第九巻 軍制 第十三回 地図と敵情
報せは三通あった。
——北の境の東の互市にて、敵方の商人、馬を多く買う。
一通目は燕山路の経略安撫司から。二通目は太府寺の互市の監の吏から。三通目は枢密院の幽州の軍鎮の袁重山から。
三通とも同じことを言っていた。
「三通」
晁子明が言った。参謀本部の敵を見る課の机だった。晁子明は三通を並べて嬉しそうに指で叩いた。
「三つの役所から同じ報せ。——これは確かでしょう」
哈特は三通を手に取った。一通ずつゆっくりと読んだ。
読み終えて三通を机の上に重ねた。
「一通です」
哈特は言った。
「三通ではない」
晁子明が哈特を見た。
「経略安撫司の報せは互市の監の吏から聞いた、と書いてある。袁都部署の報せは経略安撫司の宴の席で聞いた、と。——互市の監の吏は誰から聞いたか」
哈特は二通目の末尾を指した。
——互市の、ある牙人の言。
「一人の牙人が言ったことを、三つの役所が書いた」
哈特は言った。
「出どころが一つなら、報せは一つ。——三つの紙に書かれても」
◇
参謀本部が置かれてひと月目の正月だった。
古い倉の長い部屋の南の壁の敵の票は、日ごとに増えていった。
哈特は票の形を決めた。
掌ほどの紙。上に報せの中身。下に欄が四つ。
いつ見たか、聞いたか。——誰が見たか、聞いたか。——その者はどこでそれを知ったか。——確かさ。
確かさの欄には三つのうち一つを書く。
確かめた。——見立て。——未だ確かめず。
「確かめた、は」
哈特は晁子明に言った。
「こちらの者が自分の目で見たもの。二つ以上の別の出どころから同じことが来たもの。——見立ては確かめてはいないが、筋が通っているもの。未だ確かめずは、それ以外全部」
「全部」
「全部です」
哈特は言った。
「牙人の言は未だ確かめず。——けれど捨てない。捨てずに南の壁に貼っておく。いつか別の出どころから同じことが来たら。そのとき見立てに上げる」
哈特は自分の机の引き出しから紙の束を出した。
一昨年の春の半ばに敵の目の房が枢密院に置かれてから、書き溜めてきたものだった。こちらの兵営の夜の稽古を言い当てた升。枢密使の不在の三日を言い当てた升。
「この二年近く、私たちは自分の国の電信の量を見てきました」
哈特は言った。
「こちらの量から、こちらの動きが読めることを確かめた。——今年からは同じ目を北へ向けます」
「北には電信がない」
晁子明が言った。
「電信はない」
哈特は言った。
「けれど互市がある。互市で敵方の商人が何をいくらで買うか。馬か。塩か。鉄か。——互市の値の帳面は太府寺にある。十年分」
哈特は束を机に置いた。
「北の境の駅の混み方。境の村から南へ逃げてくる者の数。——敵の動きの影は、こちらの国の帳面の中に落ちています」
◇
北の壁の大きな図の前には、図の課の机があった。
賀通遠の組から来た測り手の二人が座っていた。一人は四十がらみの無口な男。一人は二十代の半ばのよく笑う若者だった。
修平はときどき図の課の机に寄った。
「この図は」
修平は北の壁の大きな図を見上げた。
「工部の北の半分の産業の図から写したのですか」
「写しはした」
年かさの測り手は言った。
「けれど、あの図は石炭と、鉄と、石灰と、水運とを描くための図だ。——兵が通れるかどうかは描いていない」
年かさの測り手は図の上の一本の道を指した。河北路の、ある州から北へ延びる道だった。
「この道は車が一台半通れる。——この橋は車は通るが、砲の七百斤の筒を載せた車は通れぬ。この渡しは、冬は凍って歩いて渡れる。春は半月渡れぬ。この村には井戸が二つ。一つは夏に涸れる」
測り手は図の上の細かい書き込みを一つずつ指で辿った。
「どこからこの書き込みを」
「県の帳面から」
若い測り手が言った。
「県の役所には経界の帳面がある。田と、道と、水路と。——橋の帳面もある。いつ、誰が架けたか。何の木で。県の主簿の房に写しを頼みました。四十の県に頼んで、二十八の県から返ってきた」
「十二の県は」
「返ってこなかった」
若い測り手は笑った。
「返ってこなかった県は、図の上で白く残してある」
若い測り手は図の北の方の一つの州のあたりを指した。そこだけ道と川の線が薄かった。
「白いところは分からぬところ。——分からぬところを分かったふりをして線を引けば。戦の野で兵がその線を信じる」
◇
図には隅に小さく字が書かれていた。
——第一の版。正月。
「版を付けるのですね」
修平は言った。
