第十巻 東門 第五回 季節の壁
針が折れた。
冬の初めの朝だった。第一師団の第二旅団の宿営の端の稽古の野で、針銃の兵が一人、空の包みで撃つ稽古をしていた。引き金を引いた。乾いた小さな音がした。
弾は出なかった。
兵は取っ手を起こして閉じ具を抜いた。閉じ具の先の針が根元から無くなっていた。
その朝、同じ野で針が七本折れた。
◇
狄承武はその日の午に第一師団の直す隊の天幕に入った。
天幕の中に炭の火鉢が二つあった。火鉢の脇の台の上に折れた針が並べられていた。七本と昨日の四本と。——どれも根元から折れていた。
直す隊の長は卜長生だった。三十を幾つか越えていた。左の頬に古い火傷の痕があった。この秋、軍器監から第一師団の直す隊の長として北へ来ていた。
「針は二百発で折れる、と決めてありました」
卜長生は言った。
「一人に替えを二本。——けれど、この十一本は五十発も撃っていない」
「冷えか」
狄承武は訊いた。
「冷えです」
卜長生は台の上の針を一本摘んだ。
「粘る鋼は冷えると粘らなくなる。——軍器監の試しの場では冬でも試しました。けれど、開封の冬とここの冬とは違う。今朝は手桶の水が底まで凍りました」
卜長生は閉じ具を一つばらした。
油で煮た革の座が固くなっていた。指で押すと、ひびが入った。
「革も、です。——油も。閉じ具の中の油が固まって、針が前へ出るのが遅くなる。遅くなれば、針が薬に当たるときの角度が狂う。狂えば折れる」
「どうする」
「針の根元を少し太くした針を軍器監に頼みます。——今ここでできることは」
卜長生は火鉢を指した。
「撃つ前に閉じ具を懐で温める。油を冬の油に替える。油は羅蘭徳どのの所に薄い冬の油があるはずです。——それと、稽古で空の包みを撃たせない。空の包みは、針が薬に当たらずに奥まで突き抜ける。冷えた針はそれで折れる」
狄承武は台の上の十一本の針を見ていた。
十一年前、神臂弓の弩機の三つに一つが替えを要した。——あのときは替えがなかった。
「軍器監へ打て」
狄承武は言った。
「今朝の数と、なぜ折れたかと。——ほかの二つの師団の直す隊にも」
◇
凍った道は固かった。
秋の終わりに泥だった道が冬の初めに凍ると、車がよく走った。砲を引く馬の足が沈まなかった。——凍った沼の上を橇が通った。森の冬の道が開いた。
方面軍は冬の半ばまでに、カルナの川の北の黒い土の平らの半ばを押さえていた。セレン河までは、まだ二百里あまりあった。
韓奇捷は冬の間、大きく動かなかった。
小さく動いた。凍った支流の上を騎兵と一つの旅団とが渡って、北の河の港の町を一つ取った。港の倉は焼かれていなかった。——港の町のメルキアの兵は、宋の軍が凍った川を渡ってくるとは思っていなかった。
冬の間に兵は凍えた。
戴守仁の医の帳面に冬の三月の間の数が並んだ。
——凍えの傷。足の指。千二百。うち、指を失う者、百四十。
——肺の病。熱。八百。
——馬。冷えにて倒る。千百。
「戦で傷ついた者より多い」
戴守仁は方面軍の天幕で言った。
「沓が濡れたまま夜を越す。——濡れた沓で凍えた足は戻らない。沓を乾かす火が宿営に足りない」
薪が足りなかった。
森の縁の炭焼きの村々から炭を買った。窯の林を切らないと約した村だった。村の長は冬の間に三度、炭を荷車に積んで宿営まで運んできた。
三度目のとき、村の長は喩徳順に言った。
「炭の値を上げたい」
「なぜ」
「王の軍にも売っているから」
通詞が訳すと、喩徳順はしばらく黙った。
それから笑った。
「上げてよい。——王の軍に売る値と同じ値まで」
◇
開封の中央銀行の本院の奥の部屋で、修平は程伯言と葉正言と向き合っていた。
程伯言は七十を幾つか越えていた。白い眉はさらに白くなっていた。六年ごとの知院事の任は二度延ばされていた。
卓の上に紙が一枚。
——戦の証文。売り出し、四度。
一度目は秋の半ばだった。利は五分半。売れ残りはなかった。
二度目は冬の初め。利は六分。
三度目は冬の半ば。六分と半ば。売れ残りが一割。
四度目は暮れ。六分と七厘。
「上がっている」
葉正言が言った。六十四になっていた。戸部尚書の席にまだ座っていた。
「上がっています」
修平は言った。
「森の中の進みが見込みの半ばだった、と小報が書きました。川で二日遅れた、と。——北の軍の冬営の凍えの数も小報に出ました。数は少し違っていましたが」
「誰が洩らした」
「洩らしたのではありません」
修平は言った。
「平州の港の荷を担ぐ人が帰ってきて話します。医の車で運ばれてきた兵が話します。——隠せません。隠そうとすれば、証文の利はもっと上がります」
程伯言が紙の四度目の数を指でなぞった。
