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第十巻 東門 第二回 森林と平原

 森に入って半刻で、前の小隊が見えなくなった。


 谷長順は足を止めた。


 道はあった。車が一台やっと通れるほどの土の道だった。道の両側に木が立っていた。白い肌の木と、黒い肌の木と。——白い肌の木の葉はもう黄色くなって落ち始めていた。落ちた葉が道を覆っていた。


 前の小隊は百歩ほど先にいるはずだった。


 百歩先は木だった。


「笛を」


 谷長順は言った。


 段七が短く二度笛を吹いた。


 しばらくして、前の方から二度笛が返ってきた。右の少し奥から聞こえた。


「右に曲がっている」


 段七が言った。


「道が曲がっているのか。小隊が道を外れたのか」


 谷長順は答えなかった。分からなかった。


 森に入る前の日、谷長順は中隊の長たちと一緒に師団の官から図を渡されていた。この夏に刷られた北の図の第三の版だった。国境からカルナの川まで。森は緑の点で塗られていた。緑の点の中を、細い一本の線が北東へ抜けていた。


 ——道。車、通る。見立て。


 図の上の道は真っ直ぐだった。


 方面軍の報せの日の数えは、境を越えた日から改められていた。楡関の門を前衛が出た日を第一日として。——今日は第二日だった。


  ◇


 中隊の先頭に猟師が一人ついていた。


 イルコ、と名乗った。メルキアの森の縁の村の者だった。背の低い四十ほどの男で、灰色がかった肌の首の横に古い傷があった。


 森に入る前の日に、通詞を挟んで約を交わした。一日三百文。道を案内する日数。村へ戻る日。——紙が二枚作られた。一枚は中隊が持った。もう一枚はイルコが持った。イルコは字が読めなかった。通詞が読み上げた。イルコは紙の端に指の印を押した。


「この先で道は二つに分かれる」


 イルコが言った。通詞は師団の官の所にいた。中隊には一人、メルキアの言葉を少し覚えた兵がついていた。郝小虎だった。動員の後、平州で海の舟を待つ間に、兵営の夜の組で通詞に習っていた。


「右は冬の道。——冬に凍った沼の上を橇で通る道」


 郝小虎は一語ずつ訳した。


「今は」


「今は沼」


 イルコは言った。


「左は炭焼きの道。細い。けれど、下が固い。——黒い肌の木の根が張っている」


 谷長順は段七に図を出させた。図の上には、道は一本しかなかった。


「前の小隊は右へ行った」


 谷長順は言った。


  ◇


 前の小隊は、道から二百歩入った沼の縁で止まっていた。


 沼は浅かった。けれど、底がなかった。——小隊の長が一歩踏み込んで、膝まで沈んだ。


「車は」


 谷長順は訊いた。


「通れません」


 小隊の長は言った。泥の膝の下を見ていた。


「兵なら渡れる。——砲は無理です」


 谷長順は帳面を出した。


 ——森の中。第二日。午の刻。図の升の三十一。道、二つに分かる。右、冬の道。今は沼。車、通らず。左、炭焼きの道。細し。下、固し。猟師イルコ、言う。


 書き終えて、谷長順は帳面を閉じた。


「左へ戻る」


 谷長順は言った。


「笛を四度。——後ろの中隊に右へ来るな、と」


 段七が笛を吹いた。


 四度の笛が木の間に吸い込まれていった。後ろから返事が来るまでに、ずいぶんかかった。


  ◇


 森の外、国境のヴィシェンの砦の南の丘で、韓奇捷は朝の報せを読んでいた。


 海沿いの道を行った第二師団は、四日目にヴィシェンの砦の前に着いていた。砦は囲まれていた。攻めてはいなかった。攻めるのは、森を抜けた二つの師団が砦の後ろに出てからだった。


