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第九巻 軍制 第十五回 机上の戦争

 賽は二つあった。


 骨の小さな賽だった。克魯澤が盤の脇の浅い木の箱に転がした。


 四と、二。


「六」


 克魯澤は言った。


 克魯澤は手元の刷った表を見た。縦に賽の目。横に撃つ距離と、撃たれる側が伏せているか、立っているか、土塁の陰か。


「三百歩。伏せた兵に針銃の斉射。六は。——十に一つ」


 克魯澤は盤の上の敵の駒の脇に、小さな白い木片を一つ置いた。


 修平は盤の部屋の隅に座っていた。


 参謀本部の古い倉の奥に新しく部屋を二つ仕切った。屏風ではなかった。板の壁だった。二つの部屋のそれぞれに、同じ図を広げた卓が一つずつ。——二つの部屋の間の小さな部屋に、審べの官の卓があった。


 審べの官の卓にだけ、両方の駒が並んでいた。


  ◇


 盤の決まりを作ったのは、克魯澤と呉承略とだった。


 冬の初めの武の科挙の盤の試しの後、ふた月かけて作った。


「私の国の盤の決まりをそのまま持ってくることはしない」


 克魯澤は言った。


「私の国の砲と、この国の砲とは違う。私の国の敵と、この国の敵とは違う。——敵には術者がいる」


 克魯澤は刷った表の一番下の段を指した。


 ——敵の術者の光の弾。障壁。


 その段の升はほとんどが空いていた。空いた升の真ん中に、哈特の字で小さく書かれていた。


 ——分からず。仮に、西の遠征の記より。


「分からぬものは分からぬと書いて、仮の数を入れる」


 呉承略は言った。


「仮の数が盤の上で勝ち負けを決めてしまうなら。——その数を確かめることが、戦の前に一番大事なことだと分かる」


 決まりは刷られて一冊の薄い帳面になった。


 一つの駒が一刻にどれだけ動けるか。道で。野で。森で。河を渡るとき。雨の日。——報せが隊から隊へどれだけの刻で届くか。使いの馬で。旗で。電信で。


 敵の駒をどこまで見られるか。


「見られる所だけを見せる」


 克魯澤は言った。


「こちらの部屋の者に敵の駒の場所を教えるのは、審べの官だけ。——斥候が見た、と紙に書いて渡す。斥候が見に行くのに一刻。帰るのに一刻。渡された紙に書かれた敵は、二刻前の敵」


  ◇


 作戦の課は一つの案を作らなかった。


 北の、東の境で戦が始まるとして。——敵が東の森から来る場合。西の草の原から来る場合。二つの方から同時に来る場合。敵の後ろからの兵が見立てより十日早く着く場合。こちらの兵を集めるのが、見立てより五日遅れる場合。


