↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
138/440

第十巻 東門 第四回 黒土と村落

 ラドミルは倉の鍵を三つ持っていた。


 一つは王の軍の倉の鍵だった。矢と干し草と兵の粟とが入っていた。この夏、南の岸の七つの倉と同じ日に建てた倉だった。


 一つはミレツの町の市の倉の鍵だった。商人たちの粟と豆と麻とが入っていた。


 一つはミレツの郡の村々の種の倉の鍵だった。来年の春に蒔く種が入っていた。


 三つの鍵はミレツの郡の郡の長の腰に下がっていた。


 郡の長はラドミルだった。


  ◇


 王の穀物の司の使いが来たのは、宋の軍がカルナの川を渡った二日後だった。


 使いは若い書記だった。背が高く、額に小さな二本の角があった。王都の古い家の生まれの者に多い姿だった。馬を三頭乗り潰して来た、と言った。


「王のお言葉です」


 使いは封を切った紙をラドミルの前に置いた。


 ——宋の軍の近づくとき、ミレツの郡の倉を焼け。宋の軍に一粒の粟も渡すな。


「倉を」


 ラドミルは言った。


「どの倉を」


「倉を、です」


 使いは言った。


「王のお言葉には倉、とあります」


 ラドミルは紙を読み直した。


 倉、とだけ書かれていた。どの倉とは書かれていなかった。


「王の軍の倉は焼く」


 ラドミルは言った。


「矢と干し草と兵の粟と。——宋の軍に渡れば、宋の軍の糧になる。焼くのは道理だ」


「市の倉と種の倉も」


「市の倉は商人の物だ。種の倉は村の物だ」


 ラドミルは腰の鍵を一つ外して卓に置いた。王の軍の倉の鍵だった。


「種の倉を焼けば」


 ラドミルは言った。


「来年の春、この郡の畑には何も蒔けない。——宋の軍は来年の春にはここにいないかもしれない。けれど、この郡の四千の家は来年の春もここにいる。王が戦に勝ってこの郡を取り戻したとき。王は何も実らぬ畑を取り戻す」


