↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
121/440

第九巻 軍制 第三回 国軍の制定

 禄の表が二枚並んでいた。


 一枚は禁軍の表だった。もう一枚は廂軍の表だった。


 どちらも兵部の古い表だった。紙が黄ばんで、端が欠けていた。書き足しの朱が何度も重なっていた。


「同じ一人の兵で」


 曹允恭が言った。


「禁軍の兵の禄は、廂軍の兵の倍に少し足りぬくらい。——月の銭も、米も、春と冬の衣の布も」


 兵部の装備の房の隣の禄の房だった。春の初めのまだ寒い朝で、房の火鉢の炭が赤かった。


 修平は二枚の表を見比べていた。


 禁軍の表には欄が少なかった。月の銭。米。衣。戦に出たときの足し。——それだけだった。


 廂軍の表には欄が多かった。路ごとに違った。州ごとにも違うところがあった。月の銭。米。衣。——それに、州の役所の土木に出た日の足し。堤を築いた日の足し。官の荷を運んだ日の足し。


「廂軍は」


 修平は言った。


「兵、なのですか」


「兵です」


 曹允恭は言った。それから少し言い直した。


「兵でも、ある」


  ◇


 きっかけはひと月前の試しの営の一通の文だった。


 狄承武が河北のある州の廂軍から兵を五十人借りたい、と兵部に申し出た。騎兵の稽古の敵の役をさせたい。河北の廂軍には馬に乗り、弓を引ける者が多い。北の境の近くで生まれ育った者たちだった。


 兵部は州に文を送った。


 州の知州は返した。——廂軍の兵は、この春、州の堤の修めに出る。五十人を抜かれれば、堤が夏の大水に間に合わぬ。


 狄承武は枢密院に文を送った。枢密院は兵部に文を送った。兵部は州にもう一度文を送った。


 文が六通になったところで、狄承武は借りるのをやめた。


「五十人の兵を借りるのに」


 狄承武は試しの営の土の壁の小屋で、修平に言った。


「六通。——それで、借りられなかった」


 狄承武は四十二になっていた。顔の日焼けは甘州にいた頃より少し薄くなっていた。


「知州が悪いのではない」


 狄承武は言った。


「堤が崩れれば、州の田が流れる。知州は田を守る。——けれど、北に戦が始まって、河北の廂軍を北へ送れ、と枢密院が命じた日に。知州が、堤が、と言えば」


 狄承武は言葉を切った。


「廂軍は誰の兵なのか、と思った」


  ◇


 兵部と枢密院との合同の議が開かれた。


 正月の廷議で決めた合同の議の最初の一つだった。卓の一辺に、兵部の曹允恭と禄の房の吏。一辺に、枢密院の董元礼。沈廷策は二つの辺の角に座った。


 それに、この日は吏部から一人。戸部から孟季常。


「禁軍と廂軍とを一つにする、という話が出ている」


 董元礼が言った。


「その前に確かめたい。——一つにする、とは何を一つにするのか」


「廂軍を解いて」


 吏部の官が言った。四十がらみの目の鋭い男だった。


「禁軍に選んで入れる。残りは民に戻す。——兵は禁軍だけにする。昔から、そういう論はありました」


「それはできぬ」


 董元礼は言った。


「甘州の北の韓奇捷の兵の半ばは、河西の廂軍から来た者だ。馬の乗り方も、水場の在り処も、砂の嵐の前触れも、韓奇捷の禁軍の兵よりよく知っている。——大理の山の廂軍もそうだ。安南の沼の廂軍もそうだ。禁軍の兵をあの山に送っても、ひと月は道に迷う」