「五つの案」


 董元礼が壁に貼られた紙を見て言った。


「どれが当たる」


「どれも当たりません」


 作戦の課の上校が言った。暮れの最初の試しの議で、五日の案を三日で止めた、あの上校だった。


「当たらぬことは分かっています。——戦の日に北から来る報せが、五つのうちどれに一番近いか。一番近い案を引き出して、違うところを直す。白い紙から始めるより速い」


 上校は少し笑った。


「五つとも外れていたら、一番外れていない案から直します」


  ◇


 春の半ばの盤の日。


 こちらの部屋に、狄承武と第一師団の官たち。費孝先と閔承祖と。


 敵の部屋に、呉承略の参謀本部の者たち。莫子期と蕭景明とが、敵の役の候補の者として。


 それにもう一人。


 審べの官の小さな部屋の脇に、卓がもう一つ置かれていた。——開封、と札が立っていた。


 開封の卓には、作戦の課の若い官が座っていた。電信で戦の野の師団に命を送る、枢密院の役だった。


「開封の卓に届く報せは」


 呉承略は盤の始めに言った。


「電信の局から来る。——師団から電信の局まで使いで一刻。電信で開封まで打つのに四半刻。開封で読んで図に写すのに四半刻。開封の卓に届く戦の野は、一刻半前の戦の野」


  ◇


 最初の盤は半日で崩れた。


 三刻目に、開封の卓の若い官が命を一つ送った。


 ——第一旅団の第二大隊を右の丘へ回せ。敵の騎兵、右より来る。


 開封の卓に届いた斥候の報せを読んでの命だった。敵の騎兵は、一刻半前に確かに右から来ていた。


 命は電信で打たれて、使いで戦の野へ運ばれた。狄承武の卓に届いたのは、四刻目の終わりだった。


 四刻目の戦の野では、敵の騎兵は右から左へ回っていた。


 狄承武は命の文を読んだ。


 狄承武は開封の命に従った。——この盤の決まりだった。開封から来た命には従う。今日はそう決めてあった。


 第二大隊が右の丘へ回った。


 左が空いた。


 五刻目に、審べの官の克魯澤が紙を狄承武の卓に置いた。


 ——左より、敵の騎兵、二百。第一旅団の左の大隊、崩る。


  ◇


 盤の後で、皆が一つの部屋に集まった。


 呉承略は開封の卓の若い官が送った命の文を壁に貼った。


「この命は誤っていたか」


 呉承略は言った。


 誰も答えなかった。


「誤っていない」


 呉承略は言った。


「開封に届いた報せでは、敵は右から来ていた。——右の丘へ兵を回せ、は正しかった。一刻半前には」


 呉承略は命の文の下に、もう一枚紙を貼った。


「二つ目の盤では、開封の卓の命の形を替える」


 二枚目の紙には、こう書かれていた。


 ——第一師団は、明日の日没まで北の河の南の岸を押さえよ。


 ——目当て。第二、第三師団が北の平らなる所に集まり終えるまで、敵を河の北に留むること。


 ——重きところ。東の渡し。


 ——縛り。河を北へ渡るべからず。弾は、第十日分まで。


 ——これを越ゆる事あらば、上に上げよ。敵の術者の大いなる術を見しとき。弾の半ばを使い尽くししとき。第二、第三師団の着くの遅るると知りしとき。


「どの大隊をどこへ回すかは、書かない」


 呉承略は言った。


「開封は何のために、どこまで、何日まで、を書く。——どうやって、は戦の野の将が決める」


 呉承略は狄承武を見た。


「十一年前、敵の小隊は何を押さえろ、とだけ命じられていた。——捕らえた者がそう言ったそうですな」


「言った」


 狄承武は言った。


「どうやって押さえるかは、小隊が決める、と」


「一昨年の夏、中牟の牧監で馬の砲の隊の長に、試しの間だけ決める権を許した」


 董元礼が言った。


「鮑順が弾の車を二つの道に分けた。——誰も命じていなかった」


 呉承略は頷いた。


「好きにせよ、ということではない」


 呉承略は言った。


「目当ては動かさぬ。縛りは越えぬ。——越えねばならぬときは、上に上げる。上げられぬときは、目当てを守る方へ動く。後で、なぜそう動いたかを書く」


 修平は壁の二枚目の紙を見ていた。


 去年の秋の霧の夜の段七を思い出していた。字のとおりではない。けれど、目当ては守った。——国の軍の法は、そのとき何を書き付けさせるかを決めていた。


 同じことを、参謀本部は命の文の形にしていた。


  ◇


 二つ目の盤は日没まで崩れなかった。


 狄承武は開封の命を読んで、東の渡しに第一旅団を寄せた。第二旅団を控えに残した。


 四刻目に、敵の騎兵が左へ回った。


 狄承武は開封に訊かなかった。控えの第二旅団から閔承祖の大隊を一つ左へ出した。


 六刻目に、克魯澤が紙を置いた。


 ——敵の術者、東の渡しの北の岸に集まる。大いなる術のしるし。


 狄承武は筆を取った。


 ——上に上げる。敵の術者、東の渡しに集まる。第一旅団、渡しより三百歩退きて、土塁の陰に伏す。退くは、渡しを捨つるに非ず。渡しを、射の届く内に留む。


 使いが開封の卓へ走った。


 開封の卓の若い官は、紙を読んでしばらく黙っていた。それから返しを書いた。


 ——承知す。


 返しが狄承武の卓に届いたのは、一刻半後だった。


 狄承武はその一刻半の間に、もう退いていた。


  ◇


 盤の後で、呉承略は皆に紙を配った。


「今日の盤で自分が何を決めたか。なぜそう決めたか。——書け」


 開封の卓の若い官が、筆を持ったまま呉承略を見た。


「最初の盤で、私の命が左を空けさせました」


「空けさせた」


 呉承略は言った。


「それも書け。——お前の命は、一刻半前の戦の野では正しかった。正しい命がなぜ崩れたのか。お前が書かねば、次の開封の卓の者が同じ命を出す」


 若い官はしばらく紙を見ていた。それから書き始めた。


 狄承武も書いた。費孝先も、閔承祖も。開封の卓の若い官も。敵の部屋の莫子期と、蕭景明も。


 書いた紙は全部、古い戦の者の机の後ろの棚にしまわれた。


「勝ったか、負けたかは書かなくていい」


 呉承略は言った。


「審べの官が書く。——書いてほしいのは、決めたときに何を知っていて、何を知らなかったか」


  ◇


 春の終わりには、同じ盤を三つの組に解かせた。


 一つは、第一師団の上校と少将と。一つは、武の科挙の候補の者たちと。一つは、陳橋の軍の学び舎の尉の官の候補の者たちの中から、五人。


 三つの組は別々の日に同じ盤を解いた。


 候補の者たちの組が、一番早く崩れた。


 尉の官の候補の組は、郁文遠が組の長だった。郁文遠の組は崩れなかった。けれど、北の河に一日遅れて着いた。——途中で兵の沓の減りを算えて、半日休ませた。鮑順が休ませろ、と言ったのだった。


 上校と少将との組は崩れなかった。北の河にも定めの日に着いた。


「上の者の組が一番よかった」


 董元礼が言った。


「位の高い者が正しい、ということか」


「今日の盤では」


 呉承略は言った。


「明日の盤では分からぬ。——候補の者たちの組が崩れたのは、一つの橋を渡りきる前に、次の橋へ隊の半ばを出したからです。上の者たちはそれをしなかった。十年、兵を率いた者は、橋の上で隊が二つに切れることを知っている」