 森の中の第一師団と第三師団の報せは揃わなかった。


 ——第一師団。第四日。夕。前衛、図の升の三十八に着く。見込み、升の四十五。


 ——第三師団。第四日。夕。前衛、升の三十四。見込み、升の四十四。


「半ば」


 宇文衡が言った。


 宇文衡は方面軍の参謀の長だった。開封で三つの案を壁に貼った後、命の束を持って北へ来ていた。


「森の中の進みが見込みの半ばです。——二つの師団とも」


 韓奇捷は報せを脇に置いた。


「見込みはどこから出した」


「演習の速さの表から」


 宇文衡は言った。


「大名府の北の野で測った表です。——一刻に、道なら何里。野なら何里。森なら何里。森の欄は陳橋の北の林で測りました」


「陳橋の林と、この森と」


 韓奇捷は言った。


「違うか」


「違います」


 宇文衡は言った。


「陳橋の林は、下に草しかない。道は真っ直ぐ。——ここの森は、下が沼か、根か、倒れた木か。道が図と合わない。前の隊と後ろの隊とが笛でしか繋がらない」


 宇文衡は別の紙を出した。


「表を守らせることはできます」


 宇文衡は言った。


「急がせれば、兵は急ぐ。——急いだ兵が沼に砲を沈めます」


  ◇


 昼過ぎに、方面軍の官たちが天幕に集まった。


 作戦の官の中校が図の上に手を置いた。


「森を抜けるのを急ぐべきです」


 中校は言った。


「ヴィシェンの砦の後ろに出るのが遅れれば遅れるほど、砦の兵は北から助けを呼べる。——メルキアの王ヴォルスラフの北の兵がカルナの川を渡って下りてくる前に、砦を落とす」


 糧と弾との官の喩徳順が首を振った。


「森の中の道を直すのが先です」


 喩徳順は言った。五十を少し越えていた。河北の転運司で、軍の糧を運ぶ勤めを二十年した男だった。


「今、森の中の二つの師団は、兵が背負った糧で進んでいます。三日分。——荷車は、森の入り口の升の二十六から先へ出られない。道を直さねば、第七日に、背負った糧が尽きます」


