第十巻 東門 第四回 黒土と村落
ラドミルは倉の鍵を三つ持っていた。
一つは王の軍の倉の鍵だった。矢と干し草と兵の粟とが入っていた。この夏、南の岸の七つの倉と同じ日に建てた倉だった。
一つはミレツの町の市の倉の鍵だった。商人たちの粟と豆と麻とが入っていた。
一つはミレツの郡の村々の種の倉の鍵だった。来年の春に蒔く種が入っていた。
三つの鍵はミレツの郡の郡の長の腰に下がっていた。
郡の長はラドミルだった。
◇
王の穀物の司の使いが来たのは、宋の軍がカルナの川を渡った二日後だった。
使いは若い書記だった。背が高く、額に小さな二本の角があった。王都の古い家の生まれの者に多い姿だった。馬を三頭乗り潰して来た、と言った。
「王のお言葉です」
使いは封を切った紙をラドミルの前に置いた。
——宋の軍の近づくとき、ミレツの郡の倉を焼け。宋の軍に一粒の粟も渡すな。
「倉を」
ラドミルは言った。
「どの倉を」
「倉を、です」
使いは言った。
「王のお言葉には倉、とあります」
ラドミルは紙を読み直した。
倉、とだけ書かれていた。どの倉とは書かれていなかった。
「王の軍の倉は焼く」
ラドミルは言った。
「矢と干し草と兵の粟と。——宋の軍に渡れば、宋の軍の糧になる。焼くのは道理だ」
「市の倉と種の倉も」
「市の倉は商人の物だ。種の倉は村の物だ」
ラドミルは腰の鍵を一つ外して卓に置いた。王の軍の倉の鍵だった。
「種の倉を焼けば」
ラドミルは言った。
「来年の春、この郡の畑には何も蒔けない。——宋の軍は来年の春にはここにいないかもしれない。けれど、この郡の四千の家は来年の春もここにいる。王が戦に勝ってこの郡を取り戻したとき。王は何も実らぬ畑を取り戻す」
使いはしばらくラドミルを見ていた。
「郡の長は王のお言葉に背くのですか」
「背かない」
ラドミルは言った。
「王のお言葉は宋の軍に粟を渡すな、だ。——種の倉は封をする。宋の軍が来たら、種の倉だけは渡さないと言う。渡せ、と言われたら、そのとき焼く」
使いは紙を巻いた。
「郡の長の名でそう書いてください」
「書く」
ラドミルは筆を取った。
書き終えてラドミルは使いに訊いた。
「郡の長は宋の軍が来る前に北へ退けと、王は仰せか」
「仰せではありません」
使いは言った。
「退く者は退け、と。——残る者は残れ、と」
「では、残る」
ラドミルは言った。
「郡の帳面がこの役所にある。帳面を持って北へ逃げれば。——宋の軍は帳面なしでこの郡の村を歩く。帳面なしで歩く軍は何をするか分からない」
◇
王の軍の倉は、その夜焼けた。
ラドミルは郡の役所の下働きの者を四人連れて行った。倉の番の兵は前の日に北へ退いていた。
油を撒いたのはラドミルだった。
火が屋根に上がった。干し草が先に燃えた。それから矢の束が。——矢の束は燃えるとき、乾いた音を立てた。一本ずつ弾けるような音だった。
町の者が何人か遠巻きに見ていた。
誰も何も言わなかった。ラドミルがどの倉を焼き、どの倉を焼かなかったか。町の者は明日の朝には皆知っているはずだった。
倉の屋根が落ちた。
ラドミルは火の粉が市の倉の方へ飛ばないのを確かめてから、役所へ戻った。
戻って、郡の帳面の倉の頁に一行書き足した。
——王の軍の倉。王のお言葉により、郡の長、これを焼く。中身、矢一万二千。干し草、四十万斤。粟、三千袋。
焼いた物の数を書いておかなければ、後で誰かが、焼いた物はもっと多かった、と言う。——あるいは焼かずに誰かが持ち去った、と。
◇
温子沖がミレツの郡の役所に着いたのは、その四日後だった。
統計局の吏員だった。三十を少し過ぎていた。六年前、磁州の鋼の場に統計局から遣わされた若い吏員がいた。——それが温子沖だった。この秋、方面軍に付けられて北へ来た。
方面軍での温子沖の勤めは一つだった。
——軍の入った郡と村との家の数、田の広さ、倉の中身を調べること。税は取らない。
役所の奥の部屋で郡の長が待っていた。
灰色の髪の痩せた男だった。額に角はなかった。ボルカのトマシュと同じ人の姿の者だった。
郡の長は卓の上に帳面を積んでいた。
十二冊。
「郡の家の帳面。田の帳面。倉の帳面」
郡の長は言った。通詞が訳した。
「全部渡します」
温子沖は帳面の一冊を開いた。メルキアの字だった。温子沖には読めなかった。——けれど数字は読めた。メルキアの数の書き方は互市の帳面で覚えていた。
「郡の家の数」
温子沖は言った。
「四千二百十」
郡の長は言った。
それから郡の長は帳面のその頁に指を置いた。
