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第九巻 軍制 第六回 階級の線

 命の文が二通来た。


 谷長順の中隊は野の真ん中の浅い窪地に伏せていた。夏の日の高い刻で、兵たちの背中の布が汗で黒く濡れていた。


 一通目の使いは右から来た。


 ——前の丘を取れ。第二旅団の長、閔承祖。


 二通目の使いは左から来た。


 ——窪地に留まれ。丘は取らぬ。第一旅団の長、費孝先。


 谷長順は二枚の紙を両手に一枚ずつ持った。


 しばらく見比べていた。


 それから二人の使いを見た。二人とも息を切らしていた。二人とも自分の長の命を正しく運んできた顔をしていた。


「師団の長は」


 谷長順は訊いた。


「狄統制はどこに」


「倒れられた、と」


 右の使いが言った。


「審べの官が半刻前に。——狄統制は戦の野で倒れたとする、と」


  ◇


 その日の試しの演習の決まりだった。


 審べの官は董元礼だった。野の真ん中で師団の長が昼前に倒れる。そのとき師団がどう動くかを見る。——師団の誰にも前もって知らせていなかった。


 董元礼は狄承武の脇に白い旗を立てた。


 ——この者、倒れたり。


 狄承武は黙って丘の上の木の下に座った。そこから先、口を利かなかった。


 師団の長が倒れた。


 師団の次の長は誰か。


 第一旅団の長、費孝先は四十半ばの、試しの営からの古い指揮使だった。西の遠征には行っていなかった。けれど去年の春の終わりに試しの営が置かれてから、狄承武の下で針銃の兵を一番長く育ててきた。


 第二旅団の長、閔承祖は五十手前の、開封の禁軍の古い指揮使だった。この春、自分の指揮ごと師団に移ってきた。武の官の寄禄の階が費孝先より三つ高かった。


 費孝先は自分が次の長だと思っていた。この師団を一番長く知っている。閔承祖も自分が次の長だと思っていた。階が高い。——後で二人とも董元礼にそう言った。


 二人とも正しかった。


 二人とも使いを出した。


 谷長順は香篆の火が半ば燃える間、窪地で二枚の紙を持っていた。——前へ出るか。留まるか。


 丘の向こうの敵の役の兵がその間に窪地の右へ回り込んでいた。


  ◇


 夕方、兵営の広間で董元礼は紙を一枚、卓に置いた。


「香篆の半ば」


 董元礼は言った。


「谷長順の中隊が二つの命の間で動けなかった刻だ。——本当の戦なら、その間に中隊の右が崩れた」


 費孝先と閔承祖とが卓の両側に座っていた。二人とも黙っていた。


「二人とも誤っていない」


 董元礼は言った。


「誤っていたのは、次の長を誰にするかを決めていなかったこの師団だ。——枢密院と兵部だ」


 狄承武が口を開いた。一日黙っていた後の声だった。


「階が高い者が長になるのか。長くこの兵を知っている者が長になるのか」


 狄承武は閔承祖を見た。


「閔どのの階は、閔どのが禁軍で三十年勤めて得たものだ。——それは国が閔どのに報いたもの。けれど国が報いた階と、戦の野で誰が誰に命を出すかとは同じものか」


 閔承祖は答えなかった。


 しばらくして閔承祖は言った。


「同じではないのでしょうな」


 閔承祖の声は低かった。


「私は三十年禁軍で勤めた。けれど針銃の兵を率いたのはこの春からだ。——費どのは一年あまり。私より一年長い」


 閔承祖は費孝先の方を見ずに言った。


「今日私が次の長だと思ったのは、階のことしか頭になかったからだ。階のことしか決まりがなかったから」


  ◇


 兵部の武の官の選びの房と、枢密院の作戦の房と、吏部とが一つの卓に集まった。


 吏部から尚書の胡敬之が自分で来た。


 六十二になった吏部尚書は白い髭を短く刈っていた。修平はこの人と二人で話したことはほとんどなかった。十三年前の春、殿試の後に李徳彰が江南西路の記録を急ぎで取り寄せたのは、この人の房を通してだった。