「七日」


「七日目の夕に」


 喩徳順は言った。


「急げば、兵は砦の後ろに第八日に出るかもしれない。——出た兵は糧がない」


 中校と喩徳順とはしばらく言い合った。


 宇文衡は止めなかった。


 半刻ほど言い合わせてから、宇文衡は紙を一枚、韓奇捷の前に置いた。


 二つの欄があった。


 ——一つ。急ぐ。砦の後ろに第八日、出づる見込み。糧、第七日に尽く。敵の助け、第十日より前に来るならば、利あり。敵の助けの来る日、未だ確かめず。


 ——二つ。道を直しつつ進む。砦の後ろに第十一日。糧、途切れず。敵の助け、第十日より前に来るならば、砦の前の第二師団、敵を二つの方より受く。


「どちらが正しい、とは書いていない」


 韓奇捷は言った。


「書けません」


 宇文衡は言った。


「敵の助けがいつ来るか。——分からぬからです。分からぬところが真ん中にある。二人とも正しい。二人は別の欄を見ている」


 韓奇捷は紙を見ていた。


 十一年前なら、韓奇捷は迷わなかった。急ぐ、と言っていた。——騎兵には騎兵をぶつければいい。


「二つ目だ」


 韓奇捷は言った。


「ただし、第二師団に砦の前から退く道を先に作らせる。——敵の助けが先に来たら、第二師団は戦わずに楡関の方へ一日退く。退くことを今、命の文に書いておく」


 中校は口を閉じた。


 それから頷いた。


「では、第二師団の退く道の刻を作ります」


  ◇


 開封の長い部屋で、呉承略は森の中の二つの師団の報せを並べていた。


 北の壁の図の上の二つの札は、四日の間ほとんど動いていなかった。


 東の壁の刻の表の第一師団の行に、莫子期が朱の線を引いていた。見込みの升と、本当の升と。二本の線は第二日から離れ始めて、第四日には倍に開いていた。


「演習の速さの表を捨てる」


 呉承略は言った。


「森の欄だけではない。——全部の欄に、この森で測った数を入れ直す。平らな野の欄も。本当の野で測るまでは見立て、と書く」


「全軍の着く刻を引き直すのに」


 莫子期は言った。


「計算の機械で一日」


「引き直せ」


 呉承略は言った。


 莫子期が机へ戻りかけた。呉承略は呼び止めた。


「もう一つ」


 呉承略は北の壁の森の図の上に指を置いた。


「二つの師団が森の中で一本の道に並んで進もうとしている。——先頭が沼に当たれば、後ろが全部止まる」


 呉承略は指を森の中で二つに分けた。


「師団ごとに道を分ける。——猟師と炭焼きの道を、師団ごとに選ばせる。森の出口の升の四十六で、もう一度一つになる」


「分けすぎれば」


 莫子期は言った。


「一つずつ叩かれます」


「だから、命の文に刻を書く」


 呉承略は言った。


「隣の師団と報せを交わす最後の刻を。——その刻に隣から報せが来なければ、止まって斥候を出す。報せが来るまで先へ出ない」


 呉承略は筆を取った。


 ——隣と報せを交わすこと。毎日、未の刻まで。未の刻を過ぎて、報せ来たらずば、その場に止まり、斥候を隣へ出だすべし。


  ◇


 夜、第一師団の師団の官の天幕の端で、図の課の若い測り手が灯の下に座っていた。


 若い測り手は、狄承武の命で平州から第一師団へ付けられていた。


 卓の上に紙が積まれていた。


 中隊の長たちの帳面の写しだった。谷長順の。ほかの十幾つの中隊の。——道が二つに分かれる。冬の道。沼。炭焼きの道。倒れた木。小さな小屋が三つ。水の湧くところ。


 若い測り手は一枚ずつ読んで、白い紙の升の上に書き入れていった。


 ——升の三十一。道、二つに分かる。右、沼。左、炭焼きの道、下、固し。


 ——升の三十三。白い肌の木の林。下、湿る。車、沈む。


 ——升の三十四。黒い肌の木。根、張る。車、通る。


 ——升の三十六。炭焼きの小屋、三つ。人、いず。窯、温かし。


 昨日まで緑の点だけで塗られていた升が、少しずつ線と字とで埋まっていった。


「森を一つの色で塗ってはいけなかった」


 若い測り手は脇にいた師団の図の官に言った。


「白い木の下は沈む。黒い木の下は通る。——木の肌の色で道が分かる」


「明日の朝までに清書を」


 図の官は言った。


「明日の朝までに」


 若い測り手は笑わなかった。いつもはよく笑う男だった。


 明け方に清書ができた。——図の第三の版の升の三十から三十八までを描き直した小さな紙だった。紙の右の下の隅に版の番号が書かれていた。


 ——第三の版の補い。其の一。


  ◇


 第七日に第一師団の前衛が森の出口に出た。


 森が切れた先は平らだった。


 黒い土の畑が広がっていた。刈り終えた畑と、まだ刈っていない畑と。畑の区切りに、背の高い木の列が並んでいた。風を防ぐための木の列だった。


 森の出口は狭かった。二つの丘の間を道が抜けていた。


 前衛の中隊が狭いところを抜けようとしたとき、左の丘の上から矢が来た。


 前衛の中隊の長は兵を伏せさせた。丘の上の敵は、二十か、三十か。——撃ち返すと、敵は丘を下りて平らな畑の方へ退いた。


 退いた敵を、前衛の騎兵の小隊が追いかけかけた。


 赤と白との旗が上がった。


 ——追うな。


 騎兵は狭いところの出口で止まった。


 しばらくして、畑の向こうの風を防ぐ木の列の陰から騎兵が出てきた。二百か、それ以上か。——前衛の騎兵が追って平らな畑の真ん中に出ていれば、横からそこへぶつかるところだった。