「六分と七厘」
程伯言は言った。
「会子の暴落の年は。——利はなかった。証文を出さずに会子を刷った。値が崩れて初めて、戦の値を皆が知った」
程伯言は顔を上げた。
「今は利が毎月、戦の値を言っている。——戦が長くなると皆が思えば、利が上がる。上がった利を見て、戸部は戦の費えを削るか、税を上げるか、証文を増やすか決める。決めるのは戸部だ。中央銀行は自分では買わない」
「買わない」
修平は言った。
「春に証文が売れ残ったら」
葉正言が訊いた。
「売れ残ったら、売れ残った、と出します」
修平は言った。
「売れ残りを中央銀行が買えば。——会子を刷るのと同じになります」
葉正言はしばらく修平を見ていた。
「この本院が開いた年に林詳定が言ったことだ」
「はい」
「十三年経っても、同じことを言う」
葉正言は紙を程伯言の方へ押した。
「春の売り出しは額を減らす。——減らした分は、戸部が宮の倉の銭を借りる。陛下にお願いする。借りたことも出す」
◇
春が来た。
春の最初の暖かい日から七日目に、道が消えた。
喩徳順はボルカの港から北へ四十里の道の上に立っていた。
立っているつもりだった。沓が踝まで沈んでいた。
道は黒い泥だった。凍っていた土が上から融けた。融けた水は、下のまだ凍っている土に止められて、しみ込まなかった。——道の上に水と泥とが溜まって、一面の黒い沼になっていた。
荷車が四台、道の真ん中で止まっていた。
車輪が輪の半ばまで沈んでいた。馬が四頭ずつ引いていた。馬の腹まで泥が跳ねていた。
喩徳順は帳面を出した。
——春。第九日。ボルカより北、四十里。荷車一台に、糧十五石。冬の道にては、一日五十里。今日、八里。
「半ばに積みを減らせ」
喩徳順は荷車の組の長に言った。
「十五石を七石に。——七石なら、車輪が輪の三つに一つで止まる。止まれば動く」
「車の数が倍に要ります」
「倍の車はない」
喩徳順は言った。
「だから、前へ届く糧は半ばになる」
◇
その夜、方面軍の天幕で喩徳順は一枚の表を韓奇捷の前に置いた。
——終点より各師団へ一日に届き得る糧の重さ。
終点は二つあった。楡関の倉と。ボルカの港と。——そこまでは、海の舟と川の舟とで物が来た。倉には糧が積み上がっていた。
「倉にあるものは数えません」
喩徳順は言った。
「倉にひと月分あっても。倉から師団まで一日に何斤届くか。——それだけが、軍の戦える日を決めます」
表の数は冬の三つに一つだった。
——第一師団。冬、一日三十万斤。今、十一万斤。
——第二師団。冬、二十八万斤。今、十万斤。
——第三師団。冬、二十六万斤。今、八万斤。
「足りない」
韓奇捷は言った。
「足りません」
喩徳順は言った。
「今、三つの師団が食べているのは、冬の間に前の倉に積んだ分です。——前の倉はあと十二日で空きます」
宇文衡が別の紙を出した。
「敵はこの泥の間に動いています」
宇文衡は言った。
「決戦はしない。——荷車の列を襲う。この十日で七度。橋を四つ焼いた。焼いたのは、どれも泥の中の道の小さな橋です。直すのに三日かかる、橋」
宇文衡は紙を韓奇捷の前に置いた。
「荷車の列を守るのに兵を付けました。一つの列に一つの中隊。——この十日で、荷車の列の守りに兵が二千四百付いています」
韓奇捷は紙を見た。
二千四百。
十二年前の井戸の線で、守りの兵は二千を越えていた。
「道がだめなら」
韓奇捷は言った。
「川は」
喩徳順は図の上のカルナの川の北の支流を指した。
「融けた水で川は深くなっています。——春のこの半月だけは、ボルカの上り下りの舟が支流を第一師団の後ろの渡しまで上れる。トマシュの組がそう言っています」
「舟に切り替えろ」
「全部は切り替えられません」
喩徳順は言った。
「舟は四十。一艘に六十石。——それに、この半月が過ぎれば、川はまた浅くなる。第三師団の後ろには川がない」
「半月でいい」
韓奇捷は言った。
「半月の間に第一と第二の前の倉を舟で埋める。埋めた分の荷車を第三師団へ回す。——荷車の守りの兵もそれで減らせる」
喩徳順は帳面に書いた。書き終えて顔を上げた。
「舟の守りの兵が要ります」
「分かっている」
韓奇捷は言った。
◇
開封の長い部屋の朝の議は、卯の刻の終わりに始まった。
呉承略は議の最初の紙を手に取った。
敵の紙ではなかった。
——道。ボルカより北、一日に車の通りし数。
——橋。今、使い得る橋。重さの限り。
——楡関の軍の鉄の道。敷き終えし里数。
——病の床。野の病院と後ろの病院と。空き。
——馬。この十日に倒れし数。
呉承略は読み上げた。部屋の者たちは黙って聞いていた。敵の話は五枚目まで出てこなかった。