「電碼表と同じに」
年かさの測り手は頷いた。
「章太厳どのに教わった。——国の版の電碼表は全局同じ日に版を替え、古い版は回収して焼く。図も同じにする」
測り手は別の帳面を開いた。
配った先の帳面だった。図の何番の写しを、どこへ、いつ、誰に。——第一師団。大名府の大営。真定府の大営。幽州の軍鎮。
「道が一本新しくできたら。鉄の道が延びたら。河の瀬が変わったら。——版を替える」
測り手は言った。
「替えたら、この帳面を見て配った先全部に新しい版を送る。古い版を返させる。——返ってこなかったら、返ってこない、と書く」
「返ってこない図は」
「誰かが古い図で戦おうとしている」
測り手は言った。
「それが一番危ない」
◇
南の壁の敵の票の隣に、哈特はもう一つ紙を貼った。
北の敵の国の形の紙だった。
甘州の牢の捕らえた者たち。この十年、言葉を覚えた者から少しずつ聞いてきたこと。東ロマニエの国境の軍鎮の古い記録の写し。西の遠征の戦役記。——それを一枚にまとめた紙だった。
北の帝国は四つの王国を束ねていた。
——東の、森と河と黒い土の国。捕らえた者はメルキア、と呼んだ。
——その西の、草の原の国。オルグラン。
——北の、凍る森と河の国。セルヴィアス。
——西の、乾いた山と砂の国。ヴァルガルド。
王国の名の下に欄が並んでいた。兵の数。騎兵の割合。術者の数。兵を集める仕組み。糧を運ぶ仕組み。城。王の名。王と帝国の都との間柄。
欄の多くが空いていた。
空いた欄に哈特は一つずつ同じ字を書いていた。
——分からず。
「空けておけばよいのでは」
晁子明が言った。
「空けておくと」
哈特は言った。
「読む者は書き忘れたのだと思う。——あるいは大したことではないから書かなかったのだと。分からず、と書けば読む者は、ここは分からぬのだと知る。分からぬところは戦の案の危ういところだと知る」
哈特はメルキアの欄の「術者の数」の欄を指した。
——分からず。
「一番知りたいところが、一番分からない」
哈特は言った。
「それを正しく書いておくのが私の仕事です」
◇
古い戦の者の机で、呉承略は狄承武と向き合っていた。
正月の終わりの雪の日だった。狄承武は陳橋の師団から呼ばれてきていた。
机の上に狄承武の戦役記の写しが広げられていた。その脇に呉承略の紙が何枚も。
「二つの丘の後。井戸の線を押さえていたひと月半」
呉承略は言った。
呉承略は紙を一枚狄承武の前に置いた。
——国境の門より前の隊まで。拠点と井戸ごとに置きし守りの兵の数と、前へ出し得る兵の数。日ごとに。
呉承略が戦役記の中の時刻と数との書き入れを一つずつ拾って並べ直した表だった。書き入れの形が隊ごとにばらばらだった。——それでも呉承略は十年かけて拾っていた。
「拠点を一つ取るごとに。井戸を一つ取るごとに」
呉承略は言った。
「守りの兵を置いていかれた。——一つ目の拠点で二百。三つ目の拠点で三百。包囲の前の夜には、荷車の護りを足すと二千近かった」
「置かねばならなかった」
狄承武は言った。
「置かねば、取った井戸を敵が取り返す。取り返されれば、次の井戸まで水がない」
「置かねばならなかった」
呉承略は言った。
「では、前へ出せる兵が日ごとにどれだけ薄くなっていったか。——誰が見ていたか」
狄承武は表を見ていた。
「前の隊は次の井戸を見ていた」
狄承武は言った。
「私は敵を見ていた。——輜重の者は荷車を見ていた」
「軍が細く長く伸びていくのを」
呉承略は言った。
「日ごとに一枚の紙に書いている者がいなかった」
狄承武は長いこと黙っていた。
「私が見るべきだった」
「狄少将は三千の兵の長だった」
呉承略は言った。
「三千の兵を率いながら、前へ出せる兵が日ごとに何人減っていくかを算えて表にする。——それは一人の長の仕事ではない」
呉承略は表を自分の方へ引き寄せた。
「敵が卑怯だったのではない。拠点の守りの長が愚かだったのでもない。狄少将が誤ったのでもない。——軍の全体がどれだけ伸びたかを見る者の席が、陣の中になかった。それを書き残す」
◇
「書き残すものは二つに分けます」
呉承略は言った。
「一つは、誰でも読める戦の記。武学の学生も、兵も、民も。——何が起きたか。何を学んだか」
「もう一つは」
「ここの棚にだけ置く記」
呉承略は古い戦の者の机の後ろの鍵の付いた棚を見た。
「誰の命が何刻遅れたか。誰が何を見落としたか。報せがどこで止まったか。——名を伏さずに」