「では、廂軍をそのまま」


「そのままでもない」


 董元礼は言った。


「そのままなら、試しの営は五十人を借りられぬ」


 修平は禄の表を思い出していた。二枚の表。


「禄と、帳面と、決まりとを」


 修平は言った。


「一つにするのはどうでしょう」


 皆が修平を見た。


「兵は解かない。河西の兵は河西に、大理の兵は大理に。——けれど、禄の表は一枚。兵籍の帳面は一つ。勤めの決まりも、罪を裁く決まりも一つ。武器の型も、弾の型も一つ」


 修平は言った。


「どの路の兵がどの路へ移っても、同じ禄を受け、同じ命の文を読み、同じ弾を撃てる。——兵を一つの中に入れるのではなく。一つの決まりの中に入れる」


 曹允恭が二枚の表を重ねた。


「禄を一枚にすれば」


 曹允恭は言った。


「廂軍の兵の禄が上がる。——孟郎中」


 孟季常はとうに算盤を弾いていた。


「廂軍の兵を禁軍の兵と同じ禄にすれば」


 孟季常は言った。


「一年に四百万貫あまり増えます。——針銃と砲と弾との三百万貫と足せば」


 孟季常はそれ以上言わなかった。


 部屋の中が静かになった。


「廂軍の兵が州の土木に出ている日の分は」


 修平は言った。


「今は廂軍の禄の中に入っていますね」


「入っている」


 曹允恭は言った。


「その日を兵の勤めから外したら。——州の土木には州が人を雇う。雇う銭は転運司から。今、廂軍の禄の中に隠れている土木の分の銭を表に出す」


 孟季常がもう一度算盤を弾いた。


 しばらく黙って弾いていた。


「隠れていた分を引けば」


 孟季常は言った。


「増えるのは、二百万貫を少し切る。——それでも増えます」


「増えます」


 修平は言った。


「増えた分で何を買ったのかを、先に書いておきたい」


  ◇


 何を買ったのか。


 修平はその夜、詰所で紙に書いた。


 河北の州の廂軍の兵が、北の軍鎮へ呼ばれた日に。知州は、堤が、と言わなくなる。堤は州が雇った人が築く。


 廂軍の兵が、禁軍の兵と同じ弾を撃ち、同じ命の文を読む。北の軍鎮で並んで伏せられる。


 廂軍の兵が、どこかの将軍の家の下人の仕事に使われなくなる。——修平はその一行を書いてから、少し迷った。それから、消さずに残した。


 董元礼が議の後で、ぽつりと言っていた。


「廂軍の兵を将の屋敷の普請に使う。昔からある話だ。——禄の表に欄が多いのは、そのためでもある」


 禄を国の一つの帳面から払う。兵籍を兵部の一つの帳面に書く。命の文は枢密院からしか出ない。


 そうすれば、兵は将軍の兵でも、知州の兵でもなくなる。


 ——国の兵になる。


 修平はその二字を紙の上に書いた。


 国軍。


  ◇


 廷議の三日前、修平は都堂の脇の小さな房に呼ばれた。


 李徳彰がいた。葉正言もいた。卓の上に孟季常の算の写しが置かれていた。


「二百万貫を少し切る」


 李徳彰は言った。五十六になった左丞相の髪は半ば白くなっていた。


「針銃と砲と弾との三百万貫の上に。——毎年だ」


「毎年です」


 修平は言った。


「転運司の方は」


 李徳彰は葉正言を見た。


「州の土木に人を雇う銭を、転運司から出す。——廂軍の禄から、その分を引く。引いた分を転運司に回す。帳面の上では、国の出す銭は変わらぬ」


 葉正言は言った。


「変わらぬはずの銭が変わらぬかどうかは、三年見ねば分からぬ。——州はこれまで、廂軍をただで使っていた、と思っている。これからは、雇う銭が目に見える。見える銭は惜しくなる。惜しくなれば、堤の修めを延ばす州も出る」


「それは」


「それは、戸部と転運司とが見る」


 葉正言は修平の顔を見た。


「隠れていた銭を表に出すというのは、そういうことだ。——表に出れば、争いも表に出る。それでも、隠れているよりよい」


 李徳彰はしばらく黙っていた。


「一つだけ訊く」


 李徳彰は言った。


「国の軍を一つにする。禄も、帳面も、法も一つ。——一つになった軍は大きい。大きなものは、いつか誰かが握りたくなる」


「握れぬようにしておきます」


 修平は言った。


「養う者と動かす者とを分けました。——兵部は養うが、動かせない。枢密院は動かすが、養えない。枢密使は文の官。戦を始め、止めるのは陛下。国の軍を一つにしても、その線はそのまま残ります」


