第八巻 軍産業 第十回 制式採用
壁の紙には十の欄があった。
当たり。壊れにくさ。重さ。扱いやすさ。一挺の値。作る速さ。直しやすさ。部品の組み替え。弾の来やすさ。兵に教える日数。
欄の下に行が二つ。
甲。乙。
枢密院の奥の広間だった。秋の半ばの晴れた朝だった。広間には長い卓が三方に並べられていた。卓の一辺に枢密院の董元礼と作戦の房の官が二人。一辺に兵部の曹允恭と装備の房の吏。一辺に軍器監の洪克勤と樊守正。工部から韋金森と克魯澤。試しの営から狄承武。戸部から、この秋に郎中になった孟季常。
修平は統計局の韋明遠と並んで卓の端に座っていた。
枢密院と兵部と軍器監とが連名で呼んだ議だった。文の頭にはこうあった。——禁軍と北辺の軍との同じ装備を定むる議。
「甲は私の銃です」
韋金森が言った。
「乙は、狄統制の試しの営の兵が使いながら直した銃です」
◇
甲は、韋金森が夏の間に作坊の片隅で仕上げた銃だった。
溝を四本から六本に増やしていた。閉じ具の茸の傘をもう一段精しく削っていた。筒を乙より一寸長くしていた。
壁の紙の当たりの欄に、甲は乙より一割あまりから二割あまりよい数が書かれていた。三百歩で十発のうち盆の輪に入る数が、乙は七つ、甲は八つ。四百歩で乙は四つ、甲は五つ。
壊れにくさの欄も甲が少しよかった。
作る速さの欄で、甲は乙の三つに二つだった。
「溝を六本に刻むには、ねじれの型の台で引き通す数が一倍半」
韋金森は言った。
「閉じ具の傘をもう一段精しく削るには、枠をもう一つ。削る者にひと月多く教えねばならない。——それに精しく削った傘は、刃の減りに弱い。刃を替える日を四日早めねば、型に通らなくなる」
孟季常が戸部の帳面を開いた。
「一挺の値」
孟季常は言った。
「乙は、作坊の出の値で一挺六貫あまり。甲は九貫」
「三万挺で」
修平が言った。
「九万貫の差」
孟季常は頷いた。
「九万貫あれば、包みが二百万あまり巻けます」
広間の中が少し静かになった。
「兵に教える日数は」
董元礼が狄承武を見た。
狄承武は紙の束を卓に置いた。この夏の試しの営の都頭たちの束だった。
「乙の銃を初めて持つ兵に、伏せて撃ち、込め、掃き、針と革と輪とを野で替えられるまで教えるのに、二十日」
狄承武は言った。
「甲は、試しの営でひと月十挺だけ使わせた。——撃つのは乙と同じ。けれど、六本の溝は掃くのに手間がかかる。泥が溝に噛む。精しい傘は、野で替える革と輪の嵌め具合にうるさい。指のかじかむ朝に、嵌まらぬことが乙より多かった」
狄承武は束の中から一枚を抜き出した。谷長順の字だった。
——甲は、よい銃。当たる。
——されど、甲の兵は乙の兵より銃の手入れに刻を取られる。
狄承武は紙を卓の上に置いた。
「戦の野では、銃の手入れの刻は兵が眠る刻です」
◇
しばらく誰も口を開かなかった。
韋金森が口を開いた。
「乙を採ってください」
皆が韋金森を見た。
「甲は私のよい銃です。——けれど、甲は私の作坊の腕のよい削る者が揃っているときにしか作れない。磁州の分の作坊で作れば、否が倍になる。汪徳潤どのの工場では、閉じ具の傘は作れない」
韋金森は壁の紙の甲の行を見上げた。
「四年前の春、私は軍器監の作坊で林詳定に言いました。どんな銃でも構いません。ただ、この作坊で作れる銃にしてください。一丁ではなく、十万丁」
韋金森は少し笑った。
「自分で言ったことを自分の銃で破るところでした」
