第十巻 東門 第六回 鉄壁の王
ヴォルスラフは卓の上に手を置いていた。
大きな手だった。指の節の一つ一つが胡桃ほどあった。手の甲から手首へ、灰色の細かな鱗が続いていた。
ヤルヴェンの村の北の丘の上の古い館の広間だった。
卓を囲んで十一人が座っていた。
騎士の団の長。王の歩く兵の将が三人。穀物の司。河の司。東の森の郡の長たちの代わりの者が二人。王都の貴族の代わりの者。——それと、帝国の都の魔戦府から遣わされた連絡の官。
卓の上に紙が一枚。
この春の泥の間に、宋の軍の荷車の列を七度襲った。橋を四つ焼いた。——その七度と四つとの後に、宋の軍がどこでどれだけ止まったか。何日で橋を直したか。荷車の列に何人の守りの兵を付けたか。
「宋の軍は」
ヴォルスラフは言った。低い声だった。
「楡関から三百里より先へ一日に運べる糧が、一つの師団に十万斤を少し越える。——泥の間は。道が乾けば、二十五万から三十万」
「三十万で何日戦えるか」
騎士の団の長が訊いた。ヤロミル、という壮年の角の太い男だった。
「宋の砲が一日に撃つ弾が分からぬ」
ヴォルスラフは言った。
「分からぬ。——けれど、宋の軍は弾を使い切る前に止まる軍だ。泥の間、止まった。止まって道を直した。止まる軍は弾を数えている」
◇
「セレン河の岸で迎えるべきです」
王の歩く兵の将の一人が言った。
「河を背に。王都の前の最後の線で」
「河を背にすれば、負けたとき兵が河に落ちる」
ヴォルスラフは言った。
「王都の前まで退けば。——王都の市と倉と河の港とが戦の野になる」
穀物の司が口を開いた。セドナ、という年かさの女の官だった。
「ヤルヴェンの南の村々は。——種を蒔き終えたところです。ヤルヴェンで戦えば、その畑が戦の野になります」
「なる」
ヴォルスラフは言った。
「ヤルヴェンの南の七つの村。畑を踏む。——けれど、王都の南の四十の村の畑は踏まずに済む」
ヴォルスラフは卓の上の紙を裏返した。裏に図が描かれていた。
「ヤルヴェンでは、カルナの川の北の支流が平らに出る。支流の堤が東西に走る。堤の北に防ぎの林の列が四つ。村が三つ。——堤と林と村とを繋げば、野が城になる」
魔戦府の連絡の官が初めて口を開いた。
「村を焼いて宋の軍の宿りを奪えば」
「焼かない」
ヴォルスラフは言った。
「村を焼けば、村の者が北へ逃げる。逃げた者を王都が養う。——王都の倉は今年の冬を越すのがやっとだ」
連絡の官は何か言いかけた。
ヴォルスラフは連絡の官を見た。
「都にはそう書いて送ってくれてよい。——メルキアの王は村を焼かぬ、と。焼かぬ理由も書いて」
◇
韓奇捷はヤルヴェンの南、十二里の低い丘の上で遠眼鏡を下ろした。
夏の初めの朝だった。
畑の麦が膝の高さまで伸びていた。その向こうに堤が東西に走っていた。堤の上に人の影が並んでいた。
堤の北の防ぎの林の列の間に旗が立っていた。
「参謀本部の案は」
韓奇捷は言った。
「堤の真ん中を打つ」
宇文衡は図を広げた。
「堤の真ん中に村が一つ。村の前に砲を集める。——参謀本部の盤で十一度のうち七度、それが一番よかった」
「盤の堤はどこから来た」
「冬に捕らえた者の話と。互市の商人の図と」
韓奇捷は、昨日の夕方に戻ってきた騎兵の斥候の報せを図の脇に置いた。
——堤の東の端。升の百十二。堤、低し。春の泥にて半ば崩る。村の者、直しおる。直し、未だ終わらず。
図の課の若い測り手が、夜のうちに堤の東の端まで這って行っていた。——若い測り手の紙が、斥候の報せの下にあった。