「この数は正しくない」
温子沖は顔を上げた。
「三年前に王の兵の数を決めるために書いた数です。——兵を出す家の数が多ければ、郡から出す兵が増える。村の長たちは家の数を少なく書いた。私はそれを知っていた」
郡の長は静かに言った。
「本当の家の数は四千二百十より多い。——この夏、村々から北へ逃げた家がある。逃げた家の数は分からない。本当の今の家の数は四千二百十より少ないかもしれない」
温子沖は帳面を閉じた。
「では、歩いて数えます」
温子沖は言った。
「郡の長に村の案内をお願いできますか」
郡の長はしばらく温子沖を見ていた。
「それがこの帳面を渡した理由です」
温子沖が帳面を抱えて立ち上がりかけたとき、郡の長はもう一つ言った。
「種の倉は渡さない」
通詞が訳した。温子沖は座り直した。
「王のお言葉です。——宋の軍に粟を渡すな、と。種の倉は封をしてある。渡せ、と言われたら、私は焼く」
温子沖はしばらく考えた。
それから、方面軍から渡されていた紙を一枚出した。温子沖の勤めを書いた紙だった。
「種の倉を渡せ、とは言いません」
温子沖は言った。
「私の勤めは数えることです。——税は取らない。取り上げもしない。種の倉の中身を数えさせてくれとは、いずれお願いするかもしれません。それも、郡の長が嫌なら数えない、と書きます」
郡の長は温子沖の紙を通詞に読ませた。
読み終えても、しばらく何も言わなかった。
◇
ミレツの郡の東の端の村だった。
村の名はヴィレツ、と言った。——水の湧く小さなところ。カルナの川の北にもヴィルの付く村はいくつもあった。その一つだった。
温子沖は村の一軒ずつを歩いた。
村は一つではなかった。
村の北の端に大きな石の家があった。地主の家だった。地主は王都に住んでいた。石の家には差配の者が一人。差配は村の田の半ばを預かっていた。
差配の家の隣に自分の田を持つ農の家が十幾つ。——その隣に差配から田を借りる農の家が四十あまり。借りる家の半ばは、地主に年に何日かの働きを納めていた。
鍛冶が一軒。車大工が一軒。粟と塩とを商う店が二軒。村の真ん中に小さな祠が一つ。祠の守りの老いた女が一人。
「宋の軍をどう思うか」
温子沖は通詞を通して訊いた。
訊くたびに答えが違った。
差配は答えなかった。
自分の田を持つ農は、畑を踏まないでくれ、と言った。まだ豆を刈っていない。
田を借りる農は差配をちらりと見てから、何も言わなかった。——夜になって一人、温子沖の宿へ来た。宋の軍が来ても、差配への働きの日は変わらぬのか、と訊いた。
鍛冶は宋の軍の馬の蹄の鉄を打たせてくれ、と言った。値は払ってくれるのか。
祠の老いた女は、祠の前の木を切らないでくれ、と言った。
温子沖は帳面に書いた。
——ヴィレツ。家、七十三。帳面の数、五十八。差の十五、借りる農。帳面に載せず。
——村人は、一つにあらず。
◇
方面軍の天幕に喩徳順が一枚の表を持ってきた。
表には二つの欄があった。
——軍の一日の要る量。
——ミレツの郡より一日に買い得る量。
一つ目の欄は長かった。
人の飯。三つの師団と、輜重と、医と、直す隊と。——千百石。
干し草。馬、九千と替えの馬。——十九万斤。
豆と麦。——四万八千斤。
二つ目の欄は温子沖が歩いて数えた数から作った。
人の飯。——百八十石。
干し草。——二万斤。
豆と麦。——五千斤。
「郡から買えるのは飯の六つに一つ」
喩徳順は言った。
「干し草は十に一つ。——郡の者の牛と馬とが冬を越すための干し草を残せば」
「残さなければ」
宇文衡が訊いた。
「干し草は三つに一つ買えます」
喩徳順は言った。
「その代わり、春に郡の牛が半ば死にます。牛が死ねば、春に畑を起こせない。——来年の秋の郡の飯は今年の半ば」
喩徳順は表の下に朱で一行書いていた。
——この地にて取れるはず、と書くを禁ず。
「平州の港は」
韓奇捷が訊いた。
「二千石」
喩徳順は言った。
「港からここまで車で十日。——十日の道の上に車がずらりと並ぶ。その車の馬も干し草を食べる」
◇
開封の戸部の奥の部屋で、修平は三枚の紙を並べていた。
一枚は、温子沖が送ってきたミレツの郡の調べ。——家の数。田の広さ。刈り終えた畑と刈っていない畑。倉の中身。牛と馬の数。種の倉が封をされていること。
一枚は、同じ数を糧と弾との課が読んだ紙。——郡から一日に買い得る量。
一枚は、孟季常が読んだ紙。
孟季常の紙は数が少なかった。
——戦の後、この郡より税を取り得るや。取り得るならば、いつよりいくら。
