第九巻 軍制 第二回 軍政と軍令
三つの山は年の暮れには四つになっていた。
枢密院の文書の房の奥の一室だった。卓を二つ並べて、その上に紙の山が四つ積まれていた。
「一つ目は兵部のもの」
沈廷策は端から指で示していった。
「二つ目は枢密院のもの。三つ目はどちらのものとも言えぬもの。——四つ目は、どちらのものか決まってはいるが、二つの役所がそれぞれ自分のものだと思っているもの」
四つ目の山が三つ目より高かった。
修平は四つ目の山の一番上の文を手に取った。兵部から枢密院へ、この秋の半ばに出された文だった。——禁軍のある指揮の兵三人を、兵籍から外したき旨。枢密院の返しは、十一日後。——兵籍の出入りは、当院の掌るところなり。兵部より申し出るに及ばず。
その下の文は同じ三人のことで、枢密院から兵部へ。——右の三人、兵籍より外したるにつき、禄を止められたし。兵部の返しは、九日後。——禄を止むるは、兵籍を外したる文を当部に写し送られての後なり。
「三人の兵を兵籍から外して、禄を止めるまでに」
沈廷策は言った。
「二十日と、文が四通。——三人はその間、禄をもらい続けていました」
「誰が悪かったのですか」
修平は訊いた。
「誰も」
沈廷策は言った。
「どちらの文も正しい。枢密院は兵籍を掌る。兵部は禄を掌る。——正しいもの同士がぶつかると、二十日かかる」
◇
年が明ける前に、下書きの形を決めねばならなかった。
呉承烈と楊崇武とは、下書きを沈廷策一人に任せなかった。兵部から曹允恭。枢密院から董元礼。沈廷策が二人の間に座った。——それに修平と鍾九思と。
「林詳定には表の形を見てもらう」
楊崇武はそう言った。
「中身は両府の者が決める」
両府、というのは宋の古い言い方で、枢密院と中書とを並べて呼ぶ。軍の府と、政の府と。——けれど、この冬この部屋で董元礼と曹允恭とが言う「両府」は、枢密院と兵部とのことだった。
修平は紙に縦に欄を引いた。
一番左に、事の名。その右に、欄が四つ。兵部。枢密院。二つが共に。——それと、一番右に決める者。
「どの事もどこかの欄に印を付けます」
修平は言った。
「共に、の欄に印を付けた事には、一番右の欄に必ず決める者を書く。二つの役所のどちらが最後に決めるのか。二つが決められぬときは、誰に上げるのか」
「共に、が多すぎたら」
曹允恭が言った。
「今と変わらぬ」
「変わりません」
修平は言った。
「共に、の欄は少ないほどよい。——けれど、無理にどちらかに寄せると、寄せられた方が後で照会の文を書きます」
◇
最初のひと月は易しい事から埋めていった。
禄。兵部。
兵の募り。——董元礼が少し黙った。
「枢密院は昔から募りを見てきた」
董元礼は言った。
「どの路で何人募るか。募った兵をどこの軍鎮に送るか。——戦の先を決める者が、兵の数を決めてきた」
「兵の数は枢密院が決める」
曹允恭が言った。
「その数をどこでどう募り、どの帳面に書き、禄をいくら払うか。——それは兵部がする」
「数と募り方を分ける、と」
「分けます」
董元礼は紙を見た。修平の引いた欄が一行ずつ埋まっていた。
「では、兵籍は」
兵籍は四つ目の山の一番下にあった。一番古い争いだった。
沈廷策が自分の帳面を開いた。
「兵籍は兵部へ」
沈廷策は言った。
「今日から、兵がどこにいるか、誰が生きているか、誰がいつ入ったかを書くのは兵部。——枢密院はその写しを毎月受け取る。写しを、戦の先を決めるのに使う。けれど、帳面の元は一つ。兵部に置く」
董元礼の横に座っていた枢密院の古い吏が顔を上げた。六十を越えた白髪の男で、枢密院の兵籍の房に四十年いたという。
「兵籍を手放せ、と」
古い吏は言った。声が少し震えていた。
