第九巻 軍制 第四回 兵籍の国
紙は掌ほどの大きさだった。
厚い黄色い紙で、四隅が丸く切られていた。表に四つの欄が刷られていた。
名。——属する隊。——集まる所。——集まる日。
裏には持ってくる物が刷られていた。衣。沓。椀。この紙。
「これを一人に一枚」
曹允恭が言った。
「戦になる前に渡しておく。——戦になってから、誰を呼ぶか考えるのではなく」
春の兵部の兵籍の房だった。
正月の廷議で、兵籍は枢密院から兵部へ移ると決まった。春の初めの国の軍の文で、禁軍と廂軍との兵籍が一つになると決まった。
その二つがこの房の床の上に積まれていた。
枢密院の兵籍の房から運ばれてきた禁軍の帳面が、百あまりの箱。路ごとの廂軍の帳面が、二百あまりの箱。蕃兵と郷兵とは、路によって帳面があったりなかったりした。
箱の間を統計局の吏が五人、行き来していた。鍾九思がその真ん中に座っていた。
「帳面の形が三十あります」
鍾九思は言った。
「禁軍で一つ。廂軍は路ごとに違う。同じ路でも州ごとに違うところがある。——兵の名、生まれた所、入った年、どこの隊か。それだけはどの帳面にもある。後はばらばら」
「一つの形に書き直すのに」
修平が訊いた。
「統計局の白い帳面の形に」
鍾九思は言った。
「書き直すのは一年。——書き直している間にも、兵は死に、病み、入り、辞めます。書き直した帳面は、書き終えた日にもう古い」
◇
国の軍の兵は、この春の数えで六十万あまりだった。
禁軍が二十万あまり。廂軍が三十万あまり。蕃兵と郷兵とが十万に少し足りぬ。
枢密院の見立てでは、北の最初の戦に兵十万。
「六十万のうち、十万」
孟季常が言った。
「残りの五十万は」
「境を守る」
董元礼が言った。
「北の戦が北の境だけで済むとは限らぬ。西にも境がある。南にも。——それに、戦が長くなれば。十万のうち傷つき、病み、死ぬ者を補わねばならぬ」
董元礼は紙に数を書いた。
「十万の兵が戦の野で半年戦えば。——三つに一つを補わねばならぬかもしれぬ。それがどこから来るのか」
修平はその数を見ていた。
十年前の西の遠征。三千の兵が国境の門をくぐったとき、二千三百あまりになっていた。補う兵はいなかった。四か月の道の先に、補う兵を送る手立てはなかった。
「今、兵籍にある兵は」
修平は言った。
「皆、今、兵として勤めている兵ですね」
「そうだ」
「兵を辞めた者は」
「兵籍から消える」
「消えて、どこへ」
董元礼は少し黙った。
「村へ帰る」
◇
四つの帳面を作ることになった。
今、勤めている兵。——常の兵。
勤めを終えて村へ帰った兵のうち、若く、まだ呼べば戦える者。——控えの兵。
控えの兵の年を越えた者のうち、後ろの守りならできる者。——後ろの兵。
兵として勤めたことはないが、戦になれば兵として補う者。——補いの者。
「控えの兵は何年」
曹允恭が言った。
「常の勤めを終えてから、何年を控えとするか」
「試しの営で、針銃を初めて持った兵に二十日で教えた」
狄承武が言った。この日は陳橋から呼ばれてきていた。
「二十日で撃てるようになった兵は、半年、銃に触れなければ半ばを忘れる。——二年、触れなければ初めから教え直し」
「では、控えの兵を毎年呼んで」
「呼んで稽古をさせる」
狄承武は言った。
「毎年一度。二十日か、ひと月。——撃ち方、込め方、革と輪の替え方、並び方、軍の法。忘れたことを思い出させる」
「十年、銃に触れていない控えの兵は」
修平が言った。
「帳面にあっても、兵とは数えない」
