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第十巻 東門 第七回 散兵線

 畝は膝の高さだった。


 郁文遠は畝の陰に腹ばいになっていた。頬に黒い土がついていた。土は夏の日に温められて、乾いた甘い匂いがした。


 畝の向こう、三百歩ほど先に石垣があった。村の牛を囲う低い石垣だった。


 石垣の陰からときどき矢が来た。矢の間にときどき橙色の光の弾が来た。光の弾は畝の上の麦を焼いて土に潜った。


「伏せたまま」


 郁文遠の脇で段七が言った。


 郁文遠は少尉の位を受けて、まだひと月だった。陳橋の軍の学び舎を去年の秋の終わりに出た。第一師団で半年、小隊の長の下について、この春の終わりに考課を受けた。——考課の紙は師団の官から谷長順の手を経て、郁文遠に渡された。


 郁文遠の小隊は谷長順の中隊の第二小隊だった。


 小隊の一番年かさの下士が段七だった。


  ◇


 夏の半ばのヤルヴェンの北六十里だった。


 ヤルヴェンの後、メルキアの軍は北へ退いた。退くとき、一度に退かなかった。村ごとに、林の列ごとに、石垣ごとに小さな隊を残した。——残った隊は半日か一日粘って、また退いた。


 方面軍は夏の間、その小さな隊を一つずつ剥がしながら北へ進んでいた。


 大きな戦はなかった。小さな戦が毎日あった。


「中隊の斉射で撃ち崩すには」


 郁文遠は段七に言った。


「石垣が低すぎる。——敵が見えない」


「見えないものは撃たない」


 段七は言った。


「撃つのは、頭が出たとき。矢を番えるとき。光を張る者が手を上げるとき。——一人ずつ撃つ。組ごとに誰がどこを見るか決めて」


 郁文遠は頷いた。


 学び舎で習ったことだった。射手の鎖。五歩の間。組の長が組の撃つところを決める。——習ったことと、今目の前にあることとが同じだと分かるのに、郁文遠は少し時がかかった。