「枢密院が兵籍を持ってきたのは、ただ帳面を付けたかったからではございませぬ。——兵籍を持つ者が兵を動かせる。兵を動かす者が文の官でなければならぬ。祖宗の世にそう決められた。兵籍を兵部に渡せば、兵部の尚書が兵を動かせるようになる」
部屋の中が静かになった。
曹允恭はすぐには答えなかった。
「兵部の尚書も文の官です」
しばらくして、曹允恭は言った。
「それでも」
古い吏は言った。
「一人の尚書に、兵籍と禄と武器と募りとを全部渡せば。——その尚書は兵を養う。養う者に兵はつく」
修平は古い吏の顔を見た。
この男は愚かなことを言っているのではなかった。一人に集めることを恐れていた。その恐れの上に、この国の枢密院と兵部との重なりは何百年も立ってきた。
「兵を養う者と」
修平は言った。
「兵を動かす者とを分けるのは、どうですか」
古い吏が修平を見た。
「兵部は兵を養う。——禄を払い、帳面を付け、武器を渡し、学ばせる。けれど、兵部の尚書は兵を一人も動かせない。動かす文は枢密院からしか出ない」
修平は紙の上の欄を指した。
「枢密院は兵を動かす。——けれど、枢密院は兵の禄を一文も払えない。兵の名を帳面から一人も消せない。消すのは兵部」
「養う者は動かせず」
董元礼がゆっくりと言った。
「動かす者は養えず」
「一人に全部を渡さない」
修平は言った。
「今までは、二つの役所が同じ事を両方で持つことで、一人に集まるのを防いできました。——これからは、別の事を別々に持つことで防ぐ」
古い吏は長いこと黙っていた。
「帳面の、写しを」
古い吏は言った。
「毎月、枢密院に確かに送ると。——文に書いていただけますか」
「書きます」
沈廷策が言った。
「写しが三日遅れたら、兵部の郎中の名で遅れた理由を書くと」
曹允恭が苦い顔で頷いた。
◇
兵部の欄に印が並んでいった。
兵籍。兵の募り方。禄。武器と装備を作らせ、買い、受け取り、倉にしまうこと。軍器監と民の工場との約束。兵の学びの場。平時の軍鎮ごとの兵の数を帳面に書くこと。兵の勤めの決まり。——軍鎮の大営の倉の帳面の形。
枢密院の欄に印が並んでいった。
戦の計画。兵を集めよという命。北のどこに、どの軍をどう組むか。戦の目当て。戦の野の弾と粟とを、どの軍に先に送るか。軍の荷を、鉄の道と河と道とに、どの順で載せるか。後ろに控えさせる兵を、いつ、どこへ出すか。
楊崇武が一度だけ下書きの部屋に来た。
杖をついて卓の脇に立ち、枢密院の欄を上から下まで読んだ。
「一行足せ」
楊崇武は言った。
「枢密使は、文の官を以て充てる」
董元礼が楊崇武を見た。
「今もそうです」
「今はそうだ」
楊崇武は言った。
「今までは慣いだった。——慣いは、誰かが一度破れば終わる。書いておけ。枢密院の欄がこれだけ重くなるなら、なおのこと」
沈廷策が小さな字で書き足した。
楊崇武はそれから、紙のもう少し下の方を指した。
「ここにいずれ、もう一つ欄が要る」
「もう一つ」
「戦の計画を作る者たちの欄だ」
楊崇武は言った。
「今、戦の計画は作戦の房の数人が作っている。——この先、兵が十万になり、鉄の道が延び、電信が北の軍鎮に全部届けば。数人では作れぬ。作るための府が要る」
「その府は」
「まだ置かぬ」
楊崇武は言った。
「置く前に決めておく。——その府は計画を作る。戦を始めるか止めるかは決めぬ。陛下と枢密院とが決める」
楊崇武は杖を持ち直した。
「計画を作る者が戦を決め始めたら。——計画はいつも、戦をする計画になる」
◇
三つ目の山は最後まで残った。
職人の兵籍。軍器監の作坊の職人が兵籍に入っている。禄は兵部。職人としての賃は軍器監。戦になったら、職人を作坊に残すか、兵として出すか。
天機の機械の手。機械の手は兵か。吏か。兵なら兵部の帳面。けれど、機械の手をどの軍鎮に置くかは、枢密院の秘すべき事。