 李徳彰は修平を見ていた。


「線は紙の上に引いただけでは、守られぬ」


 李徳彰は写しを葉正言の方へ押しやった。


「守るのは、次の兵部尚書と次の枢密使だ。——その者たちが、なぜこの線が引かれたかを知っているように。今日の議の書き付けを両府に残させておけ」


  ◇


 春の初めの御前廷議だった。


 殿の中に軍旗が二つ立てられていた。


 一つは、禁軍のある指揮の旗だった。赤い地に黒い字で、指揮の名が縫い取られていた。もう一つは、河北のある州の廂軍の旗だった。青い地に白い字で、州の名と廂軍の名とが。


 旗の前で、楊崇武が議の結びを読み上げた。


 禁軍と、廂軍と、郷兵と、蕃兵とを合わせて、大宋の国の軍とする。


 軍に在る者は、みな国に任じられ、国に養われ、陛下の命と国の軍の法とに服す。特定の将、特定の軍鎮、特定の州の兵に非ず。


 禄の表は、一つ。兵籍は、兵部の一つの帳面。勤めの決まり、罪を裁く決まり、武器と弾の型、兵を補う手続き、傷つき病んだ兵と退く兵との扱い。——全て、一つ。


 禁軍は、都を守る兵、後ろに控える兵、国のどこへでも出る兵として残す。廂軍は、路ごとの守りと境の守りとを常の勤めとする兵として残す。戦になれば、どちらも同じ一つの軍の組みの中に入る。


 廂軍の兵を州の土木に使わない。州の土木には、州が人を雇い、銭は転運司が出す。


 州の官は、軍の宿営、道、徴発の償い、治安について、軍と力を合わせる。けれど、兵を任じることも、動かすことも、命を出すこともできない。軍の官も州の政に与らない。


 旗の名、伝え、呼び名は残してよい。けれど、旗の下の兵が別の命を受けることはない。


 楊崇武が読み終えて、巻物を下ろした。


 殿の中が静かになった。


 趙祺は二つの旗を見ていた。


「旗はどうする」


 趙祺は言った。


「赤い旗と青い旗」


「残します」


 楊崇武は言った。


「旗の下で死んだ兵がいます。——その旗を、国の軍になったからと焼けば。兵は国の軍を恨みます」


 楊崇武は杖に両手を重ねた。


「ただ、全ての旗の竿の上に。一つ、同じものを付けます。国の軍の印を」


 楊崇武が董元礼を見た。董元礼が小さな金具を捧げて、進み出た。


 黄銅の小さな輪だった。輪の中に一字だけ刻まれていた。


 ——宋。


「兵が誓う文も一つにします」


 楊崇武は言った。


「これまで、兵は入るとき、その軍の将の前で誓ってきました。——これからは、将の前では誓わない。旗の前で、国の軍の法を読み上げ、陛下と国とに誓う。将はその誓いを見届けるだけ」


  ◇


 議の終わりに、右丞相が口を開いた。


 張文謹だった。


 七十一になった右丞相は、この冬、一度倒れた。医官が半月、屋敷に通った。今日の廷議にも、殿の脇に椅子が置かれていた。


 張文謹は椅子から立ち上がった。


「陛下。一つだけ申し上げたい」


 趙祺が頷いた。


「去年の夏、会社の法に、私は一行を書き足させていただきました」


 張文謹は言った。


「会社は、法の下に立つ。——あの一行は、株を持つ者のためでも、会社のためでもございませんでした。会社が大きくなったときに、その会社の長が法の上に立たぬように」


 張文謹は殿の中の二つの旗を見た。


「会社は大きくなっても、兵を持ちませぬ。——軍は、はじめから兵を持っております」


 殿の中の誰も動かなかった。


「今日のこの文には、一行書いてございます。軍に在る者は、国の軍の法に服す。——私は、それで足りると思います。足りぬと思う者が、いつか出てきたら。その者の前に、この文を置いていただきたい」


