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第八巻 軍産業 第八回 騎馬砲兵

「砲が来ませんでした」


 慕容雄は言った。


 枢密院の作戦の房の狭い部屋だった。慕容雄は河北の騎兵の指揮使で、三十代の終わりの背の高い男だった。日に焼けた顔の中で目だけがよく動いた。


「陳橋の野の試しの次の日です。私の騎兵、二百騎で野の東から柵の横へ回り込みました。狄統制の歩く兵が柵の前で敵を止めている間に。——回り込んだ先で、柵の横の土の盛り上がりに、砲の火が欲しかった」


 慕容雄は卓の上の野の図に指を置いた。


「砲の隊は野の南の高いところから動き始めました。砲一門に六頭の馬。砲の兵は砲の車の脇を歩いて。——私の騎兵が柵の横に着いたとき、砲はまだ野の半ばでした」


 董元礼が黙って図を見ていた。


「歩く兵と同じ速さで動く砲は、歩く兵にはよい」


 慕容雄は言った。


「馬の兵には遅い。——私の騎兵は柵の横で、香篆の火が半分燃えるまで砲を待ちました。待っている間、柵の横の敵が私たちを撃っていた。これが本当の戦なら」


 慕容雄はそれ以上言わなかった。


 董元礼は図から目を上げた。


「克魯澤どのが四年前に紙の端に描いた小さな絵がある」


 董元礼は言った。


「馬に乗る砲の兵の絵だ」


  ◇


 中牟の牧監の草地は、夏の終わりの濃い緑だった。


 四年前の秋の終わり、修平はこの草地で燃え尽きた香篆の跡を見下ろしていた。古い火筒を四頭の馬に引かせて、弓の兵が五百歩を何度も走った。——撃たれなかった火筒の周りで、馬の飼い葉の重さと、兵の息の続き方と、車の軸の割れと、三つの役所の印の数とが一日かけて量られた。


 今日、草地の真ん中には火筒ではない砲が据えられていた。


 丙の図の砲よりひと回り小さかった。筒は丙と同じ口の大きさだった。けれど丙より二尺短かった。短くした分、壁は百二十発で割れた乙の筒より厚く残してあった。筒の重さは五百斤。台も輪も丙より軽く作られていた。


「丁です」


 克魯澤が言った。


「丙と同じ弾を撃ちます。同じ鉄の殻。同じ銅の帯。同じ刻み。——火薬の袋だけ、軽いものを使う。遠くへは丙ほど飛ばない。けれど、弾の箱は丙の隊と同じ箱」


 克魯澤は曹允恭の方を見て少し笑った。


「口の大きさを多くしないでいただきたい、と四年前に言われましたから」


 曹允恭が小さく頷いた。


 丁の砲の脇に兵が八人並んでいた。八人とも馬の手綱を持っていた。八人の先頭に、四年前のあの兵の長が立っていた。


 鮑順。四年前、昨日まで弓を引いていた兵として、この草地で初めて砲を据える手順を習った。三度目の旗で足をもつれさせた兵も、四度目の旗で息を切らせた兵も、鮑順の組だった。——あなたたちが最初の教える者になります、と克魯澤は言った。


 鮑順は四年の間に四十人を育てていた。


  ◇


「始め」


 秦牧之が言った。


 牧監の者が香篆の端に火を付けた。


 八人が馬に飛び乗った。六頭の馬が丁の砲を引いて走り出した。八人はその横を並んで走った。——四年前と同じ草地の端の小さな旗の方へ。


 旗のところで八人が飛び降りた。


 一人が砲の車と前の小さな車とを繋いだ鉤を外した。二人が台の尾を振った。一人が前の小さな車の蓋を開けた。一人が弾と袋とを取り出した。一人が尻の楔を開けた。一人が目当ての器を覗いた。一人が八頭の手綱をまとめて後ろへ下がった。