替えの品の数。百挺ごとの替えの閉じ具と、針と、革と輪。平時の倉の数を誰が決めるか。戦のときに、どの軍鎮へ先に送るかを誰が決めるか。
鉄の道を延ばすこと。工部と、兵部の駅の房との事。けれど、戦のとき、どの線を先に軍の車で埋めるかは、枢密院の事。
「分けられるものは分けます」
沈廷策が言った。
「替えの品は、平時の倉の数を兵部。戦のときの配る先と順を枢密院。——職人は、平時は兵部の帳面に職人として書く。戦のとき、作坊に残す者の名を先に、平時のうちに決めておく。決めた名を枢密院に写す。枢密院はその名の者を兵として呼ばない」
「先に決めておく」
曹允恭が繰り返した。
「決めておかねば、戦の最初の日に照会の文がまた二通になる」
沈廷策は帳面の頁をめくった。
「天機の機械の手は兵。兵部の帳面に書く。——ただし、どの局に置くかは枢密院が決め、兵部の帳面には局の名を書かない。番号だけを書く」
「番号だけ」
「哈特どのがこの秋、機械ごとに番号を振りました。——手にも振ります」
残ったのは鉄の道だった。
「鉄の道は」
修平は言った。
「どちらにも寄せられません。——工部と、兵部の駅の房が敷く。敷く先を決めるのは、国の銭と物の流れ。けれど、敷いた後、戦のときにどの車を先に走らせるかは枢密院」
「では、共に、の欄に」
「共に、の欄に。決める者の欄に、合同の議、と」
修平は紙に書いた。
「工部と、兵部と、枢密院とが一つの卓に集まって決める。一方が一方だけで押し切らない。——決まらぬときは都堂に上げる」
董元礼が少し笑った。
「秋の工部の書庫と同じだ」
「同じです」
修平は言った。
「あの日は一つの卓に皆が集まれた。——毎月集まれぬ事だけを、一つの役所に寄せる。毎月集まらねばならぬ事は、集まる日を先に決めておく」
◇
下書きの終わり近くで、沈廷策は別の紙を二枚出した。
一枚目の頭にはこう書かれていた。——命の文の形。
「枢密院から軍鎮へ。軍鎮からその下の指揮へ。——命の文の形を揃えます」
沈廷策は指で欄をなぞった。
「誰が出したか。誰に宛てたか。何のための命か。いつまでに、か。どの事を先にするか。何が届く前提で出した命か。——済んだら、誰に報せるか」
「何が届く前提で」
修平が訊いた。
「弾が三日後に届くから、進め、という命と」
沈廷策は言った。
「弾は届かぬかもしれぬが、進め、という命とは違う命です。——同じ、進め、の一字でも。受けた者は弾が届かなかったとき、止まってよいのか分からない」
沈廷策は帳面の中から古い文の写しを一枚抜き出した。
修平には見覚えがあった。狄承武の戦役記の写しの一枚だった。
——カタフラクタイの脇を固めよ。深追いはさせるな。
それだけの命だった。
「乾いた河床で、玄甲の一隊が受けた命です」
沈廷策は言った。
「ロマニエの重い騎兵が退く敵を追った。玄甲はその脇を固めよ、と命じられていた。——脇を固める相手が深く追えば、脇も深く出る。深追いはさせるな、とも書いてある。どちらの字を先に守るのか。玄甲の長は走る馬の上で決めねばならなかった」
沈廷策は写しを卓に置いた。
「止めよ、の命は半刻遅れて届いた。——出した者も受けた者も誤ってはいない。命の文に、何のための命かを書く欄がなかった」
二枚目の紙の頭にはこう書かれていた。——非常の時。
「電信が切れたとき。陛下が都を離れておられるとき。枢密院と軍鎮との報せが途絶えたとき」
沈廷策は言った。
「誰が代わりに命を出すか。出した命を、いつまでに上へ上げて認めてもらうか。——先に書いておきます。戦の最中に誰が出してよいかを決めるための照会の文は、書けませんから」
◇
戸部にも下書きは回った。
孟季常は下書きを一晩持ち帰った。翌朝、枢密院の奥の一室に戸部尚書の添え書きを持ってきた。
葉正言の字だった。