「三つの紙が同じ数からできている」
修平は言った。
部屋に孟季常と韋明遠とがいた。韋明遠は統計局の長だった。五十に近かった。細い目は変わらなかった。
「同じ数から三つの答えが出る」
韋明遠は言った。
「糧と弾との課は今年の冬を見ている。孟郎中は来年の秋を見ている。——温子沖は今年の冬と来年の春との間の郡の者を見ている」
「どれが正しいですか」
孟季常が訊いた。
「三つとも」
修平は言った。
修平は三枚の紙を一枚に重ねた。
「軍が今年の冬にこの郡から干し草を三つに一つ買えば。——来年の春に牛が死ぬ。来年の秋に郡の飯が半ば。来年の秋に軍がこの郡から買える飯も半ば。戦が来年の秋まで続いていれば」
修平は韋明遠を見た。
「来年の軍の糧を今年の軍が食べる」
孟季常が紙の端を指で叩いた。
「税も、です」
孟季常は言った。
「戦の後にこの土地をどうするにせよ。——牛の死んだ郡から税は取れません。取れぬ郡を誰かが養わねばならない」
「参謀本部へ持って行きましょう」
修平は言った。
「三枚全部。重ねた形で」
◇
参謀本部の長い部屋で、呉承略は修平の重ねた紙を黙って読んだ。
読み終えて呉承略は北の壁の図の前に立った。
カルナの川の北の岸の黒い土の平ら。——刈り終えた畑を薄い茶の色で。刈っていない畑を濃い黄の色で。温子沖の調べから図の課が塗り分けていた。
黄の色はミレツの郡の北の半ばに帯のように残っていた。
方面軍が次に進む道は、黄の帯の真ん中を北へ抜けていた。
「真っ直ぐ行けば」
呉承略は言った。
「三日で次の河の港へ着く。——黄の帯を三つの師団と荷車とが踏む」
「回れば」
修平は訊いた。
「西へ回って刈り終えた畑の道を通る。六日」
呉承略は言った。
「三日の遅れ。——その間に敵が次の河の港に兵を集める」
「集めますか」
「分からぬ」
呉承略は言った。
「分からぬ、と方面軍の敵を見る官は書いている。見立ては集める、だ。けれど、集める兵の数は分からぬ」
呉承略は図から目を離した。
「決めるのは私ではない。——韓奇捷どのだ。私はこの紙を方面軍へ送る。三日の遅れと来年の郡の飯とを同じ紙に書いて」
呉承略は修平の重ねた紙の上に一行書き足した。
——参謀本部の見る所。回るをよしとす。ただし、決むるは方面軍の長なり。
◇
韓奇捷はその紙を夜、天幕で読んだ。
読んでしばらく何も言わなかった。
宇文衡が脇に座っていた。
「三日」
韓奇捷は言った。
「三日遅れて次の河の港に敵が二万集まっていたら。——三日の遅れは兵の血で払う」
「払うことになります」
宇文衡は言った。
「真っ直ぐ行って黄の帯を踏めば。——来年の秋にこの郡の者が飢えます。飢えた郡を来年の秋、この軍が通るかもしれない。そのとき、この郡の者は宋の軍に何も売らない。売る物がないから」
韓奇捷は紙を畳んだ。
「回る」
韓奇捷は言った。
「ただし、騎兵を先に次の河の港へ出す。港の敵の数を見に。——三日の間に敵が二万を超えたら、そのときまた考える」
◇
四日後の昼。
ラドミルはミレツの町の西の丘の上に立っていた。
丘の下を宋の軍が通っていた。
真っ直ぐ北へ行くのではなかった。西へ回っていた。刈り終えた茶色の畑の道を。——兵が四列になって畑の縁を歩いていた。荷車の長い列がその後ろに続いていた。砲を引く馬の列が。
東の濃い黄の畑では、村の者たちが豆を刈っていた。
刈る手を止めて、西の軍の列を見ている者もいた。
ラドミルの脇に温子沖が立っていた。
「なぜ回る」
ラドミルは訊いた。通詞が訳した。
「刈っていない畑があるからです」
温子沖は言った。
「それだけか」
「それだけではありません」
温子沖は言った。
「来年の糧のためでもあります。——宋の軍の糧の」
ラドミルはしばらく黙っていた。
「正直なことだ」
ラドミルは言った。
「隠しても、帳面を見れば分かります」
温子沖は言った。
「郡の長が、郡の帳面の数が正しくない、と私に言ったように」
ラドミルは少し笑った。
笑ってから、腰の鍵を一つ外した。種の倉の鍵だった。
「預ける」
ラドミルは言った。
「宋の軍にではない。——統計局の吏員どのに。この郡の種の数を数えてくれ。数えて帳面に書いて、また封をしてくれ。春にその数どおり村々に配る。数が減っていたら、誰が減らしたかが分かる」
温子沖は鍵を受け取った。
鍵は古い鉄の鍵だった。持つところが指の形に擦り減っていた。
丘の下を最後の荷車の列が通り過ぎていった。東の黄の畑で、村の者たちがまた豆を刈り始めていた。