——堤の高さ、真ん中にて、人の背の一倍半。東の端にて、腰。崩れし所、長さ百五十歩。
「東だ」
韓奇捷は言った。
「主に打つところを東へ移す。——真ん中から四里、東」
宇文衡は頷いた。すでに紙を出していた。
「砲の控えを東へ振り替える文と。弾の車の行き先を変える文と。——開封へは報せを」
「打て」
韓奇捷は言った。
三刻あまりの後、開封から返しが届いた。
——承知す。参謀本部の控えの砲、二十四門、東へ振る。弾の車、升の百八の分かれ道より東へ。
返しの最後に、呉承略の字で一行。
——盤より、戦の野の目を重しとす。
◇
図の上の敵の欄に、一つ白いところがあった。
——術者の障壁の兵。場所、分からず。
敵を見る官が夜明け前に韓奇捷に言った。
「捕らえた者は、障壁の兵は王のそばにいる、と。——別の捕らえた者は、堤の真ん中にいる、と。どちらも見たのではありません。聞いた、と」
「塗るな」
韓奇捷は言った。
「分からぬところをどちらかに塗れば。塗った方へ兵を向ける。——白いまま置いておけ。白いところがある、と皆が知っていれば、白いところから何かが来たとき慌てない」
◇
砲が鳴り始めたのは辰の刻だった。
三十六門と控えの二十四門。——六十門の砲が、堤の東の端の四百歩の幅に弾を落とした。
堤の上の影が崩れた。
崩れてすぐにまた並んだ。
韓奇捷は遠眼鏡の中でそれを見た。——堤の後ろから別の兵が上がってきて、崩れた兵の場所に立った。重い鎧の兵だった。背が高かった。大きな四角い盾を持っていた。
盾の前の空気が薄く光っていた。
針銃の兵の斉射が堤に届いた。
弾は光の前で逸れた。何発かは光を抜けて盾に当たった。何発かは盾の脇を抜けて兵に当たった。——兵は倒れた。けれど、倒れた兵の後ろからまた兵が出てきた。
「崩れない」
宇文衡が言った。
「崩れない」
韓奇捷は言った。
「砲を光のところに集めろ。——一つの光に砲を四つ。光が消えるまで」
砲が一つの光に集まった。
光は三発目で揺れた。五発目で消えた。
消えた光の後ろの兵が、堤の陰に伏せた。——伏せた兵の後ろで別の光が点った。二百歩、西だった。
「交代している」
宇文衡が言った。
「光を張る者が疲れる前に、別の者と代わる。——その間、兵は伏せて待つ」
韓奇捷は脇の報せの兵を呼んだ。
「刻みの香を焚け。——光が点いてから消えるまで。測れ。砲に撃たれているときと撃たれていないときと、分けて」
◇
午の刻に騎士の団が来た。
堤の西の林の列の間から、騎兵が出てきた。重い騎兵だった。馬にも鎧を着せていた。——騎兵は真っ直ぐ東へ野を横切った。砲の並んだ丘の脇を目がけて。
砲の守りの中隊が伏せて撃った。
騎兵の先頭の前に、また光が点った。騎兵の中に術者が混じっていた。
騎兵は光を先頭に立てて、中隊の斉射の中を駆けた。
砲の半ばが向きを変えた。鉛の玉を撒く弾を撃った。
騎兵は砲の丘の三百歩手前で向きを変えた。——変えながら、術者が光の弾を撃った。光の弾は、丘の上の弾の車の一つに当たった。
弾の車が燃えた。
騎兵は林の列の陰へ戻っていった。
砲の隊の長が韓奇捷の所へ走ってきた。
「弾の車を一つ失いました。——砲の三つの隊が今撃てる弾は、あと半日分」
「半日」
韓奇捷は喩徳順を見た。
喩徳順は帳面を開いていた。
「今日の午の刻まで、砲の弾を見込みの一倍と半ば撃っています」
喩徳順は言った。
「見込みは盤の克魯澤どのの表から。——光のある敵を砲で崩すのに要る弾は、表の倍でした。光の欄が空いていたから」
