第九巻 軍制 第七回 下士官の背骨
声が届かなかった。
谷長順の中隊は野の端から端まで伸びていた。百人の兵が五歩ずつ離れて伏せていた。右の端の兵から左の端の兵まで、五百歩あまり。
谷長順は鎖の真ん中の少し後ろにいた。
「右、三歩下がれ」
谷長順は叫んだ。
右の端の兵は動かなかった。聞こえていなかった。谷長順の隣の兵には聞こえた。その隣にも。——五人目あたりから先は、隣の兵の口の形を見て動いた。十人目あたりから先は誰も動かなかった。
修平は谷長順の後ろの低い土手の上に伏せていた。夏の終わりの陳橋の北の野だった。草が背丈ほどに伸びていた。
「伏せれば伏せるほど」
谷長順は修平の方を振り返らずに言った。
「声が届かぬ」
谷長順は懐から笛を出した。短く二度吹いた。
鎖のところどころで兵が顔を上げた。十人に一人ほど。——その者たちが手で両隣の兵に何かを示した。示された兵がまた両隣に。
右の端の兵が三歩下がった。
香篆の火がほんの少し燃える間だった。
「今顔を上げた者たち」
谷長順は言った。
「あれが組の長です。十人の組の。——あの者たちがいなければ、私の中隊は百人のばらばらの兵です」
◇
組の長たちは谷長順の中隊の中でも年かさの兵だった。
一番年かさなのは、段七という、四十を幾つか越えた男だった。背は低かった。首が太かった。左の耳が半分なかった。
十年前の西の遠征で神臂弓の兵だった。二つの丘で耳を射られた。包囲の三日目、弩機が壊れた後は、弓を捨て腰の刀を抜いた。国境の門をくぐった二千三百あまりの一人だった。
「中隊の長の命を組に伝えるのが私の仕事です」
段七は兵営の脇の日陰で修平に言った。
「伝えるだけなら誰でもできます。——伝えて、組の兵がその命のとおりに動くようにする。動けぬ兵がいたら、なぜ動けぬかを見る。脚が痛むのか。銃の閉じ具が渋いのか。昨日、家から悪い報せが来たのか」
「それをどう知るのですか」
「毎日見ていれば分かります」
段七は言った。
「朝、兵の顔を見る。昼、兵の銃を見る。夜、兵の沓を見る。——沓の減り方で脚の悪い兵が分かる」
段七は少し笑った。
「字は書けません。——帳面は谷都頭に頼んでおります」
◇
兵部と枢密院とが一つの卓に集まった。
正月から合同の議は、月に二度、三度と開かれるようになっていた。沈廷策の机の二つある勤めは休む日がなかった。
「下士の位をこの夏決めた」
曹允恭が言った。
「下士、中士、上士。——けれど位を決めただけでは、下士は生まれぬ」
「今、組の長をしている者は」
董元礼が言った。
「古い兵の中から長が選んでいる。——長が替われば組の長も替わる。組の長の禄は兵と同じ。少しの足しがあるだけ」
「それでは十年、組の長をした者が」
狄承武が言った。
「十年目に辞めて村へ帰る。——辞める者を止める手立てがない」
狄承武は卓の上に紙を置いた。第一師団のこの一年の辞めた兵の帳面だった。
「組の長の三人に一人が辞めた。辞めた者の半ばは四十の前後。——兵としては年かさ。けれど組の長としては一番よい年だ」
「なぜ辞める」
「禄が兵と変わらぬから」
狄承武は言った。
「四十になれば、村に田を借りられる。家の者が戻ってこい、と言う。——軍にいても禄は二十の兵と同じ。上がる先もない」
◇
下士の禄を決めた。
下士は兵の一倍半。中士は一倍と四分の三。上士は兵の倍。
勤めて十五年を越えた下士が辞めるときには、一時の銭を渡す。二十年を越えればさらに。——勤めの中で死んだ下士の家の者には、禄の二年分を。傷ついて勤められなくなった下士には、年ごとの手当を。
孟季常が算盤を弾いた。
「国の軍の下士を兵の十人に一人として」
孟季常は言った。
「六万人。——禄を上げる分で一年に百万貫あまり。辞めるときの銭と家の者への手当とは、年ごとに積み立てねばならぬ。積み立ては、初めの年は少ない。二十年後に重くなる」
「二十年後に」
修平は言った。
「今、四十の下士が辞める頃に」
「そうです」
孟季常は言った。
「今決めれば、今年は軽い。——二十年後の戸部の郎中が重さを背負う」
孟季常は少し黙った。
「その郎中のために帳面を今年から分けておきます。下士の辞める銭の帳面を。——毎年いくら積み、いくら出したか。二十年後の郎中が驚かずに済むように」
修平は孟季常の横顔を見た。
葉正言の下で国の証文の帳面を十年あまり付けてきた男だった。証文の満期の年の利払いの重さを、何年も前から帳面に書いてきた男だった。
◇
下士の勤めを書いた。