狄承武は頷いた。
「数えてはならぬ」
孟季常が算盤を弾いた。
「控えの兵を毎年ひと月呼べば。——呼んでいる間の禄と、飯と、呼ばれた者の田の仕事の欠け」
「田の仕事の欠けは」
「呼ぶ時期を選べば、少なくできます」
修平は言った。
「田植えと刈り入れとを避ける。——冬の田の仕事のない月に呼ぶ」
「冬の稽古は寒い」
狄承武が言った。
「北の戦も寒い」
狄承武は少し笑った。
「冬に呼ぼう」
◇
呼ぶ所を決めねばならなかった。
兵部の北の半分の地図が卓の上に広げられた。沈廷策が地図の上に、小さな木の札を並べていった。
軍鎮の大営に赤い札。鉄の道の駅に黒い札。電信の局に白い札。河の大きな港に青い札。
「控えの兵は村に散っている」
沈廷策は言った。
「戦になったと、報せが村に届く。控えの兵が紙を持って家を出る。——どこへ行くか」
沈廷策は河北路のある州の村を指した。
「この村の控えの兵は、昔なら州の城へ行った。州の城から北の軍鎮まで、歩いて二十日」
沈廷策は指を村から少し横へ動かした。
「村から衛州の鉄の道の駅まで、歩いて二日。——駅で車に乗れば、磁州まで一日足らず。磁州で隊に入り、武器を受け取り、また車に乗る」
「磁州から北へは」
「今はまだ鉄の道がない」
沈廷策は言った。
「磁州から邢州への道は会社の道で、あと一年はかかる。——だから、今は衛州の港から御河の舟で大名府へ」
沈廷策は指で河を辿った。衛州の港から北東へ。大名府へ。その先はさらに北へ細く続いていた。
「兵の数を人の数で数えるのをやめます」
沈廷策は言った。
「控えの兵十万、と帳面にあっても。集まる所までひと月かかれば、戦の最初のひと月には、その十万はいない。——兵を道のりと日数で数える」
修平は地図の上の札を見ていた。
赤い札から黒い札へ。黒い札から青い札へ。村から札までの道のり。
兵が一人ずつその道のりを歩く。
「集まる所を村の近くに」
修平は言った。
「軍鎮の大営と、駅と、港とに合わせて。——村の者がここへ何日で来られるかで、線を引く」
「呼ぶ区を分けるのですね」
沈廷策は帳面に小さく書いた。
「呼ぶ区。——一つの区の兵は、同じ所に同じ日に集まる」
◇
春の終わりに、修平は曹允恭と沈廷策とに付いて、河北路の相州のある県を訪ねた。
呼ぶ区の最初の試しの県だった。衛州の駅から北へ、歩いて一日半。相州の南の田の広がる県だった。
県の役所の主簿の房に、兵部の吏が二人、先に入っていた。
主簿は四十がらみの痩せた男だった。卓の上に県の戸籍の帳面を積んでいた。
「兵部の文は読みました」
主簿は言った。
「控えの兵の名と、住まう村と、生きているかどうかを、毎年県から兵部へ報せよ、と」
「そうです」
曹允恭は言った。
「死んだ者。病んで動けぬ者。村を移った者。——田を耕すのをやめて、町で鍛冶になった者も」
「鍛冶になった者も」
「鍛冶は、戦のとき兵として呼ぶより、作坊で槌を振ってもらう方が、国のためになるかもしれません」
曹允恭は言った。
「兵籍に、兵の名と村とだけでなく、何ができるかを書きます。——鍛冶。車大工。馬の世話。舟。字が読める。算盤ができる。鉄の道の学びの場を出た者。電信の打ち方を知る者。医の心得のある者」
主簿は筆を止めた。
「それを県が調べて書く」
「県が戸籍を付けている」
曹允恭は言った。
「戸籍の帳面に、もう書いてあることも多いはずです。——書いてあることを写して兵部に送ってほしい。兵部が自分で村を一軒ずつ回るより、ずっと正しい」