「第一の組。石垣の左の端。第二の組、真ん中。第三の組、右」


 郁文遠は小さな声で言った。


 段七が組の長たちに手で合図を送った。


  ◇


 撃ち合いは半刻続いた。


 半刻の間に郝小虎が二十発撃った。


 郁文遠は郝小虎の脇の畝まで這っていった。


「残りは」


「十四」


 郝小虎は言った。息が荒かった。


「朝、三十四発持って出た。——半刻で二十」


 郁文遠は郝小虎の包みの袋を見た。袋の口が開いていた。


「撃った二十発で石垣の頭はいくつ落ちた」


 郝小虎は答えなかった。


「分からないなら、それが答えだ」


 郁文遠は言った。


「この石垣の後ろに次の林の列がある。その後ろにまた村がある。——今日の日暮れまでにあと二つ剥がす。弾の車は明日の朝まで来ない」


 郝小虎は袋の口を閉じた。


 段七が郁文遠の後ろから這ってきた。


「組ごとに残りを数えます」


 段七は言った。


「数えて小隊の長に上げる。——小隊の長が中隊の長に上げる。半刻ごとに」


「半刻ごとに」


「朝、中隊の長がそう決めました」


 段七は言った。


「春までは日に一度だった。——ヤルヴェンで弾が足りなくなってから、半刻ごとに」


  ◇


 日が傾く前に、石垣の後ろの敵が退いた。


 郁文遠の小隊は石垣まで出た。


 石垣の陰に矢の折れたのが散っていた。灰色の石の粉の小さな袋が一つ落ちていた。——郁文遠は袋を拾って帳面の間に挟んだ。


「止まる」


 谷長順の使いが来た。


「中隊はこの石垣の線で止まる。夜はここで明かす。——次の林の列は明日」


 段七が郁文遠を見た。


 郁文遠は頷いた。


「掘れ」


 郁文遠は言った。


 兵たちが円い匙を出した。


 石垣の手前に浅い溝を掘った。掘った土を石垣の低いところに盛った。——膝の高さの溝と、腰の高さの土の盛り。組ごとに一つ。組と組との間に細い溝を繋いだ。


 半刻で終わった。


 去年の春、兵の勤めの決まりに書き足された一行があった。——数刻を越えて止まるときは、兵が自ら浅く掘る。


 この夏、その一行は決まりの頁の上の字ではなかった。止まれば誰が言わなくても、兵は匙を出した。


「石垣だけでは足りないのか」


 郁文遠は段七に訊いた。


「石垣は、敵もどこにあるか知っています」


 段七は言った。


「術者は石垣の後ろに光の弾を落とす。——石垣の手前の溝は知らない」


  ◇


 その夜、隣の中隊が囲まれた。


 第一師団の第二旅団の一つの中隊だった。この夏の初めに閔承祖が第四師団の長として出た後の旅団だった。郁文遠の中隊から東へ一里半。森の縁の小さな村に宿っていた。


 夜半に森の中からメルキアの兵が出てきた。


 森を回ってきたのだった。昼の間、林の列で粘っていた隊とは別の隊だった。——昼の間に森の中を半日かけて回っていた。


 郁文遠は東の空が光るのを見た。光の弾の橙色だった。続いて針銃の斉射の音がした。一度。二度。


 それから音が途切れ途切れになった。


「斉射ではない」


 段七が言った。


「組ごとに撃っている。——組の長が撃つところを決めて」


 谷長順が中隊を起こした。


「動くな」


 谷長順は言った。


「命は来ていない。——東の中隊は自分で持っている」


 夜明けまで東の空は何度も光った。


 夜明けに第二旅団の控えの大隊が森の縁の道を回って村に着いた。


 囲んでいたメルキアの兵は森の中へ退いていた。


  ◇


 昼過ぎに、郁文遠は谷長順に連れられて東の村へ行った。


 村の真ん中に小さな祠があった。祠の周りに溝が掘られていた。溝の外に荷車が三台倒されていた。——中隊は村の真ん中の祠の周りに小さくまとまって夜を明かしていた。


 中隊の長は腕を布で吊っていた。


「最初の半刻で、村の東の端の小隊が崩れた」


 中隊の長は言った。


「小隊の長が倒れた。——下士が小隊を祠まで下げた。私は下げろ、とは言っていない。言う前に下がってきた」


 中隊の長は祠の脇の溝を指した。


「下がってきた下士が最初にしたことは、弾を数えることだった。——それから組ごとに撃つところを決めた。それから使いを二人、別々の道で旅団へ出した。一人は森の縁の道で。一人は畑の畝の間を這って」


