第十巻 東門 第三回 大河の国
ボルカの港には、倉が三十並んでいた。
喩徳順は河岸の石の段の上に立って、倉の列を数えた。三十一あった。一つは屋根が半ば落ちていた。落ちたのは今年ではなかった。屋根の穴から若い木が一本伸びていた。
倉は焼かれていなかった。
ヴィシェンの砦が落ちたのは、第十三日だった。落ちた、というより空いた、という方が近かった。森を抜けた二つの師団が砦の後ろの丘に出た夜、砦の兵は北へ退いていった。退くときに、砦の弾の倉を焼いた。砦の門を焼いた。
ボルカの港の倉は焼かなかった。
第二師団が海沿いの道を北へ進んで、ボルカに入ったのは、第十九日の昼だった。港のメルキアの兵は前の夜にいなくなっていた。
「焼く暇がなかったのか」
喩徳順は脇の通詞に言った。
「焼かなかったのでしょう」
通詞は言った。
「この港の倉が焼ければ。——冬にカルナの川の北の岸の村々は、塩も、布も買えない。倉の半ばは商人の物です」
◇
港の船頭の組の長はトマシュ、という名だった。
六十ほどの大柄な灰色の髭の男だった。肌は宋の者と変わらなかった。——メルキアの河沿いの町には、人の姿の者が多い、と通詞は言った。北の帝国の兵の、小柄で牙のある者たちとは違う。
トマシュは組の帳場の奥の部屋で、喩徳順を待っていた。卓の上に組の帳面が三冊置かれていた。
「舟はいくつある」
喩徳順は訊いた。
「組の舟が百四十」
トマシュは言った。通詞が訳した。
「上り下りの大きい舟が六十。渡しの小さい舟が八十。——組の外の舟もある。数は分からない」
「その舟を借りたい」
喩徳順は言った。
「一日、一艘いくらか」
トマシュはすぐには答えなかった。
「軍は舟を取り上げるのではないのか」
「取り上げない」
喩徳順は懐から紙を出した。布告の文の写しだった。
「値を払う。値を払えぬときは、受け取りの紙を渡す。——その紙が後で銭に替わるかどうか。この港で最初に確かめるのは、あなたたちだ」
トマシュは紙を読んだ。字が読める男だった。
「舟を全部は貸せない」
トマシュは言った。
「冬の前に、北の岸の村々へ塩を運ばねばならぬ。——川が凍れば、来年の春まで舟は出ない」
喩徳順はしばらく黙っていた。
それから港の図を卓の上に広げた。
「この港の下の三つの河岸を軍が使う」
喩徳順は指で線を引いた。
「ここから上は組の舟が使う。塩の舟は、軍の札を立てて通す。——軍の区と民の区とを分ける。軍の区には、夜、民の舟は入らない。民の区で、軍は荷を下ろさない」
トマシュは図を見ていた。
「上り下りの舟を四十。渡しの舟を五十」
トマシュは言った。
「値は、この秋の塩の商人に貸す値と同じ。——それより安くはしない。高くもしない」
「それでいい」
喩徳順は言った。
トマシュは組の帳面を開いた。
帳面の頁の頭に、トマシュは宋の字で何かを書こうとして、やめた。メルキアの字で書いた。通詞が覗き込んで読んだ。
——宋の軍。舟、九十。値は、塩の値。
◇
その夜、喩徳順は方面軍の天幕へ紙を一枚送った。
——カルナの川の橋と、渡しと、港。
紙には欄が三つあった。
——取るべきもの。敵の兵が南へ渡り得る橋と渡し。
——壊すべからざるもの。穀物の倉の町と村とを結ぶ橋と渡し。ボルカの港の河岸と、倉と、組の舟。
——いずれとも、未だ決め得ざるもの。
三つ目の欄が一番長かった。
同じ橋が敵の兵を南へ渡すこともあった。村の者が粟を市へ運ぶこともあった。——喩徳順は、橋の一つ一つの脇に書き添えた。この橋を落とせば、北の岸のどの村がどの市から切れるか。