主簿は少し考えていた。
「県は写して送る」
主簿は言った。
「けれど、県は兵を呼ばない。呼ぶ文は、兵部から直に村へ。——そういうことですな」
「そういうことです」
「それならよい」
主簿は筆をまた動かし始めた。
「知県は兵を呼ぶのを嫌がります。——呼べば、村の者に恨まれる。恨まれるのは、兵部に任せたい」
曹允恭は苦い顔で笑った。
◇
県の北の外れの村で、修平は一人の控えの兵に会った。
五十を少し越えた日焼けした男だった。畑の畔に腰を下ろして、麦の穂を見ていた。
兵部の吏が村の保正に案内させて、男の家を訪ねていた。男は家にいなかった。畑にいた。
「昔、禁軍におりました」
男は言った。
「河北のある指揮に。——二十で入って、三十五で脚を痛めて出ました」
「脚は」
「今は畑には立てます。——走るのは無理ですな」
兵部の吏が帳面を開いた。男の名は兵籍にはなかった。出た日に消えていた。
「弩を引いたことは」
修平が訊いた。
「神臂弓を十五年」
男は言った。
「針の銃は」
「話に聞いただけです」
男は少し笑った。
「伏せて撃つそうですな。——伏せたら、私は起き上がれぬ」
兵部の吏が帳面に書いた。五十あまり。元禁軍。神臂弓十五年。脚、痛む。走れず。
「この男は」
吏が曹允恭を見た。
「控えにも後ろにも入らぬ」
曹允恭は言った。
「けれど、帳面には書く。——神臂弓を十五年引いた者は、南の廂軍に回した神臂弓の直し方を知っている」
男はきょとんとした顔で曹允恭を見ていた。
◇
開封へ戻ると、兵籍の房に田守信が来ていた。
兵部の駅の房の七十に近い老吏は、兵籍の房の、何をする者を書く欄の写しを手に持っていた。
「鉄の道の学びの場を出た者」
田守信は欄の一つを指で叩いた。
「衛州の港の脇の学びの場から、この二年で百と六十人あまりが出た。——車を走らせる者、札を渡す者、駅で荷を積み下ろす者、線を見て回る者」
田守信は曹允恭を見た。
「その者たちの半ばは若い。兵に取られる年だ」
「取らぬ、と決めております」
曹允恭は言った。
「職人と同じに。——戦のとき、元の勤めに残す者の名を、平時のうちに決めておく」
「決めてくれるのはよい」
田守信は言った。
「けれど、決めた名が兵籍のどの頁にあるか。戦の最初の日に、県の者がそれを見て呼ぶのをやめられるか」
田守信は紙の欄の脇に、小さく印を付けた。
「この欄に書くだけでは足りぬ。——名の頭に印を。呼ばぬ者の印を。県の帳面にも同じ印を。電信の打ち方を知る者にも。医の心得のある者にも。印の付いた者は、戦の日、兵として呼ばれぬ代わりに元の勤めの場へ呼ばれる」
「元の勤めの場へ」
「戦になれば、鉄の道は今の倍、走る」
田守信は言った。
「走らせる者が倍要る。——走らせる者を兵にして北へ送れば。北へ弾を運ぶ車が走らぬ」
鍾九思が欄の脇の印を見ていた。
「兵籍に、兵にしない者の印を付ける」
鍾九思は言った。
「兵を数える帳面で、兵にしない者を数えるのですな」
「数えねば分からぬ」
田守信は少し笑った。
「駅伝の吏を四十年やって、覚えたのはそれだけだ。——馬を数える帳面で、走らせぬ馬を数えておく。走らせぬ馬が何頭いるかを知らぬ駅は、走らせる馬の数も知らぬ」
◇
兵籍の房の隣の小さな房には、もう一つの帳面が始まっていた。
馬の帳面。
民の馬と、驢馬と、騾馬と。車と荷車と。河の舟と。——戦になったとき、国が借りるかもしれない民の物。
秦牧之が太僕寺から来ていた。