 メルキアの騎兵は、狭いところの出口の前を横切った。横切りながら、光の弾を三つ撃った。——術者が混じっていた。光の弾は丘の斜めの面に当たって土を跳ね上げた。


 それから騎兵は木の列の陰へ戻っていった。


  ◇


 その日の夕方、谷長順の中隊が森の出口の左の丘に上がった。


 丘の上から平らな野が見えた。


 見えた、と谷長順は思った。——けれど、見えたのは野の半ばまでだった。風を防ぐ木の列が畑を区切っていた。列の向こうは見えなかった。列の向こうの列も。


 砲の隊の観る者が丘に上がってきた。


 観る者はしばらく遠眼鏡で野を見ていた。少府監の琉璃の工房が砲の隊に配り始めた筒だった。それから首を振った。


「木の列の向こうが見えない。——砲は、見えない所へは撃てない」


「高い所は」


「あそこ」


 観る者は野の真ん中の一つの村を指した。村の真ん中に背の高い倉があった。


「あの倉の屋根に上がれば、三つ先の木の列まで見える」


「あの村はまだ敵の内だ」


 谷長順は言った。


「では」


 観る者は言った。


「明日、あの村を誰が取るかで。——この野で砲が目を持つか持たないかが決まる」


 谷長順は帳面に書いた。


 ——升の四十六。森の出口。平らなる野。木の列、畑を区切る。砲、見えず。見るによき所、村の倉の屋根。


  ◇


 夜半、丘の上で兵が一人叫んだ。


 丘の麓の枯れた草が燃えていた。


 昼の光の弾が落ちたところだった。土の下で根が燻っていたのが、夜の風で燃え上がったのだった。——火は枯れた草を伝って森の方へ這っていた。


 段七が中隊の兵を起こした。


 兵たちは円い匙で土を掘って火の前に投げた。沓で叩いた。森の縁の枯れ枝を、火の来る前に引き抜いた。


 半刻で火は消えた。


 夜が明けてから、谷長順は焼けた草の跡を見に下りた。


 焼けた跡は、森の縁の十歩手前で止まっていた。


 ——あと十歩。


 森が燃えていたら、と谷長順は思った。森の中の道を糧の車が通っていた。後ろの中隊が森の中で夜を明かしていた。


 谷長順は帳面に書いた。


 ——夜半。昼の敵の光の弾の落ちたる所より、草、燃ゆ。森の縁まで十歩。乾く日は、森の出口に火を防ぐ組を置くべし。


 書き終えて、谷長順は焼けた跡の向こうの森を見た。


 白い肌の木の黄色い葉が、朝の光の中でまた少し落ちていた。


  ◇


 その日の昼、方面軍の天幕に、森の縁の炭焼きの村の長が来た。


 通詞を挟んで、韓奇捷は長と話した。


 長は、兵が橋を架けるための木を、村の窯の脇の林から切っていった、と言った。——窯に焼く木を三年育てた林だった。


「切ったのはどの隊だ」


 韓奇捷は訊いた。


「分からない」


 長は言った。


「黒い旗の兵だった」


 韓奇捷は宇文衡を見た。


 宇文衡は工兵の帳面を出させた。——昨日、木を切った隊。切った場所。切った本数。受け取りの紙を渡したか。


 工兵の一つの小隊が村の林で三十本切っていた。受け取りの紙は渡していなかった。村の誰が林の持ち主か分からなかった、と小隊の長は書いていた。


「分からなければ訊けばよい」


 韓奇捷は言った。


 それから長に向き直った。


「三十本の値を払う。——それと、これから木を切るところを村と決める」


 長は通詞の言葉を聞いて、しばらく黙っていた。


「窯の林は切らないでくれ」


 長は言った。


「あの林を切られたら、冬に炭が焼けない。炭が焼けなければ、冬に村は塩を買えない」


「窯の林は切らない」


 韓奇捷は言った。


「どこなら切ってよいか。——長が図の上で指してくれ」


 若い測り手が図を広げた。


 長は図を見たことがなかった。しばらく図の上の線と字とを見ていた。それから指を一本出した。


 長の指は図の上を迷ってから、升の三十六の少し北で止まった。


 ——炭焼きの小屋、三つ。


「ここは私の窯だ」


 長は言った。


 若い測り手は図のその升に小さく書き足した。


 ——窯の林。切るべからず。

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