翌朝、紙は宇文衡の朱の書き入れと一緒に戻ってきた。
——三つ目の欄の橋は、落とさず。守りの兵を置くか、見張るのみ。落とすときは、方面軍の長の名にて。
その日の午、ボルカの市で塩の値が張り出された。
戦の前の倍になっていた。
通詞が市の札の前で商人に訊いた。商人は、北の岸へ塩を運ぶ舟が三日出ていない、と言った。——宋の軍が港を閉じると思った船頭たちが、舟を出さなかったのだった。
喩徳順はトマシュの帳場へ戻った。
民の区の河岸に軍の札を立てた。札には、メルキアの字と宋の字とで同じことが書かれていた。
——この河岸より上、民の舟、昼夜通るを妨げず。
三日後、塩の値は戦の前の一割高まで戻った。
◇
甄巌はカルナの川の岸にしゃがんでいた。
第一師団の工兵の大隊の長だった。少校の位を受けていた。四十手前の痩せた男で、都水監で黄河の堤を十年見てきた。
岸の土を手に取った。
握ると、指の間から水が出た。
見立ての渡るところは、ここだった。図の升の五十二。——夏の終わりに互市の商人が見た、と言った浅い瀬だった。岸は固い砂利。水は腰まで。流れは緩い。
今、岸は泥だった。
甄巌は竿を川へ差した。竿の白い刻みが水に沈んでいった。——腰ではなかった。人の背丈を超えていた。
「昨日の昼から」
脇の工兵の中尉が言った。
「四尺上がりました。——三日、雨が降っています。北の山の方では、もっと降っているそうです。猟師が言っています」
甄巌は流れの上に木の切れ端を投げた。
中尉が香の短い棒に火を点けた。
切れ端が岸の印の杭から次の杭まで流れる間に、香は指の幅の半ばも燃えなかった。
「速い」
甄巌は言った。
「浮き橋の錨が効かない」
甄巌は帳面を出した。
——升の五十二。第二十四日。巳の刻。水、背丈を越ゆ。昨日より四尺。流れ、見込みの三倍。岸、泥。浮き橋、架け得ず。
甄巌は竿を抜いた。
竿の先に黒い泥がついていた。川底の泥だった。——砂利ではなかった。
甄巌は泥を指で擦った。
川は道とは違う。一度測ったら終わりではない。雨が降れば、川は変わる。昨日の川と、今日の川とは別の川だった。
◇
方面軍の天幕で、韓奇捷は甄巌の報せを読んだ。
「代わりの渡るところを」
韓奇捷は宇文衡に言った。
「三つあります」
宇文衡は図を広げた。
「一つ。升の五十二から下へ二十里。渡しの村。岸は砂利。流れは緩い。——猟師の話で、確かめていない」
「二つ目」
「升の四十七。ボルカの港の上。第二師団が押さえている。岸は石の段。舟がある。——ただし、渡った先の道が細い。二つの師団を渡すには三日」
「三つ目」
宇文衡は図の上の方を指した。
「ストルガ、という町。升の五十八。——石の橋がある。焼かれていない」
天幕の中が静かになった。
敵を見る官が口を開いた。開封の哈特の下から方面軍に付けられた三十前の官だった。
「ストルガの橋は確かめました。——焼かれていません。守りの兵も少ない。見立てで、二百」
「なぜ焼かない」
韓奇捷は言った。
「ヴィシェンの門は焼いた。弾の倉も焼いた。——下の渡しの舟は全部、北の岸へ引いた。上のストルガの橋だけを残す」
「分かりません」
敵を見る官は言った。
「分からず、と書きます。——ただし、橋の北の丘の上に、見慣れぬ石の低い囲いが三つ、新しく築かれている、と斥候が言っています。囲いの中は見えなかった」
韓奇捷はしばらく図の上の石の橋を見ていた。
「術者の場所だ」
韓奇捷は言った。
「見立てです」
敵を見る官は言った。
「見立てでよい」
韓奇捷は言った。