 使いはしばらくラドミルを見ていた。


「郡の長は王のお言葉に背くのですか」


「背かない」


 ラドミルは言った。


「王のお言葉は宋の軍に粟を渡すな、だ。——種の倉は封をする。宋の軍が来たら、種の倉だけは渡さないと言う。渡せ、と言われたら、そのとき焼く」


 使いは紙を巻いた。


「郡の長の名でそう書いてください」


「書く」


 ラドミルは筆を取った。


 書き終えてラドミルは使いに訊いた。


「郡の長は宋の軍が来る前に北へ退けと、王は仰せか」


「仰せではありません」


 使いは言った。


「退く者は退け、と。——残る者は残れ、と」


「では、残る」


 ラドミルは言った。


「郡の帳面がこの役所にある。帳面を持って北へ逃げれば。——宋の軍は帳面なしでこの郡の村を歩く。帳面なしで歩く軍は何をするか分からない」


  ◇


 王の軍の倉は、その夜焼けた。


 ラドミルは郡の役所の下働きの者を四人連れて行った。倉の番の兵は前の日に北へ退いていた。


 油を撒いたのはラドミルだった。


 火が屋根に上がった。干し草が先に燃えた。それから矢の束が。——矢の束は燃えるとき、乾いた音を立てた。一本ずつ弾けるような音だった。


 町の者が何人か遠巻きに見ていた。


 誰も何も言わなかった。ラドミルがどの倉を焼き、どの倉を焼かなかったか。町の者は明日の朝には皆知っているはずだった。


 倉の屋根が落ちた。


 ラドミルは火の粉が市の倉の方へ飛ばないのを確かめてから、役所へ戻った。


 戻って、郡の帳面の倉の頁に一行書き足した。


 ——王の軍の倉。王のお言葉により、郡の長、これを焼く。中身、矢一万二千。干し草、四十万斤。粟、三千袋。


 焼いた物の数を書いておかなければ、後で誰かが、焼いた物はもっと多かった、と言う。——あるいは焼かずに誰かが持ち去った、と。


  ◇


 温子沖がミレツの郡の役所に着いたのは、その四日後だった。


 統計局の吏員だった。三十を少し過ぎていた。六年前、磁州の鋼の場に統計局から遣わされた若い吏員がいた。——それが温子沖だった。この秋、方面軍に付けられて北へ来た。


 方面軍での温子沖の勤めは一つだった。


 ——軍の入った郡と村との家の数、田の広さ、倉の中身を調べること。税は取らない。


 役所の奥の部屋で郡の長が待っていた。


 灰色の髪の痩せた男だった。額に角はなかった。ボルカのトマシュと同じ人の姿の者だった。


 郡の長は卓の上に帳面を積んでいた。


 十二冊。


「郡の家の帳面。田の帳面。倉の帳面」


 郡の長は言った。通詞が訳した。


「全部渡します」


 温子沖は帳面の一冊を開いた。メルキアの字だった。温子沖には読めなかった。——けれど数字は読めた。メルキアの数の書き方は互市の帳面で覚えていた。


「郡の家の数」


 温子沖は言った。


「四千二百十」


 郡の長は言った。


 それから郡の長は帳面のその頁に指を置いた。


「この数は正しくない」


 温子沖は顔を上げた。


「三年前に王の兵の数を決めるために書いた数です。——兵を出す家の数が多ければ、郡から出す兵が増える。村の長たちは家の数を少なく書いた。私はそれを知っていた」


 郡の長は静かに言った。


「本当の家の数は四千二百十より多い。——この夏、村々から北へ逃げた家がある。逃げた家の数は分からない。本当の今の家の数は四千二百十より少ないかもしれない」


 温子沖は帳面を閉じた。


「では、歩いて数えます」


 温子沖は言った。


「郡の長に村の案内をお願いできますか」


 郡の長はしばらく温子沖を見ていた。


「それがこの帳面を渡した理由です」


 温子沖が帳面を抱えて立ち上がりかけたとき、郡の長はもう一つ言った。


「種の倉は渡さない」


 通詞が訳した。温子沖は座り直した。


「王のお言葉です。——宋の軍に粟を渡すな、と。種の倉は封をしてある。渡せ、と言われたら、私は焼く」


 温子沖はしばらく考えた。


 それから、方面軍から渡されていた紙を一枚出した。温子沖の勤めを書いた紙だった。


「種の倉を渡せ、とは言いません」


 温子沖は言った。


「私の勤めは数えることです。——税は取らない。取り上げもしない。種の倉の中身を数えさせてくれとは、いずれお願いするかもしれません。それも、郡の長が嫌なら数えない、と書きます」