「明日は」
「明日の朝、撃てる弾は今日の三つに一つ」
喩徳順は言った。
「後ろの倉から弾の車が着くのは、明後日の朝です」
韓奇捷は堤を見た。
堤の東の端に、宋の兵が取りついていた。第一師団の第一旅団だった。崩れた堤の百五十歩のところに伏せていた。——あと一押しで堤の北へ出られるかもしれなかった。
「今日はここまでだ」
韓奇捷は言った。
宇文衡が韓奇捷を見た。
「第一旅団は今のところに留まれ。掘れ。——明日は攻めない。弾が着くまで」
◇
同じ刻、第一師団の師団の官の天幕では、誰も堤の話をしていなかった。
費孝先は天幕の奥の卓の前に立っていた。卓の上に紙が十二枚。——前に出た二つの旅団の十二の大隊の報せだった。
大隊ごとに同じ順で書かれていた。
兵。場所。弾。糧。傷ついた者。砲との間。道。
「第一旅団の第二大隊」
師団の糧と弾との官が読み上げた。
「弾、一人に十一発。——朝は六十発。傷ついた者、四十一。救う所まで八百歩。担架の兵、足らず。道、救う所まで畑の中。担架一つ、往き来に半刻」
「第一旅団の第三大隊」
「弾、一人に十九発。傷ついた者、二十六。——砲との間、千二百歩。砲の観る者と繋がらず」
費孝先は紙を一枚ずつ見ていた。
「第二大隊に弾を先に」
費孝先は言った。
「第二旅団の控えの弾の車を一つ、第一旅団へ。——担架の兵を第二旅団の医の兵から二十、回せ。救う所を四百歩前へ出せ。第三大隊と砲の観る者とを繋げ。報せの兵を一組」
師団の官たちが紙に書いて天幕を出ていった。
費孝先は天幕の入り口から外を見た。
堤の方から銃の音がまばらに聞こえていた。方面軍の丘の上では明日、堤を越すか止まるかの議が始まっていると聞いていた。
——堤の向こうのことは方面軍が考える。
費孝先は思った。
師団の今夜の仕事は、十二の大隊の弾と傷ついた者と担架と道とだった。
◇
その夜、砲の丘の麓で鈴が鳴った。
工兵が日暮れに丘の周りの畑に低く縄を張っていた。縄に小さな鈴を下げていた。
鈴の音の方へ、守りの中隊が照らしの火矢を一本上げた。
麦の間に黒い影が二十ほど伏せていた。——刃物と壺とを持っていた。壺の中身は、砲の弾の車に投げ込む油だった。
影は火矢の光の中でしばらく動かなかった。それから麦の中を這って退いていった。守りの中隊は追わなかった。
夜明けに麦の間から壺が三つ見つかった。
砲の隊の長は壺を砲の丘の天幕の前に並べた。
「昼は騎士。夜は這う者」
砲の隊の長は言った。
「この王は砲をよく見ている」
◇
三日目の夜明けに弾の車が着いた。
着いた朝に、堤の北の林の列の旗が少なくなっていた。
斥候が戻ってきた。
——敵、退く。北へ。整えて。殿の兵、林の列に残る。
「追うべきです」
方面軍の作戦の官の中校が言った。
「今なら、退く敵の列の後ろを打てる。——弾は着いた。第一師団と第三師団の控えの旅団が今、出られる」
宇文衡は図を見ていた。
堤の北に野が広がっていた。野の北に、セレン河まで百八十里。
「開封へ報せを」
宇文衡は言った。
三刻あまりの後、開封から返しが来た。
——参謀本部の見る所。追うに慎むべし。第四師団、ボルカの上の渡しにて二日遅る。川の舟、支流の水の減りにて半ば。後ろの弾の車、次に着くは四日後。
——追うならば、追うの限りの線を定む。升の百三十の小川まで。これを越ゆるべからず。越ゆる事あらば、上に上げよ。
——限りの線の内にて追うか否かは、方面軍の長、これを決む。