 呉承略は郁文遠の組の紙を手に取った。


「尉の官の候補の組は一日遅れた。けれど、兵の沓の減りを算えていたのは、この組だけです。——上の者たちの組は沓のことを書いていない。沓が減っても、兵は歩くと思っている」


 呉承略は紙を置いた。


「三つの組の紙を並べて読ませる。——三つの組の全員に」


  ◇


 盤の紙を読み比べていくうちに、沈廷策が一つのことに気づいた。


 十度の盤で読み違えられた命の文を全部抜き出すと、半ばが同じ形の誤りだった。


 ——前へ出でよ。


 ——左へ回れ。


「前とはどこか」


 沈廷策は言った。


「左とは誰から見た左か。——命を書いた者から見た左と、命を受けた者から見た左とは、向きが違えば逆になる」


 沈廷策は兵部の机で、ひと月かけて命の文の形を七つに分けた。


 進め。止まれ。追え。退け。控えを出せ。——それに、戦のありさまの報せ。それらの前に一つ、戦の命。


 七つの形のどれにも、欠かせぬ欄があった。


 出した刻。出した者。受ける者。目当て。着くところは図の升の番号で。向きは左右ではなく、東西南北で。刻は二つの局で同じ刻の書き方で。


「文の美しさは要らぬ」


 沈廷策は言った。


「読み違えられぬことだけが要る」


 呉承略は七つの形を、参謀本部の長い部屋の西の壁に貼らせた。


「前へ、と書いた者は」


 呉承略は言った。


「書いた紙を自分でもう一度読め。——受ける者の立つところに立って」


  ◇


 盤の後の議は長くなった。


 作戦の課の上校が、次の盤の案を出した。北の河を渡って、敵の後ろへ回る案だった。


 糧と弾との課の官が、案を読んで首を振った。


「渡った先に糧を送る道がない」


「渡ってから作る」


「作るまでの三日の糧は」


「兵が背負う」


「兵が背負えるのは、二日」


 上校と、糧と弾との官とは、しばらく言い合った。修平は黙って聞いていた。


 呉承略は二人の言い合いを止めなかった。一刻、言い合わせた。


 それから言った。


「決める」


 部屋が静かになった。


「北の河は渡らない。——次の盤では」


 上校は口を閉じた。


「上校の案は捨てない。糧の道が二本できたときの案として、棚にしまう」


 呉承略は上校を見た。


「決まるまでは、言いたいことを全部言え。——決まった後は、決まった案を上校が一番上手に動かせ」


 上校は呉承略を見返した。


 それから頷いた。


「動かします」


  ◇


 春の終わりの最後の盤は、大きな盤だった。


 三つの師団を三つの道に分けて、北へ進める。——一つの道に一つの師団。三つの師団は、互いに一日で駆けつけられるところを保って進む。北の平らなところで一つに集まる。敵の前で。


「分かれて進み」


 呉承略は言った。


「共に撃つ」


 莫子期が三本の道の刻の表を並べて見ていた。三本の道のどの師団がどこで遅れても、残りの二つの師団に報せが何刻で届くか。——莫子期は升の一つ一つに刻を書き入れていった。


 盤の上の三つの道の駒を見下ろしていた。


「一本の道に三つの師団を並べれば。先頭の師団が敵に当たったとき、後ろの二つはまだ三日後ろにいる。——三本の道に分ければ、三つが同じ日に着ける。鉄の道と、電信と、同じ刻の表とがあれば」


 盤の上で克魯澤が砲の駒を動かした。


 全部の砲を一度に動かさなかった。四門の砲の隊の一つを、元の場所に残した。もう一つを、前の低い丘へ。——前へ出た隊が据え終えてから、残した隊を動かした。


「砲が全部動いている間は」


 克魯澤は一語ずつ言った。


「どの砲も撃てない。——歩く兵が前へ出ている、一番、砲の欲しいときに。だから半分ずつ」


 克魯澤は谷長順の方を見なかった。けれど、谷長順は苦い顔をしていた。


  ◇


 日が傾いていた。


 最後の盤の最後の紙が棚にしまわれた。


 呉承略は盤の部屋の真ん中に立っていた。参謀本部の者たちが皆集まっていた。狄承武と、第一師団の官たちも。


「この春、盤を十一度した」


 呉承略は言った。


「十一度とも、最初の案は外れた」


 誰も何も言わなかった。


「外れるのはよい」


 呉承略は言った。


「私がこの府の者に求めるのは、案が外れぬことではない」


 呉承略は壁の棚を見た。十一度の盤の紙がしまわれた棚を。


「外れたときに。——何を捨て、何を守るか。捨てたことを誰にどう報せるか。次の命を何刻の内にどう書くか」


 呉承略は皆を見回した。


「それができる府であれ」


 盤の部屋の窓の外で、春の終わりの長い夕方が暮れていった。審べの官の卓の浅い木の箱の中で、骨の賽が二つ転がったままになっていた。


 四と、二。

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