「武の官の寄禄の階は吏部の帳面にある」


 胡敬之は言った。


「文の官と同じだ。——階はその者の国の官としての重さ。禄の高さ。年と功と考課とで上がる」


 胡敬之は卓の上の古い帳面を指で叩いた。


「そしてその者が今何の勤めについているかは、別の帳面に書く。差遣。——文の官なら寄禄の階が高くても、今知県の勤めなら、知県。寄禄の階が低くても、今転運使の勤めなら、転運使」


 修平は胡敬之の手元の二冊の帳面を見ていた。


 寄禄の階と差遣と。


 二十年近く前、修平は向こうの世の狭い部屋で、夜一人で紙の上の遊びをしていた。宋の官が一つの階を上りながら、別の勤めを渡り歩いていく。階と勤めとが別々に動く。——その遊びが何の役にも立たぬと思いながら、やめられなかった。


 任官の日にその遊びは修平の身の上になった。


 今日はそれを軍の中にもう一段足そうとしていた。


「武の官も同じ二冊でよいのでは」


 兵部の選びの房の吏が言った。


「寄禄の階と今の勤めと」


「二冊では足りない」


 狄承武が言った。


「勤めが師団の長、と帳面にあっても。——戦の野で師団の長が倒れたら、次に誰が師団の長の勤めをするのか。帳面には書いていない。勤めは任じられて初めて勤めになる。任じる文が戦の野に届くまで三日かかる」


「三冊目が要る」


 胡敬之が言った。


 胡敬之は卓の上に何も書かれていない紙を一枚置いた。


「軍の中で誰が誰に命を出せるか。——その順だけを書く帳面」


  ◇


 三冊目の帳面の形を決めるのに、夏の半ばまでかかった。


 国の官としての寄禄の階は、そのまま吏部の帳面に。禄と待遇とを決める。


 今何の勤めについているかは、兵部の帳面に。師団の長。大隊の長。倉の番の長。


 そして軍の中の位。——軍の階、と呼ぶことにした。


 兵。下士。尉。校。将。


 五つを大きな分け目として、それぞれの中にまた段を設けた。


 兵は、兵と上兵。


 下士は、下士、中士、上士。


 尉は、少尉、中尉、上尉。


 校は、少校、中校、上校。


 将は、少将、中将、上将。


「位ごとに」


 沈廷策が紙の横に欄を足していった。


「率いられる隊の大きさ。——少尉は小隊。上尉は中隊。少校は大隊。中校と上校は、連隊と旅団。少将は旅団か師団。中将は師団か、いくつかの師団を束ねた軍」


「位と勤めとは」


 曹允恭が言った。


「同じではないのですね」


「同じではない」


 狄承武は言った。


「上尉が中隊の長の勤めにつくのが常だ。けれど同じ上尉が倉の番の長の勤めにつくこともある。師団の弾と飯とを考える官の勤めにつくこともある。——位が同じでも、勤めは違ってよい。勤めを決めるのは、その者が何に向いているか。今まで何をしてきたか」


「では、位は何を決める」


 胡敬之が訊いた。


「命の順を」


 狄承武は言った。


「長が倒れたとき。その場にいる者の中で一番位の高い者が長の勤めを代わる。——位が同じなら、その位に先に任じられた者が。それも全ての命の文に先に書いておく。この師団の長、倒れたときは誰。その者も倒れたときは誰」