「借りる、と言う」
秦牧之は言った。
「奪う、とは言わぬ。——借りた馬の値を、借りる前に書いておく。何歳のどういう馬か。借りた日。返した日。返したときのありさま。死んだら、その値を国が払う。傷ついたら、傷の分を払う」
「値は誰が決める」
「太府寺の市の値」
秦牧之は言った。
「毎年、馬の市の値を太府寺が調べている。その値で。——値の付け方を先に決めておかねば、戦のとき、村ごとに争いになる」
修平は秦牧之の帳面を見た。欄が細かかった。馬の毛の色。歯の数え。蹄の形。
「昔の戦では」
修平は言った。
「どうしていたのですか」
秦牧之はしばらく黙っていた。
「軍が村に来て、馬を連れていった」
秦牧之は言った。
「受け取りの紙を置いていくこともあった。置いていかぬこともあった。——置いていった紙を県に持っていっても、県は払う銭を持っていなかった」
秦牧之は筆を置いた。
「私の祖父の村の話だ」
◇
夏の初めに、鍾九思が最初の数えを持ってきた。
控えの兵の帳面の最初の三つの路の分だった。河北路。京東路。京西路。
鍾九思はその数を、路ごとではなく、別の分け方で並べていた。
田を持つ家の者。田を借りる家の者。田を持たぬ家の者。
「控えの兵の七割が」
鍾九思は言った。
「田を持たぬ家の者です」
房の中が静かになった。
「禁軍に入る者は、昔からそうだった」
董元礼が言った。
「田を持つ家の者は兵にはならぬ」
「そうです」
鍾九思は言った。
「けれど、昔は兵が常の兵だけでした。——控えの兵を毎年冬にひと月呼ぶ。戦になれば真っ先に呼ぶ。その控えの兵の七割が、田を持たぬ家の者ならば」
鍾九思は別の紙を出した。
「戦になって、呼ばれる者の七割が、田を持たぬ家から出ます。——その家には、呼ばれた者の他に稼ぐ者がいないことが多い」
修平は紙の上の数を見ていた。
呉家の何老三の一家を思い出していた。田を借りる家。何老三の息子が、もし兵に取られたら。
「この数を毎年数えてください」
修平は言った。
「戦になる前に。——どの路の、どの家から兵が出ているか。一つの路に、一つの家の形に重くかかっていないか」
「数えてどうする」
董元礼が言った。
「重ければ、呼ぶ区の線を引き直す。呼ばれた者の家に払う銭を足す。——その銭は、戸部と話さねばなりません」
孟季常が何も言わずに算盤を弾き始めた。
◇
夏の初めの終わりに、兵部の刷りの房で黄色い紙が刷られた。
掌ほどの、四隅の丸い、厚い紙。表に、名。属する隊。集まる所。集まる日。
集まる日の欄は日付ではなかった。
——報せより、第三日。
——報せより、第五日。
——報せより、第八日。
戦になったと、報せが村に届いた日から、何日目にどこへ行くか。
曹允恭は刷り上がった一枚を手に取って、長いこと見ていた。
「兵を集める、というのは」
曹允恭は言った。
「今まで、兵を、集める、ということだと思っていた」
曹允恭は紙を修平に渡した。
「決めた日に、決めた所に。——銃と、弾と、粟と、隊の長と、運ぶ車とが揃った、一つの隊を作り終えること。兵だけが着いても、何も揃っていなければ。それは集めたのではない」
修平は紙の裏を返した。
衣。沓。椀。この紙。
この紙を持ってこい、と刷られていた。
修平は相州の県の畑の畔に座っていた五十あまりの男を思い出していた。伏せたら、起き上がれぬ、と笑った男。
あの男には、この紙は渡らない。
あの男の息子の名が、どこかの県の帳面に書かれているかもしれなかった。