「どちらが着いた」


 谷長順が訊いた。


「畝の間の方」


 中隊の長は言った。


「縁の道の使いは朝、道の脇で見つかった」


 郁文遠は祠の前に座り込んでいる兵たちを見た。


 中隊の傷は、死んだ者十一人。傷ついた者三十あまり。——一つの中隊が夜の間、森から来た敵に囲まれて、それだけで済んでいた。


  ◇


 祠の裏で医の兵が担架を並べていた。


 郁文遠は医の兵の一人に訊いた。


「救う所はどこに」


「村から一里後ろです」


 医の兵は言った。


「一里」


「射手の鎖になってから、兵が広がりました」


 医の兵は言った。


「中隊が一つの所に固まっていた頃は、救う所まで四百歩だった。——今は中隊の端から端まで四百歩。端で倒れた兵を担架で救う所まで運ぶのに、半刻」


 医の兵は担架の布をたたんだ。


「昨夜は救う所まで運べなかった。——祠の裏で夜明けまで待たせました。三人、待つ間に死にました」


 郁文遠は帳面に書いた。


 ——射手の鎖、兵を広ぐ。広げれば、敵の弾は当たりにくし。広げれば、倒れし兵を運ぶ道、長し。


 書いてから、郁文遠はしばらくその二行を見ていた。


 どちらも正しかった。


  ◇


 その夕方、郁文遠は石垣の陰で図を描いていた。


 師団から渡されていた図ではなかった。帳面の一頁に自分で描いた図だった。


 石垣。林の列。溝。村の祠。——それと、昼に石垣の近くの畑で会った村の老いた男から聞いたこと。


 老いた男は、次の林の列の向こうに古い水の道がある、と言った。牛を洗う溝だった。深さは腰まで。今は水が少ない。——林の列の陰から溝を辿れば、敵に見られずに村の北の端まで行ける。


 郁文遠は溝の線を描いた。脇に書いた。


 ——水の道。腰まで。今、水少なし。村の老いたる者、言う。確かめず。


 明日、この中隊は次の林の列を剥がす。剥がした後、中隊は東へ移る。——この石垣の線には後ろから別の中隊が来る。


 郁文遠は帳面の頁を切り取った。


 後ろから来る中隊の小隊の長に渡すつもりだった。


 段七が覗き込んだ。


「確かめず、と書く」


 段七は言った。


「書かなければ、読む者は確かめたと思う」


「学び舎で習いました」


 郁文遠は言った。


「敵を見る課の哈特どのがそう書いていた、と」


 段七は少し笑った。


「私は下士の学び舎で習った。——同じことを」


  ◇


 同じ夏、第三師団の一つの大隊が半日、道に迷った。


 旅団からの命の文に升の番号が書かれていなかった。——ヴィルシャの村へ出でよ。


 ヴィルシャの村は図の上に二つあった。一つは升の百四十一。もう一つは升の百四十七。どちらも水の湧くところの村だった。


 大隊の長は近い方の百四十一へ出た。旅団が言ったのは百四十七だった。


 その日、百四十七の村の脇の林の列で隣の大隊が半日、一つで敵を受けた。


 命の文を書いたのは旅団の若い官だった。電信がその朝、二度切れていた。切れた線の代わりに使いの馬で命を送った。——急いで書いた。升の番号を書く欄を飛ばした。


 旅団の長は若い官を叱らなかった。


 命の文の形の紙の升の番号の欄を赤い枠で囲ませた。枠の中が空いている文は、報せの兵が受け取らない。——受け取らずに、書いた者に返す。


 平州で通詞と測り手とが作った五つの欄の表の一番右の欄に、この夏、字が一つ書き足された。


 ——ヴィルシャ。升の百四十一と百四十七。二つあり。命には必ず升の番号を。


  ◇


 開封の長い部屋の奥の古い戦の机に、夏のひと月の間の中隊の報せが積まれていた。


 林の列を剥がした方面軍の二十八の中隊の。——同じ形の紙だった。場所。刻。敵。撃った弾。倒した敵。傷ついた者。死んだ者。救う所までの道。


 戦史の官が二十八の中隊を並べていた。


 同じ射手の鎖で、同じ林の列を剥がした二つの中隊があった。


 一つの中隊は、傷ついた者四人。撃った弾、千二百。


 もう一つの中隊は、傷ついた者二十九人。撃った弾、三千。


「何が違う」


 呉承略が訊いた。


「地も、敵も、ほぼ同じ」


 戦史の官は言った。


「違うのは中隊の長です。——一つ目の中隊の長は、林の列を剥がす前に斥候を二度出している。敵がどこに何人いるかを見てから、組ごとに撃つところを決めた。二つ目の中隊の長は斥候を出さずに、斉射から始めた」