射つことを教える。並ぶこと、歩くこと、伏せること、這うことを教える。武器を毎日検める。組の兵の病と傷と沓とを見る。宿営の場所を整える。弾の数を数える。——新しく入った兵を教える。
組の兵の日ごとの勤めのありさまを帳面に書く。新しく入った兵が何を覚えたか。何をまだ覚えていないか。——組の銃の閉じ具の革と輪とをいつ替えたか。
「書くのか」
段七が言った。
兵営の広間に組の長たちが二十人呼ばれていた。沈廷策が下士の勤めの紙を読み上げていた。
「書きます」
沈廷策は言った。
「私は字が書けません」
段七は言った。広間の中で何人かの組の長が頷いた。
「書けるようになっていただく」
沈廷策は言った。
「陳橋の試しの場の脇に下士の学び舎を置きます。三月。——読むこと、書くこと。算えること。軍の法。図の読み方。組の帳面の付け方。それに、撃つことを教えることの教え方」
「撃つことは」
段七が言った。
「私は二十年撃ってきた」
「撃つことと、撃つことを教えることとは違う」
狄承武が広間の後ろから言った。
段七が振り返った。
「段七。お前は十年前、神臂弓を三百歩で当てた。——お前の組の若い兵は、針銃を三百歩で当てられるか」
段七は答えなかった。
「当てられぬ兵がいる。なぜ当てられぬか。——目当ての金具の見方が違うのか。引き金を引くときに息を止めていないのか。伏せたときの肘の置き方が悪いのか」
狄承武は言った。
「お前はそれを見れば分かる。けれど分かったことを若い兵に言葉で伝えられるか。伝えた言葉を書いて、次の組の長に渡せるか」
段七は長いこと黙っていた。
「三月ですか」
「三月だ」
「三月、田を放っておくことになります」
「田は禄で雇った人が耕す」
狄承武は言った。
「今年から下士の禄は兵の一倍半だ。上士になれば倍だ」
◇
学び舎の最初の組は秋の初めに始まった。
二十人の組の長たちが、陳橋の試しの場の脇の土の壁の細長い小屋に並んで座った。机の上に紙と筆と墨と。——それに算盤。
教えるのは二人。字と算とは、陳橋の駅の天機の学びの場から、田守信が一人、吏を回してくれた。軍の法と図とは、兵部の若い吏。撃つことの教え方は、谷長順が週に二度来た。
修平は最初の日に小屋の後ろに立っていた。
段七は筆を握っていた。握り方が違った。刀の柄を握るように握っていた。
吏が段七の手を取って握り直させた。段七は顔を赤くした。
その日、段七は自分の名を三十回書いた。
十日目に谷長順が撃つことの教え方を教えに来た。
谷長順は小屋の前の野に若い兵を一人伏せさせた。組の長たちをその周りに立たせた。
「この兵は三百歩で、十発のうち三つしか当たらぬ」
谷長順は言った。
「なぜか。——見て言え。言葉で。当たらぬ、と言うのはなしだ」
組の長たちはしばらく兵を見ていた。
「肘が開いております」
一人が言った。
「引き金を引くとき、目を閉じる」
もう一人が言った。
段七は兵の足の方を見ていた。
「足が揃いすぎておる」
段七は言った。
「伏せたとき足を少し開かねば、撃った後に体が揺れる。——揺れたまま次を込めるから、次も外れる」
谷長順は頷いた。
「今の三つを紙に書け」
組の長たちが顔を見合わせた。
「書いて次の組の長に渡せるように」
谷長順は言った。
「お前たちが死んでも。お前たちの見たことが残るように」
その夕方、小屋の中で一人の組の長が兵部の若い吏に訊いた。
「兵が言うことを聞かぬときは。——殴ってよいのか」
吏は少し考えて答えた。
「軍の法がこの秋にできる。——殴ることはその中で決める。組の長に許されるのは、叱ることと長に上げることまで。罰を決めるのは組の長ではない」
「では、どうやって聞かせる」
段七が言った。
「毎日見ることだ」
段七は自分で答えた。
「朝、顔を。昼、銃を。夜、沓を。——殴るよりずっと手間がかかる」
◇
秋の初めの終わりに、第一師団の夜の演習があった。
野の北に小さな川が流れていた。川に石の橋が一つ。橋から下手へ半里ほど行ったところに、浅い瀬があった。
谷長順の中隊の第二小隊が橋を守った。
小隊の長は蕭景明という二十四の少尉だった。開封の武学を出て、去年、旧い武科挙の弓と馬の試しで及第した。この秋の初め、国の軍の位の任じる文で少尉になった。
段七は蕭景明の小隊の組の長の一人だった。
日が落ちる前に、谷長順の命の文が蕭景明に渡された。沈廷策の決めた形の文だった。
——第二小隊は、夜明けまで橋の北の岸を押さえよ。
——目当て。中隊の本隊が夜明けに橋を渡って北へ出る。そのときまで、敵に橋を渡らせぬこと。