 張文謹はもう一度頭を下げた。


「それだけでございます」


 張文謹は椅子に戻った。座るとき、少しよろめいた。脇の若い吏が腕を支えた。


 趙祺はしばらく張文謹の方を見ていた。


「裁可する」


 趙祺は言った。


  ◇


 廷議の後、宮城の廊下で、修平は張文謹に追いついた。


 張文謹は若い吏に腕を預けて、ゆっくり歩いていた。


「林詳定か」


 張文謹は足を止めた。吏に、少し離れているように手で示した。


「今日、陛下に致仕をお願いした」


 張文謹は言った。


「廷議の前に、奥で。——許されるのは春の終わりになろう。後の者を決めねばならぬゆえ」


 修平は言葉が出なかった。


「そういう顔をするな」


 張文謹は少し笑った。


「去年の暮れに、李左丞相には言うておいた。年が明けたら、と。——年が明けて、倒れて、延びた。延びた分で、今日の廷議に出られた」


 張文謹は廊下の窓の外を見た。春の初めのまだ薄い日が、宮城の庭の梅の枝を照らしていた。


「林詳定。あなたがこの国に来て、何年になる」


「この春で十八年になります」


「私があなたを初めて見たのは、銭法の最初の廷議だった」


 張文謹は言った。


「あの頃の私は、あなたの話を半分しか分からなかった。——今も、半分しか分からぬ。けれど、分からぬ半分を分かる者が、国の中に増えた」


 張文謹は窓から目を戻した。


「今日の文を書いたのは誰だ」


「枢密院と兵部の官たちです」


「そうだろう」


 張文謹は頷いた。


「あなたが書いたのではない。——それでよい」


 張文謹は吏の方へ手を伸ばした。吏がすぐに来て、腕を取った。


 二人は廊下の先へゆっくり歩いていった。


  ◇


 その春のうちに、国の軍の誓いの文が刷られた。


 兵部の刷りの房で刷られた紙は、路ごとに束ねられて、駅伝の荷に積まれた。河西路へ。寧夏路へ。代北路へ。燕山路へ。大理路へ。安南路へ。黔中路へ。邕管路へ。——それから、河北路の大名府と真定府とへ。京畿の禁軍の各指揮へ。


 陳橋の北の試しの営には、狄承武が自分で受け取りに来た。


 試しの営の四百の兵が野に並んだ。


 赤い旗が三つ。青い旗が一つ。——青い旗は、この春、河北の廂軍から移ってきた五十人の旗だった。国の軍の文が下りた次の月、知州の返しは一通で来た。——堤の修めには、州が人を雇う。五十人を送る。


 全ての旗の竿の上に、黄銅の輪が光っていた。


 谷長順が誓いの文を読み上げた。


 都頭の声はよく通った。


 ——我ら、国の軍に在る者は、陛下と大宋の国とに仕え、国の軍の法に服す。命は、法に則る者よりこれを受く。敵たる者も、降る者は、殺さず。民の物は、奪わず。


 兵たちが一句ずつ繰り返した。


 狄承武は兵たちの前に立って、それを聞いていた。


 十年前の冬、東ロマニエの国境のテオドリアの施療院で、狄承武は自分の兵を数えていた。三千が、二千三百あまりになっていた。


 あのとき、あの兵たちは誰の兵だったのか。


 狄承武の兵だった。狄承武が率いていた。狄承武が死なせた。


 今日から、この兵たちは狄承武の兵ではなかった。


 誓いが終わった。兵たちが旗の下で黙って立っていた。


 狄承武は青い旗の方を見た。河北から来た五十人の中に、まだ十七か十八くらいの若い兵がいた。その兵は赤い旗の下の兵たちを横目で見ていた。


 狄承武はその兵の前へ歩いていった。


「名は」


「郝、と申します。——郝小虎」


 若い兵は固い声で言った。


「赤い旗の兵と、禄は同じだ」


 狄承武は言った。


「弾も同じ。命の文も同じ。——明日から同じ稽古をする」


 若い兵は何か言おうとして、言えなかった。


 狄承武は少し笑った。


「青い旗は焼かぬ。お前たちの祖父の頃から、河北の旗だ」


 春の風が野の上を渡っていった。四つの旗が揃って北の方へなびいた。竿の上の黄銅の輪が日をはじいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。