「一つ目の渡しの村を取る。今夜、斥候と工兵とを出して確かめる。——確かめられなければ、二つ目の、ボルカの上で三日かけて渡る。ストルガの橋には、第三師団から一つの大隊を向ける。渡るふりをさせる。渡らせない」
「開封へは」
宇文衡が訊いた。
「報せる」
韓奇捷は言った。
「許しは待たない。——命の文の目当てを変えていない。渡るところを変えるだけだ」
◇
開封の長い部屋で、方面軍の報せが東の壁に貼られたのは、その日の酉の刻だった。
——渡るところ、升の五十二より下へ二十里、渡しの村へ変う。確かめ得ずば、升の四十七。ストルガの橋、渡らず。
莫子期は報せを読むと、すぐに東の壁の刻の表の前に立った。
表の升の五十二の欄に、ずらりと刻が並んでいた。浮き橋の材を積んだ荷車の列。橋を渡った先で使う弾の車。医の車。後ろの第三師団の糧の車。
全部、升の五十二へ向かっていた。
「行き先を全部変える」
莫子期は言った。
「浮き橋の材は、今どこにある」
鉄の道の机の若い吏が帳面を繰った。
「半ばは楡関の倉。半ばはヴィシェンの南の道の上。——荷車、六十台」
「道の上の六十台は、升の三十八の分かれ道で東へ曲げる。渡しの村へ」
莫子期は紙に書いた。
「楡関の倉の残りは動かさない。——もし、渡しの村がだめでボルカの上に変わったら、楡関からは海沿いの道の方が近い。どちらになってもいいように、倉に置いておく」
呉承略が莫子期の後ろで表を見ていた。
「予備の橋の材は」
「浮き橋、一つ分。平州の港に」
「動かせ」
呉承略は言った。
「どこへ」
「楡関まで。——使うと決まる前に、近くへ寄せておけ。使うと決まってから動かすのでは、三日遅れる」
莫子期は筆を止めた。
「予備の材を寄せれば、平州の港の二千石が、一日それで埋まります」
「埋めろ」
呉承略は言った。
「橋が一つ落ちたとき。——糧の一日分より、橋の材の方が重い」
◇
渡しの村の岸は砂利だった。
斥候と甄巌の工兵とが、夜のうちに測った。水は胸まで。流れは升の五十二の半ば。——翌日の夜明けから、第一師団の最初の大隊が舟で渡った。舟は、ボルカの組の舟だった。トマシュの組の船頭が漕いだ。
昼までに浮き橋が架かった。
甄巌は橋の南の袂に小さな板の札の台を立てた。
台の上に紙が一枚貼られていた。
——橋を渡る順。刻ごとに。
——卯の刻。第一旅団。
——辰の刻。砲の隊、二つ。弾の車、二十。
——巳の刻。医の車、五。野の病院の天幕と床。
——午の刻。第二旅団。
——未の刻。橋を渡りし後に架くる二つ目の橋の材。
「順を守らせろ」
甄巌は橋の袂の工兵の中尉に言った。
「砲が自分の刻より早く来ても。——渡らせるな。袂の野で待たせろ。一本の橋に二つの隊が一度に乗れば、敵がいなくても、橋の上で軍が止まる」
「止まったら」
「止まった隊の後ろの隊が、全部止まる」
甄巌は言った。
「黄河の渡しでそれを十年見てきた。——舟に乗る順を決めていない日は、いつも岸が詰まった」
◇
明くる日の未の刻の少し前だった。
北の空が光った。
光は一つではなかった。三つ。四つ。——橙色の光の弾が、北の丘の遠くから弧を描いて飛んできた。
光は橋の真ん中の二つの舟の間に落ちた。
水が跳ね上がった。舟が一つ傾いた。橋板が三枚割れて流れた。
橋の上を渡っていた医の車の最後の一台が、割れた板の手前で止まった。
甄巌は橋の袂から走った。
——ストルガの石の囲いは、囮ではなかった。
甄巌は走りながら、そう思った。術者はあの囲いにいた。けれど、ストルガの橋のためだけではなかった。下の渡しの村まで届くところにいた。——下の渡しの村の岸が砂利で渡りやすいことを、敵は知っていた。