 郡の長は温子沖の紙を通詞に読ませた。


 読み終えても、しばらく何も言わなかった。


  ◇


 ミレツの郡の東の端の村だった。


 村の名はヴィレツ、と言った。——水の湧く小さなところ。カルナの川の北にもヴィルの付く村はいくつもあった。その一つだった。


 温子沖は村の一軒ずつを歩いた。


 村は一つではなかった。


 村の北の端に大きな石の家があった。地主の家だった。地主は王都に住んでいた。石の家には差配の者が一人。差配は村の田の半ばを預かっていた。


 差配の家の隣に自分の田を持つ農の家が十幾つ。——その隣に差配から田を借りる農の家が四十あまり。借りる家の半ばは、地主に年に何日かの働きを納めていた。


 鍛冶が一軒。車大工が一軒。粟と塩とを商う店が二軒。村の真ん中に小さな祠が一つ。祠の守りの老いた女が一人。


「宋の軍をどう思うか」


 温子沖は通詞を通して訊いた。


 訊くたびに答えが違った。


 差配は答えなかった。


 自分の田を持つ農は、畑を踏まないでくれ、と言った。まだ豆を刈っていない。


 田を借りる農は差配をちらりと見てから、何も言わなかった。——夜になって一人、温子沖の宿へ来た。宋の軍が来ても、差配への働きの日は変わらぬのか、と訊いた。


 鍛冶は宋の軍の馬の蹄の鉄を打たせてくれ、と言った。値は払ってくれるのか。


 祠の老いた女は、祠の前の木を切らないでくれ、と言った。


 温子沖は帳面に書いた。


 ——ヴィレツ。家、七十三。帳面の数、五十八。差の十五、借りる農。帳面に載せず。


 ——村人は、一つにあらず。


  ◇


 方面軍の天幕に喩徳順が一枚の表を持ってきた。


 表には二つの欄があった。


 ——軍の一日の要る量。


 ——ミレツの郡より一日に買い得る量。


 一つ目の欄は長かった。


 人の飯。三つの師団と、輜重と、医と、直す隊と。——千百石。


 干し草。馬、九千と替えの馬。——十九万斤。


 豆と麦。——四万八千斤。


 二つ目の欄は温子沖が歩いて数えた数から作った。


 人の飯。——百八十石。


 干し草。——二万斤。


 豆と麦。——五千斤。


「郡から買えるのは飯の六つに一つ」


 喩徳順は言った。


「干し草は十に一つ。——郡の者の牛と馬とが冬を越すための干し草を残せば」


「残さなければ」


 宇文衡が訊いた。


「干し草は三つに一つ買えます」


 喩徳順は言った。


「その代わり、春に郡の牛が半ば死にます。牛が死ねば、春に畑を起こせない。——来年の秋の郡の飯は今年の半ば」


 喩徳順は表の下に朱で一行書いていた。


 ——この地にて取れるはず、と書くを禁ず。


「平州の港は」


 韓奇捷が訊いた。


「二千石」


 喩徳順は言った。


「港からここまで車で十日。——十日の道の上に車がずらりと並ぶ。その車の馬も干し草を食べる」


  ◇


 開封の戸部の奥の部屋で、修平は三枚の紙を並べていた。


 一枚は、温子沖が送ってきたミレツの郡の調べ。——家の数。田の広さ。刈り終えた畑と刈っていない畑。倉の中身。牛と馬の数。種の倉が封をされていること。


 一枚は、同じ数を糧と弾との課が読んだ紙。——郡から一日に買い得る量。


 一枚は、孟季常が読んだ紙。


 孟季常の紙は数が少なかった。


 ——戦の後、この郡より税を取り得るや。取り得るならば、いつよりいくら。


「三つの紙が同じ数からできている」


 修平は言った。


 部屋に孟季常と韋明遠とがいた。韋明遠は統計局の長だった。五十に近かった。細い目は変わらなかった。


「同じ数から三つの答えが出る」


 韋明遠は言った。


「糧と弾との課は今年の冬を見ている。孟郎中は来年の秋を見ている。——温子沖は今年の冬と来年の春との間の郡の者を見ている」


「どれが正しいですか」


 孟季常が訊いた。


「三つとも」


 修平は言った。


 修平は三枚の紙を一枚に重ねた。


「軍が今年の冬にこの郡から干し草を三つに一つ買えば。——来年の春に牛が死ぬ。来年の秋に郡の飯が半ば。来年の秋に軍がこの郡から買える飯も半ば。戦が来年の秋まで続いていれば」