洪克勤がゆっくりと頷いた。
「甲の図は捨てずにしまっておく」
洪克勤は言った。
「いつか、刃の鋼がよくなり、削る台がよくなり、どこの作坊でも甲を乙と同じ速さで作れる日が来たら。——そのとき元の図と元の型とを替える」
曹允恭が壁の紙の乙の行の頭に小さく印を付けた。
◇
銃だけではなかった。
曹允恭の房が作った一式の帳が、次に卓の上に広げられた。
銃。目当ての金具。筒の中を掃く棒と布。閉じ具の替えの革と輪。替えの針、一人に二本。紙の包みの袋。袋に入れる包みの数。弾の箱。——それに銃の先に付ける刃。
「刃は要るのか」
孟季常が訊いた。
「要ります」
狄承武が言った。
「伏せて撃つ兵の前に、騎馬が駆け込んできたとき。込める間もないとき。——銃の先に刃を付けて槍にする。神臂弓の兵は、そのとき弓を捨てて腰の刀を抜いた。銃の兵は銃を捨てずに済む」
刃は、鄧四が作坊の片隅で型を作っていた。
刃の付け根の輪が、どの銃の筒の先にも嵌まる。——鄧四はそれを一つ目の枠で作った。
「百挺ごとに」
曹允恭は帳の別の頁を開いた。
「替えの閉じ具を五つ。替えの針を二百。替えの革と輪を四百組。ばねを五十。——百挺の兵の都の倉に。軍鎮の倉には、その十倍」
「その数は」
董元礼が訊いた。
「試しの営の、この夏の壊れの帳面から」
曹允恭は言った。
「百挺の兵が、ひと月の稽古で何をどれだけ壊したか。——戦の一日には稽古の何倍壊れるか。枢密院の戦の帳面の倍率を掛けました」
董元礼は帳の数をしばらく見ていた。
「枢密院の倍率を兵部の帳に掛けた」
董元礼は言った。
「掛けました」
曹允恭は言った。
二人ともそれ以上何も言わなかった。——四年前、この二人は稽古の帳面と戦の帳面とを写して送るのに、照会の文が要る、と並んで言った。
◇
砲は、克魯澤が説明した。
「丙を、歩く兵と動く野の砲に。丁を、馬の兵と動く馬の砲に」
克魯澤は言った。
「丁は丙とは別の図です。筒が短く、台が軽い。けれど弾は同じ。弾の帯も、頭の仕掛けも、刻みも。楔の替えの座も同じ。輪金も、軸の受けも同じ。——違うのは、筒と、台と、火薬の袋の重さだけ」
克魯澤は曹允恭を見た。
「口の大きさは一つです」
曹允恭が頷いた。
砲の一式の帳は、銃の帳の三倍の厚さがあった。筒。台。前の小さな車。弾の車。頭の仕掛け二つ。火薬の袋三つ。目当ての器と替えの硝子。射表の冊子。二つのところから的を見る、観る器。工具の車。替えの品。——それに筒ごとの身の上の帳面。
「この帳面は、筒と一緒にどこへでも行きます」
樊守正が言った。
「軍鎮の砲の隊が撃った数を書き足す。書き足した写しを、年に二度軍器監へ送る。——撃った数が線に近づいた筒は、軍器監が呼び戻して検める」
◇
天機の機械の話は、哈特が来てした。
哈特は、焼き印の番号の押された楠の箱の帳を持ってきていた。
「天機の機械は今、十六台」
哈特は言った。
「一台ごとに番号。番号ごとに帳面。——どこの局に置いたか。その局の鍵の保管の官は誰か。機械の手は誰か。いつ蓋を開けて板で検めたか。歯車の銅の点をいつ替えたか」
哈特は帳面を卓に置いた。
「それと、局ごとに封をした替えの歯車の組。どこにしまったか。誰が封の印を押したか。——陣が落ちるとき、機械を誰がどの順に壊すか。壊したことを、誰が見届けて帳面に書くか」
「壊したことまで帳面に」
孟季常が言った。
「壊したと書いていない機械は」