「小川まで」
中校は言った。
「二十里。——二十里で何が取れる」
「退く敵の殿を崩せる」
宇文衡は言った。
「それ以上は開封が言う通りだ。第四師団が来ていない。弾の車は四日後。——こちらの前が見えている好機は、開封には見えない。開封の後ろが見えている重さは、こちらには見えない」
韓奇捷はしばらく図の上の小川の線を見ていた。
「追う」
韓奇捷は言った。
「小川まで。——第三師団の控えの旅団と騎兵。第一師団は堤に留まれ。小川で止まる。止まったら掘れ」
◇
小川の手前で、追う軍は止まった。
殿のメルキアの兵は、林の列の一つで半日粘って、それから退いた。退いた後の林の列に、両軍の倒れた兵が残っていた。
夕方、林の列の北の畑の中に、白い布を竿に括った騎兵が一人現れた。
メルキアの騎士だった。鎧を脱いでいた。
騎士は、通詞を呼んでくれ、と言った。
通詞と第三師団の上校とが、畑の真ん中へ出ていった。
騎士は言った。
「林の列と堤との間に、両方の傷ついた者が残っている。——日が沈むまでの二刻、互いに撃たずに拾わせてほしい。王の言葉だ」
上校は方面軍へ使いを走らせた。
使いは半刻で戻ってきた。
——二刻、撃たず。拾うは、担架と医の兵のみ。武器を持たず。
日が傾いた畑の上を担架が行き来した。宋の医の兵と、メルキアの灰色の衣の担架の兵とが、同じ林の列の下で屈んでいた。——一人のメルキアの担架の兵が、宋の兵を担架に乗せかけて、気づいて手を止めた。宋の医の兵がその担架の反対の端を持った。二人で宋の兵を宋の方へ運んだ。
二刻が過ぎた。
白い布の騎士は竿を下ろした。それから宋の上校に軽く頭を下げて、北へ戻っていった。
◇
その夜、開封の長い部屋の壁が紙で埋まった。
呉承略は、北の壁の図の脇の白い壁に紙を並べさせた。——勝ったか負けたかの紙ではなかった。
——控えの砲を東へ振りし刻。
——砲の弾。見込みと本当の数。
——電信の切れし刻。二度。一度は敵の騎兵。一度は雨。
——升の百八の分かれ道の詰まり。弾の車と医の車。先後は決めてあった。決めてあっても、道が一本なら、行き会う度に止まる。
——担架の往き来。救う所までの歩数。
——控えの第四師団の渡りの遅れ。
哈特が一枚の紙を呉承略の前に置いた。
——術も、糧を持つ。
哈特は方面軍から届いた測った刻を並べていた。
「光が一つ点いてから消えるまで。——撃たれずにいれば、ほぼ半刻。砲に撃たれ続ければ、四半刻の半ば」
哈特は次の紙を出した。
「光を張る者は交代します。交代の間、兵は伏せる。——伏せる間は撃ってこない」
哈特は最後の紙を出した。捕らえたメルキアの術者の腰の袋の中身の写しだった。
——灰色の石の粉。小袋、十二。一つの光に小袋一つ。見立て。
「術者は石の粉を使います。——粉が尽きれば、光は張れない。粉はどこかで作られて運ばれてくる。運ばれてくる道がある」
哈特は紙を三枚揃えた。
「術を数える欄が初めて埋まりました。——半ば見立てですが」
呉承略は紙を手に取った。
「空いていた欄だ」
呉承略は言った。
「克魯澤どのの表の一番下の段」
「はい」
「埋めて表を刷り直せ。——見立て、の字もそのまま刷れ」
呉承略は紙を図の脇の壁に貼った。
その下に、戦史の官が小さな紙を一枚貼った。
——ヤルヴェン。三日。宋の傷、死せる者、九百。傷つきし者、二千二百。捕らえし敵、千四百。敵の傷、分からず。見立て、宋の三倍。
——敵、退く。整えて。