「撃て」


 鮑順が言った。


 今日は砂を詰めた弾が込められていた。


 砲が跳ねた。


 砂の弾が草地の向こうの柵の手前に落ちた。


 それから逆に。尾を振り、鉤を掛け、蓋を閉じ、手綱を受け取り、飛び乗る。六頭が走り出す。右手の別の旗の方へ。


 修平は秦牧之の卓の上の香篆を見ていた。


 四年前、香篆の火がひと巡りする間に、弓の兵は四度据えて畳んだ。一発も撃たずに。


 今日、香篆の火が模様の終わりに届いたとき、鮑順の組は六度据えて、六度撃って、六度畳んでいた。


「六度」


 克魯澤が言った。


「私の国のよい砲の兵と同じです」


 鮑順が戻ってきた。顔が汗で濡れていた。


「四年前は三度目の旗で足がもつれました」


 鮑順は言った。


「今日、もつれた者はいません。——四年、同じことをしましたから」


  ◇


 牧監の庁舎の一室で、秦牧之は四年前と同じ帳面を広げた。


 四年前よりずっと厚くなっていた。


「砲の車に六頭。前の小さな車は砲の車と一つに繋ぐ。砲の兵、八人が八頭。弾の車は一台に四頭。——馬の兵について走らねばならぬゆえ、一台には弾を多くは積めぬ。その代わり、弾の車を二台に分けた」


 秦牧之は珠を弾いた。


「替えの馬を足して。——砲一門に、馬が二十六頭」


 四年前、秦牧之は砲一門に少なくとも十二頭、と言った。


「倍を越えましたね」


 修平が言った。


「越えた」


 秦牧之は否まなかった。


「四年前は砲も弾の車もなかった。紙の上の数だった。——今日は、本当の砲と本当の弾の車の重さの数だ」


 秦牧之は帳面をめくった。


「四門の隊で、馬が百頭を少し越える。一日に干し草が二千斤。豆と麦が五百斤。水が六十石」


 部屋の中が静かになった。


「馬は四年前よりよくなった」


 秦牧之は言った。


「この四年、北の牧監と西の牧監とで、胸の厚い、脚の太い種を選んで掛け合わせてきた。——四年では一代だ。一代で変わるのは少しだけ。それでも、この丁の砲を引く六頭は、四年前の馬よりひと巡り長く走れる」


「それでも、百頭」


「百頭だ」


 秦牧之は言った。


「馬の砲は軽い砲ではない。——砲と兵と弾と馬と飼い葉と水とを、一緒に速く動かす、重い仕組みだ」


  ◇


 三日の試しは次の朝から始まった。


 中牟の牧監の草地の西の端に柵が立てられた。敵の陣に見立てた柵と土の盛り上がり。


 決め事はこうだった。


 狄承武の試しの営から、谷長順の都が柵の正面に出て、伏せて撃つ。敵を柵の前に止める。その間に、もう一つの都が縦の列に組んで、柵の南の横へ回る。慕容雄の騎兵、二百騎がさらに外を回って、柵の後ろを脅かす。