楡関の軍の鉄の道は、冬の間に平州の港から北へ七十里まで敷かれていた。——賀通遠の組が凍った土の上に枕の木を並べ、棒を打った。
春が来て、凍った土が融けた。
枕の木が沈んだ。沈み方が一様ではなかった。棒が波を打った。——七十里のうち、四十里が敷き直しになった。
「賀通遠どのは秋に言っていた」
莫子期が言った。
「凍った土の上に敷けば春に沈む、と。——冬の間に敷かずに待てば、夏の初めに楡関まで届かない。敷いて春に直す方が早い、と。直す分の日数も表に書いてありました」
「書いてあった日数と本当の日数と」
「本当の方が十日長い」
呉承略は頷いた。
それから、宇文衡から届いた紙を取り上げた。
——攻めの日を先に定めたし。夏の初めの第一日。工兵は、それに道を合わせよ。
方面軍の作戦の官の案だった。宇文衡の朱で脇に一行。
——参謀の長は、この案を取らず。ただし、参謀本部の見る所を問う。
「工兵の見積もりは」
呉承略は訊いた。
莫子期が紙を出した。方面軍の工兵の長たちと甄巌とが出した見積もりだった。
——ボルカより北、百二十里。道の泥を掻き、溝を掘り、砕いた石を敷く。橋、九つ。兵、四千にて三十五日。
「夏の初めの第一日まで二十八日」
莫子期は言った。
「七日足りない」
「攻めの日を先に決めて工兵に合わせさせれば」
呉承略は言った。
「工兵は合わせる。——兵を倍につぎ込んで。つぎ込んだ兵はどこから来るか。荷車の列の守りから来る。守りを減らせば、荷車の列が襲われる。襲われれば、糧が届かない。糧が届かない日に、攻めの日が来る」
呉承略は紙を置いた。
「攻めの日は道から逆に数える」
部屋の者たちが呉承略を見ていた。
「今日から三つに分ける」
呉承略は言った。
「一つ。止まる。——今の場所で師団を止める。前へ出ない。二つ。直す。工兵と、控えの兵と、雇った村の者とで、道と橋とを直す。三つ。直った道の先まで少しずつ出る。直った道が延びた分だけ」
「止まるのは弱さに見えます」
作戦の課の若い官が言った。
「メルキアの王にも。——北の帝国の都にも」
「見える」
呉承略は言った。
「見えてよい。——軍を壊さないために止まる。止まらずに泥の中で軍が壊れたら。王にも都にも、壊れた軍が見える」
呉承略は筆を取った。方面軍への文だった。
——参謀本部の見る所。攻めの日を先に定めず。道の直る日より逆に数う。三つの段に分く。止まる、直す、少しずつ出る。決むるは、方面軍の長なり。
書き終えて呉承略は筆を置いた。
「この文を読んで韓奇捷どのが、それでも夏の初めの第一日に攻める、と決めたら。——その理由を書いてもらう。書いてあれば、参謀本部はそれに合わせる」
◇
韓奇捷は三つの段を取った。
理由を一行書き添えて返してきた。
——泥の中にて攻むる理由、見当たらず。
◇
止まっている間、開封の長い部屋は静かにならなかった。
南の壁の敵の票が毎日増えていった。
哈特は敵を見る課の机で三つの紙を並べていた。
——メルキアの王の兵。セレン河の南の岸に集まる。確かめた。数、見立てにて四万より六万。
——重い歩く兵と騎士の団。旗の数より見立て。
——術者の障壁の兵。数、分からず。
「六万」
晁子明が言った。
「こちらは三つの師団で三万五千。——夏の初めに四つ目の師団が着いても、四万七千」
「数だけなら」
哈特は言った。
「こちらが少ない」
奥の盤の部屋で、克魯澤が骨の賽を振っていた。
克魯澤は敵の役の候補の者たちと同じ盤を何度も解いていた。——泥が乾いた後、メルキアの王がどこでこちらを迎え撃つか。
盤の上に三つの札が立っていた。
——一つ。セレン河の南の岸。河を背に。
——二つ。ヤルヴェン。カルナの川の北の支流が平らに出るところ。堤と、防ぎの林と、村。
——三つ。王都の前。
「二つ目です」
蕭景明が言った。敵の役をしていた。
「河を背にすれば、負けたとき退けない。王都の前まで引けば、王都の市と倉とが戦の野になる。——ヤルヴェンなら、負けても北へ退ける。堤と林と村とで、野が城になる」
克魯澤は賽を止めた。
「なぜそう思う」
「私が敵の王なら」
蕭景明は言った。
「王の国を守りながら、宋の軍を測る。——泥の間に荷車の列を襲って、宋の軍がどこまで物を運べるかを測っている。測り終えたら、宋の軍の糧の道が一番長くなるところで迎える」
克魯澤は盤の上のヤルヴェンの札の脇に、小さな白い木片を置いた。
「十に四」
克魯澤は言った。
「二つ目の札。——見立て。確かめるまで図に塗らない」
窓の外で、開封の春が終わりかけていた。北の黒い土の平らでは、泥の上の方から少しずつ乾き始めていた。