「閔どのと費どのとが同じ野にいたら」


 修平が言った。


「二人の位は」


「それをこれから決める」


 狄承武は言った。


  ◇


 位をどう上げるか。


 それが一番長い議になった。


「戦で功を立てた者を」


 兵部の選びの房の吏が言った。


「位を上げる。——昔からそうだ。一つの戦で大きな功を立てた兵が一度に指揮使になる」


「その兵は指揮使の勤めができるか」


 董元礼が言った。


「一度の戦で一番に敵の陣に踏み込んだ兵が。——五百の兵の飯と弾と馬と病とを見られるか」


 吏は答えなかった。


「功は報いる」


 董元礼は言った。


「銭で。布で。名誉の印で。——けれど位は一度の功では上げぬ。位を上げるのは、その位の勤めができると見えたとき」


 修平は紙に欄を書いていった。議に出た言葉を一つずつ。


 学んだこと。勤めた年。率いる力。下の者を育てたか。倉と弾と飯との帳面を正しく付けたか。軍の法を守ったか。上の者の考課。——戦の功。


「戦の功は一番下の欄に」


 修平は言った。


「消さずに残します。けれどこの欄だけで位は上がらない」


「一度で二つも三つも位を飛ばすことは」


 胡敬之が訊いた。


「しない」


 狄承武が言った。


「飛ばされた者は、飛ばされた位の間の勤めを知らない。——大隊を率いたことのない者が旅団を率いる。その者の下の大隊の長たちは、その者の命を信じられるか」


 狄承武は少し言葉を切った。


「西の遠征で私は指揮使から一度に統制になった。パルシアの王道の宿駅で、枢密院の文が追いついた。——三千の兵の長に」


 狄承武は卓の上の欄を見ていた。


「あの文が来た夜、私は三千の兵の一日の飯が何石か知らなかった。知っていたのは四百の兵の飯の数だけだった。——知らぬまま率いた」


 卓の周りが静かになった。


「あのとき私の位を飛ばしたのは、枢密院が悪かったのではない」


 狄承武は言った。


「国に三千の兵を率いたことのある武の官が、あの王道の上に他にいなかった。——だからこれから育てておく。飛ばさずに済むように。いざというとき、飛ばさねばならぬ者の数を減らしておく」