——戸部は、毎年軍にいくら出すかを決める。どの軍鎮に弾を何発配るかは決めぬ。予め備える兵をどこに置くかも決めぬ。総ての額とその内の配りとは、別の事なり。
「尚書はこう申されました」
孟季常は言った。
「戸部が弾の数まで口を出し始めたら。——その年の戸部の郎中が北の戦を指図することになる。銭の出し方で戦を決めてはならぬ、と」
孟季常は少し笑った。
「その代わり、額を越えたら、越えた理由を枢密院の名で戸部に書いてもらう。——と、これは私が書き足しました」
◇
年が明けて、正月の御前廷議だった。
殿の中に長い紙が広げられていた。修平の引いた欄に、両府の者たちがひと冬かけて印を付けた紙だった。
趙祺は紙の前に立っていた。
座らなかった。
一行目から指で辿った。兵籍。兵部。禄。兵部。兵の数。枢密院。募り方。兵部。
「この二行は、なぜ分けた」
趙祺は兵の数と募り方との行を指した。
「数を決める者が募り方まで決めれば」
呉承烈が答えた。
「その者は自分の決めた数を自分で揃えられます。——揃えられぬときに、揃えられぬ、と言う者がいなくなります」
趙祺は頷いた。次の行へ指を移した。
職人の兵籍。共に。決める者、平時は兵部、戦のときに作坊に残す者の名は、平時に両府が合わせて定め、枢密院はその名の者を呼ばず。
天機の機械の手。兵部の帳面に、番号のみ。置く局は、枢密院。
鉄の道。共に。決める者、合同の議。決まらぬときは、都堂。
趙祺は一行ずつ読み、ときどき訊いた。答えは行によって、呉承烈が、楊崇武が、董元礼が、曹允恭がした。
一度だけ、趙祺は沈廷策に訊いた。
「この紙を書いたのは誰だ」
沈廷策は殿の末席で、少し身を固くした。
「下書きは臣が。——中身は両府の官がひと冬かけて」
「そうか」
趙祺は紙の最後の行まで辿った。
——兵を動かすの命は枢密院より出づ。兵を養うの事は兵部これを掌る。
——戦を始め、戦を止むるは、朕、枢密院の議を聞きてこれを決す。
——枢密使は、文の官を以て充つ。
——非常の時、命を代わりて出だす者の順、および追いて認むるの期限は、別紙のとおり。
「最後に、朕が決める、と書いてある」
趙祺は言った。
「朕が決めぬ事は」
「この紙に書いてある全ての事です」
楊崇武が言った。
杖に両手を重ねていた。
「陛下が決めるのは、戦を始めることと止めることと。——それに、この紙を裁可すること。それ以外の事は、陛下の前に上がってこぬように。上がってきたら、それはこの紙のどこかが誤っております」
趙祺はしばらく楊崇武を見ていた。
「朕の前に上がってくる事が減る、と」
「減ります」
「減った分は」
「両府の官が決めます。——決めた官の名が文に残ります」
趙祺は少し笑った。
「裁可する」
◇
廷議の後、宮城の廊下で沈廷策は、兵部と枢密院との両方の印の押された任命の文を受け取った。
——兵部と枢密院との間の連絡の官に充つ。
両方の役所に机を一つずつ持つ。両方の文を読める。どちらの役所の者でもない。
「机が二つになりました」
沈廷策は修平に言った。
「字は小さいままですが」
修平は笑った。
廊下の先で、董元礼と曹允恭とが並んで歩いていた。五年前、この二人は同じ数を写して送るのに照会の文が要る、と並んで言った。今日は並んで何かを話していた。何を話しているのかは聞こえなかった。
沈廷策は懐から帳面を出した。
「四つ目の山は片付きました」
沈廷策は言った。
「三つ目の山は、今日から毎月、合同の議で片付けていきます。——それと」
沈廷策は帳面の最後の頁を開いた。
そこにはまだ何も書かれていなかった。頁の頭に小さく一行だけ。
——計画を作る府。
「枢密使は、置く前に決めておけ、と言われました」
沈廷策は言った。
「何をさせぬかを」
廊下の窓の外で、正月の薄い日が宮城の瓦を照らしていた。