 丁の砲の隊四門は、縦の列の都が向かう柵の南の横の小高い土へ、先に走り、据える。縦の列の都が着いたときには、もう柵の横を撃っている。


 修平は牧監の庁舎の屋根の上の見張りの台から、それを見ていた。隣に克魯澤と董元礼がいた。


 谷長順の都が柵の正面に散って伏せた。撃ち始めた。


 縦の列の都が動き始めた。


 丁の砲の隊が走り出した。


 砲の車は速かった。四門が草地を斜めに横切って、柵の南の小高い土の方へ走った。慕容雄の騎兵の少し内側を。——騎兵とほとんど同じ速さで。


 董元礼が小さく息を吐いた。


「ついていく」


 砲の車が小高い土に着いた。八人ずつが飛び降りた。尾を振った。前の小さな車の蓋を開けた。


 そこで止まった。


 見張りの台の上からそれが見えた。前の小さな車の蓋を開けた兵が中を覗き込み、それから後ろを振り返っていた。


 後ろに弾の車がいなかった。


 修平は草地を見回した。


 弾の車は草地の半ばの浅い溝の手前で止まっていた。一台の車輪が溝の縁で傾いていた。弾の車を引く四頭が足を踏ん張っていた。


「前の小さな車の弾は」


 董元礼が訊いた。


「砲一門に十発」


 克魯澤が言った。


「十発は、据えて最初の弾を見るためのもの。——挟んで当てて撃ち続けるための弾は、弾の車に」


 小高い土の上で、四門の砲が一発ずつ撃った。二発目を撃った。三発目。


 十発を撃ったところで、四門とも黙った。


 縦の列の都が柵の南の横に着いた。砲の火はなかった。


 弾の車が溝を越えて小高い土に着いたのは、香篆の火が模様を三つに一つ燃え進んだ後だった。


  ◇


「砲だけ速くても」


 その日の夕刻、克魯澤は言った。


「撃てません」


 牧監の庁舎の一室だった。鮑順と、弾の車を引いていた兵の長とが並んで立っていた。


「溝を越えられませんでした」


 弾の車の兵の長が言った。


「砲の車は軽い。溝を跳ねて越えた。弾の車は重い。溝の縁で輪が落ちた」


「弾の車の道を」


 慕容雄が言った。騎兵の指揮使は昼の間、柵の後ろを三度脅かして戻ってきていた。


「砲の車と同じ道を走らせてはならぬ。弾の車の走れる道を先に見ておく。——騎兵の前を見る者に、砲の隊の道も見させる」


「弾の車を二台に分けたのは、よい」


 克魯澤は言った。


「けれど、二台とも砲の後ろに並べて走らせた。——一台は砲について走る。もう一台は後ろの確かな道を走る。前の一台が溝で止まっても、後ろの一台が別の道から着く」


 修平はそれを紙に書き付けていた。


 騎兵の前を見る者が砲の隊の道も見る。弾の車は二つの道で。前の小さな車の弾を十発から増やせるか。——増やせば砲の車が重くなる。


 どれを直しても、どこかが重くなった。


 四年前、克魯澤が紙に書いた五つの字が、まだそこにあった。


  ◇


 二日目はうまく行った。


 弾の車の一台は砲の車について走った。もう一台は、騎兵の前を見る者が朝のうちに見ておいた南の畦の道を回った。二台とも小高い土に着いた。


 丁の砲の隊は柵の横を撃ち続けた。縦の列の都が着いたとき、柵の横の土の盛り上がりには砂の弾が落ち続けていた。縦の列の都が柵の横に散って伏せた。砲の隊はそこで撃つところを柵の奥へ移した。


 それから畳んで、また走った。柵の北の横へ。慕容雄の騎兵が柵の後ろから脅かしを北へ移したのに、合わせて。


 見張りの台の上で董元礼が長いこと黙っていた。


「馬の兵と同じ拍子で火を置けた」


 董元礼は言った。


 その夜、修平は秦牧之と、牧監の井戸の脇にいた。


 井戸の前に馬が並んでいた。丁の砲の隊の馬、百頭と少し。慕容雄の騎兵の馬、二百頭あまり。


 井戸の釣瓶を牧監の者が四人がかりで上げ下ろししていた。上げても、上げても、馬の列は短くならなかった。


「一つの井戸で水が一刻にどれだけ汲めますか」


 修平は訊いた。


「この井戸なら、四人で一刻に五石」


 秦牧之は言った。


「今夜要るのは二百石に近い」


 修平は黙った。


 飼い葉の車は昼のうちに牧監の蔵から出ていた。けれど、砲の隊と騎兵とは柵の北の横まで走っていた。飼い葉の車は昼の間、柵の南に止まったままだった。——誰も飼い葉の車に、北へ回れ、と言っていなかった。


 飼い葉の車が柵の北の野営の場に着いたのは、夜の半ばを過ぎてからだった。


 夜明けに秦牧之は馬を一頭ずつ見て回った。


 修平はその後ろをついて歩いた。


 丁の砲を引いていた馬の何頭かが脇腹をへこませていた。水が足りていなかった。飼い葉を食んだのが遅すぎた。


「今日は昨日のようには走れない」


 秦牧之は言った。


「三日目の試しは止めた方がよい。——止めぬなら、馬を何頭か潰すことになる」


 三日目の試しは昼まで延ばされた。


 昼に走った丁の砲の隊は柵の横に着いた。着いて撃った。けれど、畳んでまた走る段で、二門の車の馬が足を止めた。


  ◇


 三日の試しが終わった日の夕刻、牧監の庁舎の一室で、董元礼は枢密院の文を読み上げた。


 楊崇武の名の文だった。この三日の試しを、試しの前にどう書くかを決めていた文だった。——三日の試しの何が起きても、この一行は変えぬ、と楊崇武は言ったという。


「馬に乗る砲は、独りで敵を破る兵に非ず」


 董元礼は読んだ。


「動く兵について走り、要るところに短い間だけ火を集むる兵なり。——ゆえに、馬に乗る砲の隊は、砲と砲の兵と弾の車と替えの馬と飼い葉と水と直す者とを、一つの隊として動かす。いずれか一つが遅るれば、隊は撃てず。いずれか一つが尽くれば、隊は次の日、走れず」