川を知っているのは、敵の方だった。
◇
橋は半ばで切れていた。
北の岸に、第一旅団と、砲の隊が二つ。医の車が四つ。——南の岸に、第二旅団と、残りの全部。
甄巌は橋の袂の札の台の紙を剥がした。裏に別の紙が貼ってあった。渡る前の夜に書いておいた紙だった。
——橋、落ちしとき。
——一。割れし舟を外す。予備の舟、二つを入るる。二刻。
——二。二刻にて直らずば、下へ三里、渡しの舟の所にて、夜、舟にて渡す。船頭の組の舟、二十。
——三。予備の橋の材、楡関より。三日。
「一つ目」
甄巌は言った。
工兵が割れた舟に縄を掛けた。
二度目の光の弾は来なかった。北の岸の砲の隊が、北の丘の石の囲いの方へ砲を向けていた。——囲いまでは遠すぎて届かなかった。けれど、砲が向いたことを、敵は見ていた。
二刻の少し前に、橋は繋がった。
甄巌は橋の袂に戻った。
札の台に新しい紙を貼った。
——申の刻。医の車、最後の一。
——酉の刻。第二旅団。
——夜。舟の見張り。上流と下流とに各一艘。灯を持つ。
◇
その夜、上流から小さな舟が三つ下ってきた。
灯を持たない舟だった。——メルキアの河を見る兵の舟だった。橋の錨の縄を切りに来たのだった。
上流の見張りの舟が灯を振った。
橋の袂の兵が撃った。
小さな舟は、一つがひっくり返った。二つが北の岸の葦の中へ逃げた。
ひっくり返った舟の兵が二人、泳いで南の岸に上がった。
小柄な灰緑の肌の兵だった。下顎から小さな牙が出ていた。——二人とも、刃物を捨てて両手を上げた。
工兵の中尉が二人に毛布を掛けた。
甄巌は翌朝、帳面に書いた。
——夜。敵の舟、三。錨の縄を切らんとす。一つ、覆る。捕らう、二人。飯と、水と、火とを与う。
——見張りの舟、一艘にては足らず。上流の曲がりの先にも一艘。夜ごと。
——渡るところを選ぶは、渡りやすきところを選ぶことなり。敵も、同じところを知る。
◇
開封の長い部屋の奥の古い戦の机で、戦史の官が二枚の紙を並べていた。
一枚は、渡る前に作った刻の表。もう一枚は、方面軍から届いた本当の刻。
二枚の刻の差を一つずつ拾っていった。
——升の五十二、渡り得ず。雨。一日。
——渡しの村へ材を回す。荷車、升の三十八の分かれ道にて、半日詰まる。道の交わり。
——橋、光の弾にて切る。二刻。敵。
——予備の舟を入るるに手間取る。縄、足らず。半刻。工兵の支度。
——橋、切れしとき、医の車の最後の一、割れし板の手前にて止まる。後ろの第二旅団、袂にて待つ。二刻。敵。
——砲の隊の一つ、自らの刻より早く袂に来る。袂の野、詰まる。第二旅団の渡り始め、一刻遅る。橋の交わりを整うること。
戦史の官は、差の一つ一つの脇に小さな字を書き入れていった。
——天。敵。道。工兵。交わり。
「勝った渡りだった」
呉承略が後ろから言った。
「勝った渡りです」
戦史の官は言った。
「予定より二日近く遅れました。——そのうち、敵に取られたのは四刻だけです」
呉承略は紙を覗き込んだ。
「残りは」
「雨と、道と、縄と、砲の隊の焦りと」
戦史の官は言った。
「敵がいなくても、一日と七刻あまり遅れていました」
呉承略はしばらく黙って紙を見ていた。
「その紙を棚に入れるな」
呉承略は言った。
「北へ写しを送れ。——次の川を渡る前に、方面軍の全部の工兵の長に読ませろ」
古い戦の机の窓の外で、秋の冷たい雨がまた降り始めていた。北のカルナの川の上の方の山では、雨はもう雪に変わっているかもしれなかった。