  ◇


 楊崇武が一度だけ議に来た。


 杖を卓の脇に立てかけて、沈廷策の位の表を読んだ。


「枢密使の欄がない」


 楊崇武は言った。


「ありません」


 沈廷策は言った。


「枢密使は文の官です。——軍の階を持ちません。枢密院の官も。兵部の尚書も」


「では、統制は階を持たぬ私の命をなぜ聞く」


 楊崇武は狄承武を見た。


 狄承武は少し考えた。


「枢密使の命は、枢密使の命ではございません」


 狄承武は言った。


「陛下の命を枢密院が文にしたもの。——文には枢密院の印と陛下の裁可の印とがある。私が聞くのはその印です。枢密使の襟ではございません」


「位は軍の中の順を決める」


 楊崇武は言った。


「軍の外から来る命は、位では決まらぬ。法と印とで決まる。——それを表の頭に書いておけ」


 沈廷策が書いた。


 ——軍の階は、軍の中の命の順を定む。軍の外より来る命は、陛下の裁可と枢密院の文とによる。文の官は、軍の階を帯びず。


 楊崇武は表を置いた。


「いつか上将が生まれる」


 楊崇武は言った。


「上将は国の軍の一番上の位だ。——その上将が襟の線の数で枢密使の上に立とうとしたら。この一行を見せろ」


 楊崇武は杖を取った。


「張どのの一行と同じだ」


  ◇


 勤めの年限も決めた。


 一つの隊の長を三年から四年。それを越えたら別の隊へ移す。


「長く一つの隊にいると」


 董元礼が言った。


「隊がその長の隊になる。——兵が長の顔を見て命を聞くようになる。長が替わったとき、兵が次の長の命を聞かなくなる」


「短すぎても」


 狄承武が言った。


「一年で移せば。長は自分の隊の兵の名を覚えきらぬうちに去る。どの兵が泳げぬか。どの兵が夜目が利くか。——三年は要る」


 三年から四年。


 修平はその数を紙に書いた。


 国の軍の兵を一つの将軍の兵にしないという春の初めの文を、修平は思い出していた。禄を国が払う。命を枢密院が出す。——そして長を三年から四年で替える。


 三つ目の仕組みだった。


  ◇


 夏の終わりに刷りの房で任じる文の形が刷られた。


 国の軍の全ての位の任じる文が一つの形になった。紙の頭に位。その下に名。任じた日。任じた者。——そして陛下の印の写し。


 襟に付ける印も決まった。


 黄銅の細い線。尉は一本。校は二本。将は線の外を黄銅の縁で囲む。線の上に小さな菱を一つ、二つ、三つ。少、中、上。


「遠くから見て分かるように」


 曹允恭は言った。


「戦の野で知らぬ隊の者と出会っても。——襟を見ればどちらが命を出すかが一目で分かる。飾りではない」


 秋の初めに国の軍の最初の位の任じる文が出た。


 狄承武は少将。第一師団の長。


 費孝先は上校。第一旅団の長。——任じた日は閔承祖より一日早かった。


 閔承祖は上校。第二旅団の長。


 閔承祖の吏部の帳面の寄禄の階はそのままだった。禄もそのままだった。


 谷長順は上尉。第一旅団、第一連隊、第一大隊の第一中隊の長。


  ◇


 任じる文が出た日の夕方、修平は兵営の外れの井戸の脇で閔承祖に会った。


 閔承祖は井戸の縁に腰を下ろして、古い、銀の飾りのついた帯を布で拭いていた。禁軍の指揮使が祝いの日に締める帯だった。


「二十年前、指揮使に任じられた日に父がくれたものです」


 閔承祖は帯を修平に見せた。


「父も禁軍の指揮使だった。祖父も」


 閔承祖は帯を膝の上に置いた。


「今日、上校の任じる文を受け取った。——費どのと同じ位。任じた日が一日遅い」


「吏部の寄禄の階は」


「そのままです。禄も」


 閔承祖は少し笑った。


「国は私の三十年を取り上げなかった。——取り上げたのは、長く勤めれば長になれるという思い込みだけだ」


 閔承祖は帯を丁寧に巻いた。


「林詳定。私の息子が十九になる。禁軍に入りたいと言っている」


「入れるのですか」


「入れる前に学ばせる、と息子に言いました」


 閔承祖は立ち上がった。


「父の帯を締めて指揮使になれる時代は私で終わった。——息子はこの襟の線を自分で一本ずつ付けねばならぬ。それは悪いことではない」


 閔承祖は帯を懐にしまった。それから兵営の方へ歩いていった。


  ◇


 任じる文が出た次の日、陳橋の北の野で同じ演習をもう一度した。


 昼前に董元礼が狄承武の脇に白い旗を立てた。


 狄承武は黙って丘の上の木の下に座った。


 香篆の火がほんのわずか燃えた頃。——使いが一人、谷長順の窪地に駆け込んできた。


 ——師団の長の勤め、費孝先、これを代わる。丘は取らぬ。窪地に留まれ。右に備えよ。


 使いの後ろからもう一人使いが来た。


 閔承祖の使いだった。


 ——第二旅団は、費上校の命に従う。右へ一つの大隊を回す。


 谷長順は二枚の紙を読んだ。


 二枚とも同じことを言っていた。


 谷長順は紙を懐にしまった。中隊の兵に右を向け、と手で示した。


 丘の上の木の下で、狄承武は何も言わずに野を見ていた。


 隣に修平が立っていた。


「閔どのは」


 修平は言った。


「昨日の夜、費どのの天幕を訪ねたそうです」


「そうか」


「何を話したのかは誰も知りません」


 狄承武は少し笑った。


「知らぬ方がよい」


 野の右で、閔承祖の大隊が窪地の脇の低い土手に横に開いていくのが見えた。


 襟の黄銅の線が秋の初めの日に光っていた。

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