 董元礼は文を下ろした。


「枢密使はそれをこの試しで確かめよ、と言われた」


「確かめました」


 克魯澤が言った。


「一日目に弾の車が遅れた。二日目の夜に飼い葉と水とが遅れた。——砲はどちらの日も遅れていなかった」


 秦牧之が口を開いた。


「四年前、庁舎の前のあの土の上で私は言うた。馬に乗る砲の速さは戦の野で決まるのではない。その後ろの飼い葉と、水と、替えの馬とが、どこにどれだけ置いてあるかで決まる。——地図が要る、と」


 秦牧之は窓の外の井戸を見た。


「今日、その地図に井戸の一刻に汲める石の数を書き足さねばならぬと分かった。井戸があるだけでは足りぬ。汲める速さが要る」


「それともう一つ」


 克魯澤が言った。


「馬に乗る砲は、どこでも使える砲ではありません」


 克魯澤は四年前と同じことを言った。


「平らな野と草の原。——森では撃てない。山では上がれない。泥の沼では弾の車が沈む。橋のない川は渡れない。そういうところでは、歩く兵と一緒に動く丙の砲の方がよい。どちらの砲をどこへ出すか。それを戦の前に決めておいてください」


 董元礼は頷いた。


「それと砲の隊の長にどこまで決めさせるか」


 董元礼は言った。


「四年前、克魯澤どのは、どこへ走り、いつ撃つかは砲の隊の長が自分の目で見て決める、と言われた。——枢密院はこの三日の試しに限り、それを許した」


 董元礼は鮑順の方を見た。


「二日目、柵の北へ走り直したのは誰が決めた」


「私です」


 鮑順が言った。


「慕容指揮使の騎兵が北へ回ったのが見えました。騎兵の横に火が要る、と思いました。——枢密院の文を待っていたら、間に合いませんでした」


 董元礼はしばらく鮑順を見ていた。


「この試しの外でそれをどこまで許すかは、まだ決まっておらぬ」


 董元礼は言った。


「決まっておらぬことを、今日帳面に書いておく。——鮑順が自分の目で決めて間に合った、と」


  ◇


 日が暮れてから、修平は牧監の庁舎の前の小高い土の上に立っていた。


 四年前、同じ土の上に克魯澤と、秦牧之と、董元礼と並んで立った。克魯澤は草地の向こうの遠い丘を指して、あの丘の向こうが山なら、森なら、と言った。


 今日、草地には丁の砲が四門並んでいた。その後ろに弾の車が八台。飼い葉の車。水を運ぶ樽の車。直す者の工具の車。馬が百頭と少し。


 四年前は、古い火筒が一門と、箱の車が一台と、馬が四頭だった。


 修平の隣に狄承武が来た。試しの営の都を三日の試しに出していた。


「銃が揃った」


 狄承武は言った。


「歩く兵と同じ速さの砲が揃った。馬の兵と同じ速さの砲が揃った。——火の側の道具は揃った」


「はい」


「揃った道具をどう一つの軍に組むか」


 狄承武は草地を見ていた。


「銃を持つ都と、縦の列の都と、丙の砲と、丁の砲と、騎兵と、弾の車と、飼い葉の車と、井戸と。——この三日、それを誰が束ねていた」


「董元礼どのと、克魯澤どのと、秦牧之どのと、狄統制と、慕容指揮使と」


 修平は言った。


「五人が見張りの台の上と下とで」


「五人で束ねた」


 狄承武は言った。


「戦の野では、五人は同じ台の上にはいない」


 修平は何も言わなかった。


 四年前、牧監の庁舎の一室で克魯澤は、三つの役所の印が揃うまで十日と言われて、紙の上なら十日待てる、戦の時に十日は待てない、と言った。


 今日、砲は揃っていた。


 砲を誰が束ねるのかは、まだ揃っていなかった。


 草地の端で牧監の者が井戸の釣瓶をまだ上げ下ろししていた。その音が暗い草地の上を小さく渡ってきた。

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