「名を伏さずに」
「名を伏せれば、何が起きたかが分からなくなる」
呉承略は言った。
「けれど、この記は誰かを辱めるためのものではない。——次に同じ席に座る者が、同じところでつまずかぬための記です」
狄承武はしばらく呉承略を見ていた。
「私の名も書くのか」
「書きます」
呉承略は言った。
「狄少将の名も。——狄少将が国境の門をくぐるまでに、兵を二千三百連れて帰ったことも。包囲の中で刎ねずに縛った三人のことも」
◇
勝った戦も疑った。
国境の平原の最初の勝ち。——あれはなぜ勝ったのか。
「敵がこちらの神臂弓の届く線を知らなかった」
呉承略は盤の上に駒を並べた。
「知らなかったから、二百五十歩で息を入れた。——神臂弓は三百歩で鉄の札を貫く。敵は二百五十歩を安全だと思っていた」
呉承略は敵の駒を三百歩の縁まで下げた。
「もし敵が最初から知っていたら」
盤の上で勝ちは勝ちでなくなった。
「最初の勝ちは、こちらが強かったからではない。敵がこちらを知らなかったからだ。——知らなかった敵は三日で知った」
呉承略は駒を箱にしまった。
「勝った理由をこちらの手柄にすると、次の戦で同じ手が効くと思う」
◇
春の初めに、参謀本部の候補の者たちが北へ出た。
狄承武が道案内の役として付いた。
候補の者は、冬の初めの武の科挙に通った九人。莫子期と、蕭景明と、武学の学生の七人。それに呉承略と、図の課の若い測り手。
燕山路の幽州の北の山の手前までの十日の道のりだった。
道のりのどの宿でも、呉承略は候補の者たちに同じことをさせた。
宿の主に話を聞く。駅の吏に馬の数と替えの刻とを聞く。県の役所で主簿に橋の帳面を見せてもらう。河の渡しで船頭に春の水の高さを聞く。——山の手前の牧の村で、牧の民に雪の解ける頃を聞く。
聞いたことを図の上の書き込みと比べる。
違っていたら、違っていた、と書く。
五日目に、図の上では歩いて渡れるはずの小さな河の渡しに着いた。
河は濁って速かった。雪解けの水だった。
「図では渡れる」
蕭景明が言った。
「冬は渡れる」
渡しの年老いた船頭が言った。
「春のこの半月は渡れぬ。——毎年そうだ」
若い測り手が図に書き込んだ。
——春、雪解けの半月、徒渡りならず。舟、二艘。一艘に十人。
狄承武は河を見ていた。
十一年前のテオドリアの北の乾いた河床を思い出していた。あの河床には水がなかった。水がないことを、地図は正しく描いていた。——描いていなかったのは、河床の縁で敵が待っていることだった。
◇
山の手前の幽州の軍鎮に着いた最後の夜。
呉承略は候補の者たちを軍鎮の兵営の一室に集めた。
袁重山が隅に座っていた。
「明日の朝、ここから北の山の道へ師団を一つ出す」
呉承略は言った。
「その案を今夜書け。——十日の道のりで見て聞いたことを全部使って」
候補の者たちは机に向かった。
夜半、案が揃った。
呉承略は案を一つずつ読んだ。それから一枚の紙を机の上に置いた。
——今朝、山の道の二つ目の橋、雪崩にて落つ。
「袁都部署の報せです」
呉承略は言った。
「今朝の本当の報せ」
袁重山が隅で頷いた。
「書き直せ。夜明けまでに」
候補の者たちの何人かが息を呑んだ。
莫子期は自分の案を見ていた。莫子期の案は二つ目の橋を渡る案だった。
莫子期は案を捨てなかった。案の二つ目の橋のところに線を引いた。線の脇に書いた。
——この橋、落つ。ここより先、捨てる。
その下に新しい案を書き始めた。
蕭景明は別の机で図を見ていた。五日目の雪解けの河の書き込みを。
狄承武は窓の脇に立ってそれを見ていた。
夜明けに九つの案が揃った。
呉承略は九つを全部束にした。捨てた方の案も一緒に。
「どれが正しいかは分からぬ」
呉承略は言った。
「けれど、九人とも今朝の落ちた橋のことを知っている。——知ってから半日で案を書き直した。それが今夜見たかったことだ」
◇
開封へ戻ると、参謀本部の長い部屋の北の壁の図に新しい版が貼られていた。
——第二の版。春の初め。
幽州の北の山の道の二つ目の橋のところに、赤い小さな印があった。雪解けの河のところにもう一つ。
修平は図の前に立っていた。
南の壁に哈特の週ごとの短い報せが貼られていた。その隣に月ごとのまとめ。——半年ごとの北の四つの王国の総ての見立ては、夏に初めての一枚が出ることになっていた。
メルキアの術者の数の欄はまだ空いていた。
——分からず。
哈特の字は正月と同じだった。




