも、違います。日銭で暮らす者の税を減らせば、多くを使うでしょう。裕福な商人の税を減らせば、多くを貯めるかもしれない。誰に配るか、何を買うか、何を作るか。——同じ百貫でも、どこへ入れるかで、効き方がまるで違う」
修平は、紙に書いた。
「国の支出は、いくら使うかだけでなく、いつ、誰へ、何へ、どういうやり方で使うかが大事です。今年の不況を支えるなら、すぐに稼ぎになり、すぐに使われる支出がいい。国の作る力そのものを大きくしたいなら、堤や運河や倉庫のように、長く使えるものに使う方がいい。——二つは、同じではありません」
◇
王懐遠は、しばらく紙を見ていた。
やがて、口を開いた。
「そなたの話を聞いていると、国が銭を使えば、景気は良くなる。使えば使うほど、良くなる。——そう聞こえる」
「そうではありません」
修平は、首を振った。
「国の商いに隙間があるうちは、国が使えば、作る量が増え、雇われる人が増えます。けれど、隙間が埋まっていくにつれて、同じように使っても、作る量はあまり増えなくなる。使えば使うほど、増えるのは作る量ではなく、物の値の方になる」
修平は、紙の上に、一本の曲線を描いた。はじめは急に上がり、次第に寝ていく曲線だった。
「無理なく作れる量に近づくほど、国が足した買う力は、値の上がりに消えていきます。——百貫の支出は、百貫で終わらない。しかし、いつでも二百貫になるわけでもない」
王懐遠は、その曲線を、指でなぞった。
「では、どこで止めればよいか、どう分かる」
「物の値を見ます。職のない人の数を見ます。工房がどれだけ動いているかを見ます。——それを見るための数が、今、この国には、ほとんどありません」
修平は、韋明遠の方を見た。
「今日、ここで、韋算学とその話をしていたところです」
王懐遠は、机の上の、二種類の数の書き方の紙に、改めて目をやった。
一方は、漢数字が縦に並んだ、韋明遠の検算の紙。
もう一方は、修平が書いた、見慣れない記号が横に並んだ紙だった。
「これは、何だ」
「数の書き方です」
修平は、紙を王懐遠の前に置いた。
「国中の帳簿を、同じ物差しで書き、都で足し合わせ、誰でも検算できるようにするための。——近いうちに、御前で、お話ししたいと思っております」
王懐遠は、その紙を、しばらく黙って見ていた。
0、1、2、3。
それから、紙を置き、立ち上がった。
「陳参政には、今日の話を伝えておく。半分は正しい、と言われたと聞けば、あの方は、かえって喜ぶだろう」
王懐遠は、戸口で振り返った。
「林詳定。その数の書き方の話、李丞相にも伝えておく。御前の廷議を、早めに開けるよう」
雨の中を、王懐遠は帰っていった。
修平は、机の上の、横に並んだ記号の紙を見下ろした。
韋明遠が、隣で、その紙を覗き込んでいた。
「林詳定。この、丸い印」
韋明遠は、「0」を指した。
「算盤の上では、珠を動かさぬ桁。算木の上では、何も置かぬ桁。司天監の暦算では、空いた桁に丸を記す者もおります。されど、帳簿の数にそれを使う者はおりませぬ。それを、国中の帳簿に書かせるのでございますな」
「はい」
「何もないことを、誰の目にも見える形で書く」
韋明遠は、しばらく、その丸い印を見つめていた。
「……面白うございます」