「教えの書に、斥候を二度出せ、と書くか」


 呉承略が言った。


「書いても」


 戦史の官は言った。


「次の林の列では斥候を三度出す方がよいかもしれない。一度でよいかもしれない。——教えの書に行を増やせば、中隊の長は行を読む。敵を読まなくなる」


 呉承略はしばらく二つの中隊の紙を見ていた。


「行は増やさない」


 呉承略は言った。


「二つの紙を並べて、陳橋の学び舎で読ませる。——下士の学び舎でも。なぜ違ったのかを候補の者に書かせる」


  ◇


 机の脇に、韋明遠の統計局から借りた計算の機械が一台置かれていた。夏のひと月の中隊の紙の数を足し上げた表が一枚できていた。


 ——撃ちし弾、百に倒せし敵、一つ。見立て。


 ——尉の官の傷、兵の一倍と半ば。小隊の長、前に立つがゆえ。


 ——電信の切れ、十九度。うち、敵、七。雨と雷、五。車の轍、四。分からず、三。


 ——隊の迷い、十一度。うち、図の誤り、四。命の文の誤り、五。使いの迷い、二。


 呉承略は二つ目の行で目を止めた。


「小隊の長が前に立つ」


「立たねば、鎖が動きません」


 戦史の官は言った。


「立てば撃たれます。——陳橋の学び舎の前の半年に、伏せたまま手で組を動かす稽古を足すよう上げます」


 戦史の官は呉承略にもう二つの束を出した。


 一つ目の束はうまくいかなかったことの束だった。


 ——中隊の縦隊の控え、射手の鎖より遅れ、半刻間が開く。


 ——砲の観る者と中隊と繋がらず。砲の支え、切る。


 ——控えを早く出しすぎ、次の林の列にて控え無し。


「うまくいったことの束より厚い」


 呉承略は言った。


「厚くしました」


 戦史の官は言った。


「うまくいったことは放っておいても皆が覚えます」


 二つ目の束は紙が二枚だけだった。


 一枚は、十二年前の西の遠征の井戸の線の図だった。狄承武の戦役記から、呉承略が十年かけて拾った図だった。——同じ刻の隊の場所が三つか四つ。どの隊にも弾の数は書かれていなかった。


 もう一枚は、この夏のある日の未の刻の方面軍の図だった。


 四つの師団の十六の旅団の九十六の大隊の場所と、弾と、傷ついた者とが同じ未の刻で並んでいた。


 呉承略は二枚を並べて長いこと見ていた。


「十二年で」


 呉承略は言った。


「同じ刻に全部の隊が見えるようになった」


  ◇


 その日の夕方、方面軍の宇文衡から文が一通届いた。


 ——参謀本部に申す。報せと命と、多し。


 宇文衡は書いていた。


 ——中隊より大隊へ、半刻ごとの弾の報せ。大隊より旅団へ、刻ごと。旅団より師団へ、朝、昼、夕。師団より方面軍へ、朝と夕と。方面軍より参謀本部へ、朝と夕と、急の事。報せの欄、十二。——師団の官、報せを書くに夜を使う。夜、図を見る者無し。


 呉承略は文を読み終えて、すぐに筆を取った。


「欄を減らす」


 呉承略は莫子期に言った。


「方面軍から参謀本部への報せの欄は、十二から七へ。——兵。場所。弾。糧。傷ついた者。敵。道。それだけ。残りの五つは急の事のときだけ。旅団から下の報せの形は方面軍が決める。参謀本部は口を出さない」


「残りの五つが要る日もあります」


 莫子期は言った。


「要る日は訊く」


 呉承略は言った。


「訊かれたら答えればよい。——毎日、全部を書かせれば、師団の官は書くことに夜を使う。図を見る目がなくなる」


 呉承略は宇文衡への返しの文の最後に、一行書き添えた。


 ——報せの形は、戦の野の目を奪わぬ程に定むべし。多すぎると言いし者の名を、ここに記す。


 莫子期はその一行を読んで呉承略を見た。


「名を記すのですか」


「記す」


 呉承略は言った。


「多すぎる、と言うのは勇気が要る。——言った者の名が残らなければ、次の戦で誰も言わない」

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