哈特は言った。
「敵の手に渡ったかもしれない機械です。——その日のうちに、国中の歯車の組を替えねばならない」
董元礼が言い足した。
「兵の持つ銃の番号も同じだ。どの都の、どの兵が、どの番号の銃を持っているか。——誰が持っているかを、国が辿れるように」
◇
「どこから配る」
狄承武が言った。
曹允恭が北の半分の地図を卓の上に広げた。
「北の辺りの軍鎮から」
曹允恭は大名府と真定府とを指した。
「次に、開封の禁軍のいくつかの指揮。国のどこへでも送れる兵として。——それと試しの営。新しい銃と砲とを教える兵として」
「古い銃と古い弩は」
孟季常が言った。
「捨てるのか」
「捨てない」
董元礼が言った。
「楊枢密使の言付けです」
董元礼は紙を一枚出した。
「新しい銃を北の軍鎮に配ると、北の軍鎮の神臂弓が余る。——余った神臂弓は、捨てずに南の廂軍の軍へ回す。銅の火筒と火槍とは蓄えの倉へ。稽古に使う」
董元礼は紙を読んだ。
「新しき物が全ての兵の手に渡るまでに、何年もかかる。その何年の間、古き物を先に捨てれば、国のどこかに何も持たぬ兵が出る。——古き物は、新しき物が届いた後に下げよ」
狄承武が少し笑った。
「九年前、西の遠征で神臂弓の弩機が壊れた。替えがなかった。——あの弩機の替えが今、国中の倉に余っている」
笑った顔はすぐに消えた。
「新しい銃を渡すことと、新しい銃を保つこととは別のことです」
狄承武は言った。
「北の軍鎮に銃を千挺渡す。その千挺の閉じ具の革と輪とを替え、針を替え、筒の中を検める者が、軍鎮にいなければ。——半年で、千挺のうち何挺が撃てるか」
曹允恭が頷いた。
「直す兵を育てる」
曹允恭は言った。
「武器を直す兵。通信の兵。天機の機械の手と直す者。砲の兵と砲の隊の直す者。——兵部で学びの場の課程を作ります。陳橋の駅の天機の学びの場と、試しの場の砲の学びの場とに並べて」
「課程の中身は」
「作るのは兵部。中身は、軍器監と、工部と、枢密院に」
曹允恭は董元礼を見た。
「印は三つ」
「三つですな」
董元礼は言った。
今度は、広間の何人かが小さく笑った。
◇
秋の半ばの御前廷議だった。
殿の中に銃が一挺置かれていた。乙の図の銃だった。先に刃が付けられていた。その隣に、丙の砲の筒の尻の部分だけが台に載せて置かれていた。筒の尻に番号が刻まれていた。その隣に楠の箱が一つ。
楊崇武が議の結びを読み上げた。
銃は、乙を禁軍と北辺の軍との銃と定める。一式は帳のとおり。砲は、丙を野の砲、丁を馬の砲と定める。口の大きさは一つ。天機の機械は、番号と帳面とで辿る。配る順は、北の軍鎮、開封の禁軍、試しの営。古き物は、新しき物の届いた後に下げる。直す兵の課程を兵部に置く。
読み終えて、楊崇武は巻物を下ろした。
趙祺はしばらく、殿の中の銃と、砲の尻と、楠の箱とを見ていた。
「沈維新」
「はい」
「この銃をこの先何年作る」
沈維新は少し考えた。
「図が替わるまで。——十年か、二十年か」
「三万挺、と聞いた」
「最初の三万挺です」
趙祺は頷いた。
「葉正言」
戸部尚書が一歩前へ出た。六十二になった尚書の背は、まだまっすぐだった。
「三万挺と、その包みと、砲と、弾と、直す兵と、倉と。——この先毎年いくら要る」
「孟郎中の算では」
葉正言は言った。
「最初の三年で、一年に三百万貫あまり。その後は、作り足しと蓄えの入れ替えと直す兵の禄とで、一年に百万貫あまり。——北辺の軍費に足されます」