 修平は韋明遠を見た。


「来年の軍の糧を今年の軍が食べる」


 孟季常が紙の端を指で叩いた。


「税も、です」


 孟季常は言った。


「戦の後にこの土地をどうするにせよ。——牛の死んだ郡から税は取れません。取れぬ郡を誰かが養わねばならない」


「参謀本部へ持って行きましょう」


 修平は言った。


「三枚全部。重ねた形で」


  ◇


 参謀本部の長い部屋で、呉承略は修平の重ねた紙を黙って読んだ。


 読み終えて呉承略は北の壁の図の前に立った。


 カルナの川の北の岸の黒い土の平ら。——刈り終えた畑を薄い茶の色で。刈っていない畑を濃い黄の色で。温子沖の調べから図の課が塗り分けていた。


 黄の色はミレツの郡の北の半ばに帯のように残っていた。


 方面軍が次に進む道は、黄の帯の真ん中を北へ抜けていた。


「真っ直ぐ行けば」


 呉承略は言った。


「三日で次の河の港へ着く。——黄の帯を三つの師団と荷車とが踏む」


「回れば」


 修平は訊いた。


「西へ回って刈り終えた畑の道を通る。六日」


 呉承略は言った。


「三日の遅れ。——その間に敵が次の河の港に兵を集める」


「集めますか」


「分からぬ」


 呉承略は言った。


「分からぬ、と方面軍の敵を見る官は書いている。見立ては集める、だ。けれど、集める兵の数は分からぬ」


 呉承略は図から目を離した。


「決めるのは私ではない。——韓奇捷どのだ。私はこの紙を方面軍へ送る。三日の遅れと来年の郡の飯とを同じ紙に書いて」


 呉承略は修平の重ねた紙の上に一行書き足した。


 ——参謀本部の見る所。回るをよしとす。ただし、決むるは方面軍の長なり。


  ◇


 韓奇捷はその紙を夜、天幕で読んだ。


 読んでしばらく何も言わなかった。


 宇文衡が脇に座っていた。


「三日」


 韓奇捷は言った。


「三日遅れて次の河の港に敵が二万集まっていたら。——三日の遅れは兵の血で払う」


「払うことになります」


 宇文衡は言った。


「真っ直ぐ行って黄の帯を踏めば。——来年の秋にこの郡の者が飢えます。飢えた郡を来年の秋、この軍が通るかもしれない。そのとき、この郡の者は宋の軍に何も売らない。売る物がないから」


 韓奇捷は紙を畳んだ。


「回る」


 韓奇捷は言った。


「ただし、騎兵を先に次の河の港へ出す。港の敵の数を見に。——三日の間に敵が二万を超えたら、そのときまた考える」


  ◇


 四日後の昼。


 ラドミルはミレツの町の西の丘の上に立っていた。


 丘の下を宋の軍が通っていた。


 真っ直ぐ北へ行くのではなかった。西へ回っていた。刈り終えた茶色の畑の道を。——兵が四列になって畑の縁を歩いていた。荷車の長い列がその後ろに続いていた。砲を引く馬の列が。


 東の濃い黄の畑では、村の者たちが豆を刈っていた。


 刈る手を止めて、西の軍の列を見ている者もいた。


 ラドミルの脇に温子沖が立っていた。


「なぜ回る」


 ラドミルは訊いた。通詞が訳した。


「刈っていない畑があるからです」


 温子沖は言った。


「それだけか」


「それだけではありません」


 温子沖は言った。


「来年の糧のためでもあります。——宋の軍の糧の」


 ラドミルはしばらく黙っていた。


「正直なことだ」


 ラドミルは言った。


「隠しても、帳面を見れば分かります」


 温子沖は言った。


「郡の長が、郡の帳面の数が正しくない、と私に言ったように」


 ラドミルは少し笑った。


 笑ってから、腰の鍵を一つ外した。種の倉の鍵だった。


「預ける」


 ラドミルは言った。


「宋の軍にではない。——統計局の吏員どのに。この郡の種の数を数えてくれ。数えて帳面に書いて、また封をしてくれ。春にその数どおり村々に配る。数が減っていたら、誰が減らしたかが分かる」


 温子沖は鍵を受け取った。


 鍵は古い鉄の鍵だった。持つところが指の形に擦り減っていた。


 丘の下を最後の荷車の列が通り過ぎていった。東の黄の畑で、村の者たちがまた豆を刈り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。