——弾は、一人、四十発。夜半に使いが中隊の所へ報せを取りに行く。
蕭景明は命の文を組の長たちに読み聞かせた。
段七は自分で読んだ。
——夜明けまで。橋。敵に渡らせぬ。
まだゆっくりとしか読めなかった。
◇
夜半に霧が出た。
川の上から白い霧が這い上がってきて、橋を呑んだ。三歩先の兵の顔が見えなくなった。
中隊の所へ報せを取りに行った使いが戻らなかった。
蕭景明はしばらく待った。
「私が行く」
蕭景明は言った。
「中隊の所まで四半里。——使いが迷ったのかもしれぬ。報せがなければ、夜明けにどう動くかが分からぬ」
「少尉」
段七が言った。
「行かれるなら、組の長の誰か一人を連れて」
「すぐ戻る」
蕭景明は兵を二人だけ連れて霧の中へ入っていった。
戻らなかった。
——審べの官の董元礼が、霧の中で蕭景明の前に白い旗を立てていた。少尉、敵の斥候に捕らえらる、とする。
小隊は長を失った。
組の長は四人。一番年かさは段七だった。
◇
霧の向こうで水の音が変わった。
段七は川の方へ耳を傾けた。
橋の方からではなかった。下手の方からだった。瀬の方から。——ざぶ、ざぶ、と大勢の足が浅い水を踏む音。
「橋ではない」
段七は言った。
「瀬だ」
組の長の一人が言った。
「命の文は、橋を押さえよ、だ」
「命の文は、夜明けまで敵に橋を渡らせるな、だ」
段七は言った。
「敵が瀬を渡れば、橋の北の岸の横に出る。——横に出た敵は橋を北から取る。橋を渡らずに」
段七は懐から命の文を出した。霧の中で字は読めなかった。読めなくても覚えていた。
——目当て。中隊の本隊が夜明けに橋を渡って北へ出る。そのときまで。
「中隊の本隊が夜明けに橋を渡れればよい」
段七は言った。
「橋の上に立っていることが目当てではない」
段七は四つの組のうち二つを橋に残した。自分の組ともう一つの組とを連れて、霧の中を下手へ這っていった。
瀬の手前の土手の陰に伏せた。
瀬の水の音が近づいてきた。
「撃て」
空の包みの音だけの弾が霧の中で鳴った。二十人の組が続けて撃った。込めて撃った。
瀬の水の音が止まった。
しばらくして霧の中から声がした。
「審べの官だ」
董元礼の声だった。
「瀬を渡る敵の一つの中隊。——渡りきる前に見つけられた、とする。この夜は渡れぬ」
◇
夜明けに霧が晴れた。
谷長順の中隊の本隊が橋を渡った。橋の北の岸には第二小隊の二つの組が伏せていた。下手の土手には段七の二つの組が。
蕭景明は野の東の審べの官の天幕から戻ってきた。捕らえられた、とされた夜の間、天幕の中で座っていた。
蕭景明は下手の土手まで歩いてきた。段七が立ち上がった。
「組の長」
蕭景明は言った。
「橋を離れたのか」
「二つの組を離しました」
段七は言った。
「瀬の音を聞きました。命の文の目当てを守るために。——橋の上に立つことより、目当てを、と思いました」
蕭景明はしばらく段七の顔を見ていた。
それから谷長順を見た。谷長順は黙っていた。
「私が」
蕭景明は言った。
「組の長を一人連れて行けと言われて、連れて行かなかった」
蕭景明は段七に頭を下げた。少尉が中士に下げる頭だった。
「小隊を守ってくれてありがとう」
段七は困ったような顔をした。
◇
その日の昼、野の端の天幕で董元礼は紙に書いた。
——長、捕らえらる。組の長、段七、命の文の目当てを以て小隊の半ばを動かす。瀬の敵を止む。橋を守る。
——命の文の字のとおりにはあらず。目当ては、守る。
狄承武が紙を読んだ。
「字のとおりではない」
狄承武は言った。
「けれど目当ては守った。——これをどう扱うか。軍の法で決めておかねばならぬ」
狄承武は紙を修平に渡した。
「命の字に背いて目当てを守った者を、罰するのか。報いるのか。背いて目当ても守れなかった者はどうするのか」
修平は紙を見ていた。
「段七が字が読めなかったら」
修平は言った。
「命の文の目当ての欄を読めなかったら。——橋の上に立っていたかもしれません」
「立っていただろう」
狄承武は言った。
「段七は字をひと月でそこまで読めるようになった」
狄承武は天幕の外の野を見た。段七が組の兵の沓を一つずつ見ていた。
「将軍が何人倒れても、軍は倒れぬ」
狄承武は言った。
「組の長が倒れたら。——それが何百と倒れたら。軍は倒れる」
野の上を秋の初めの乾いた風が渡っていった。段七は若い兵の沓の底を指で押していた。それから兵に何か言った。兵が沓を脱いで段七に渡した。
段七は懐から小さな帳面を出した。まだ何も書かれていないに近い帳面だった。
筆を刀の柄のようには握らなかった。