殿の中が静かになった。
趙祺は十二年前の夜対を覚えているようだった。北辺の軍費は歳出の半ばを超える。
「朕は今日、この銃を裁可する」
趙祺は言った。
「これは褒美ではない」
殿の中の目が皇帝に集まった。
「韋金森と、洪克勤と、鄧四と、克魯澤と、哈特と、蘇玄機と。——作った者たちへの褒美は褒美で、別に出す。今日の裁可は、そういうものではない」
趙祺は殿の中の銃を見た。
「今日から、この国はこの銃を作り続けると決める。十年か、二十年。作り続け、直し続け、弾を巻き続け、兵に教え続け、倉に蓄え続ける。その銭を、毎年戸部が出し続ける。——国が何十年背負うと決めることだ」
趙祺は少し言葉を切った。
「だから、裁可は朕がする」
◇
「一つ訊く」
趙祺は言った。
「この銃の名は」
楊崇武が董元礼を見た。董元礼が狄承武を見た。
狄承武は殿の末席から一歩前へ出た。
「名はまだございません。——試しの営の兵は、針の銃、と呼んでおります。針が紙を突いて火を付けますゆえ」
「針の銃」
趙祺は繰り返した。
「兵がそう呼ぶなら、それでよい」
趙祺は言った。
「針銃、と書け。——朕が付けた名は、兵が呼ばぬ。兵が呼ぶ名は、兵が忘れぬ」
張文謹が殿の脇で小さく笑った。
修平は張文謹の横顔を見ていた。七十になった右丞相の背は、この秋また少し丸くなっていた。
「兵が呼ぶ名は、兵が忘れぬ、か」
張文謹は言った。
「私が会社の法に書き足させた一行も、そうであればよいが」
殿の中に小さな笑いが起きた。李徳彰だけが笑わずに張文謹の方を見ていた。
◇
廷議の後、宮城の廊下で洪克勤が修平に追いついてきた。
「林詳定。一つお知らせしておく」
洪克勤は言った。
「軍器監は、この秋のうちに、磁州機械に刃と軸の受けとを三年分まとめて頼む。——針銃の筒を削る刃と、砲の車の軸の受け。三年分の数を決めて。私の名で工部に上げる」
「三年分」
「今日、陛下が何十年背負うと言われた。——作坊の刃が途切れては背負えぬ」
洪克勤は少し声を落とした。
「磁州機械は株の会社だと聞いた。三年分の注文の報せが出れば、株の値が動くかもしれぬ。——私にはよく分からぬ。分からぬゆえ、林詳定に先に言うておく」
修平は洪克勤の顔を見た。
この秋、修平は、株の値が報せ一つで動くのを何度も見ていた。報せを先に知った者が先に買えば、後から知った者がその者に高く買わされる。——それを禁じる決まりはまだなかった。
「注文を出す日に、磁州機械にも同じ日に報せてください」
修平は言った。
「磁州機械が、それを株を持つ者たちに同じ日に知らせる。——軍器監の中の誰かが、先に知って先に株を買うことがないように」
洪克勤はしばらく黙っていた。
「軍器監の中の誰かが」
「軍器監の中の誰も、そうはしないと私は思います」
修平は言った。
「けれど、誰もしないと帳面の上で言えるようにしておいた方がよい」
洪克勤はゆっくりと頷いた。
「樊守正の検めの否と同じか」
「同じです」
洪克勤は少し笑った。それから、廊下の先へ歩いていった。
修平は廊下の窓から外を見た。
秋の半ばの高い空の下に、宮城の瓦が並んでいた。瓦の向こうの城の西の方角に、軍器監の作坊があるはずだった。そこで今日から針銃が作られていく。十年か、二十年。
その銭の一部は、磁州の株の会社の刃になり、軸の受けになり、職人の賃になる。




