↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
113/440

第八巻 軍産業 第六回 砲身の壁

 大きな壺が傾いた。


 四人の男が把手をゆっくりと回していた。滏水の岸の磁州の鋼の場の一番奥の炉の前だった。壺の口から白く光る鋼が、細い滝になって落ちていった。落ちた先に鉄の型が口を開けて立っていた。人の背丈より高い型だった。


 型の中の鋼がせり上がってきた。型の縁の少し下で、霍長庚が手を上げた。


 壺が止まった。


 型の口の上で鋼の面がぶくぶくと泡を吹いていた。泡はしばらく吹き続けて、それから少しずつ静かになった。


「頭を切ります」


 霍長庚が言った。


 型の脇に立っていた克魯澤が霍長庚を見た。


「頭」


「上から三つに一つ」


 霍長庚は型の口を指した。


「鋼は冷えるとき、下から固まります。悪いものはまだ溶けている方へ、上へ上へと逃げる。気も上へ逃げる。——最後に固まる頭に、悪いものが全部集まる。そこは筒には使えません」


 克魯澤は型を見上げた。


「三千斤を注いで、二千斤」


「二千斤の塊を鎚で打って、延ばして、削って」


 杜布林が言った。


「砲の筒になるのは、七百斤か八百斤」


 克魯澤は黙って頷いた。


 修平は炉の熱の届かぬ建屋の戸口でそれを聞いていた。


 三千斤の鋼から八百斤の筒。——残りの二千斤あまりは、頭と削り屑と試しの切れ端とになる。頭はまた壺に戻せる。削り屑も戻せる。けれど壺を一度焚くたびに、石炭と人と時とが要る。


 砲の筒一本の値の大きな部分は、筒にならなかった鋼の値だった。


  ◇


 秋の半ばだった。


 鶴壁から衛州の港まで、鉄の道の最初の区間が冬の初めに開く、と決まっていた。鋼の場の壺の多くは道の棒に注がれていた。——砲の筒の分の鋼は、洪克勤と曹允恭とが春に工部の書庫で、賀通遠と卓を挟んでようやく取り付けた分だった。


 克魯澤の野戦砲試製班が置かれてから、三年が経っていた。


 この三年の間に、試製班は銅の砲を二門鋳た。軍器監の鋳る腕で。克魯澤は揃うまでは、よい銅で試す、と言った。その試しの二門だった。


 銅の二門は撃てた。


 撃てたけれど、重かった。薄く鋳れば三十発で口が膨らんだ。膨らまぬように厚く鋳れば、馬が八頭要った。


「銅の砲はよいことを教えてくれました」


 克魯澤は言った。


「重さと強さの釣り合いは、紙の上では決まらない。——撃って、引いて、確かめるほかない。鋼でも同じです。鋼の方が、よい釣り合いに届く。けれど届くまでに何度も外します」


  ◇


 鋼の筒は冬の初めに二本、試しの場へ運ばれた。


 甲と乙。


 甲は筒が千斤あった。壁の厚い重い筒だった。乙は筒が五百斤。壁の薄い軽い筒だった。


「わざと両方の端を作りました」


 克魯澤は言った。


「重すぎる筒と軽すぎる筒。——真ん中はその間のどこかにある」


 甲は裂けなかった。


 込める火薬の一倍半で三度撃った。裂けなかった。二百発を撃った。筒の内に傷一つなかった。


 甲は動かなかった。


 試しの場から黄河の堤へ登る坂の道。雨の翌日だった。甲の砲と砲の台と車輪とを、馬六頭で引かせた。坂の半ばで馬の蹄が泥に滑った。車輪が泥に沈んだ。兵が十人、車輪に取り付いて押した。それでも上がらなかった。馬を八頭にした。八頭と十人とで、ようやく堤の上に出た。


 秦牧之が坂の下でそれを黙って見ていた。


「八頭か」


 秦牧之は言った。


「砲の車だけで八頭。弾の車にまた何頭。替えの馬。——四門の隊で、馬が七十頭を越える」


 乙は軽かった。


 同じ坂を四頭で上がった。


 乙は一倍半の火薬の試しを越えた。百発を撃った。何も起きなかった。


 百二十発目の後、樊守正の房の者が筒の尻に近いところに墨を塗った。墨を布で拭った。拭った後に、髪の毛ほどの細い黒い線が一本残った。


「割れの始まりです」


 樊守正は言った。


「墨が割れの中に入りこんで、拭っても残る。——外から見ても分からない。撃ち続ければ、いつかここから裂けます」


 克魯澤はその黒い線を長いこと見ていた。


「乙はここで終わりです」


 克魯澤は言った。


「軽くて引ける。——けれど百二十発で割れる筒は、戦では持ちません。一つの戦で一門が三百発、四百発を撃ちます」


  ◇


 乙の筒は試しの場の小屋に運び込まれた。


 杜布林が筒を輪切りにさせた。割れの走っていた尻の近くを。


 輪切りにした断面を、杜布林は鑢で磨き、薄い酸で洗った。酸に洗われた鋼の面に筋が浮かび上がった。


「鋼の目です」


 杜布林は言った。


「打って延ばした向きに、鋼の目が流れる。——この筒は、目が筒の長さの向きに揃っていない。途中で捩れている」


 杜布林は断面の別のところを指した。


「それと、ここ。壁の厚さが違う」


 修平は断面を覗き込んだ。


 筒の内の丸い穴が、筒の外の丸の真ん中になかった。わずかに片側に寄っていた。寄った側の壁が薄かった。薄い側に割れが走っていた。


「穴が真ん中から外れている」


 韋金森が言った。


 韋金森は断面の前でしばらく動かなかった。


「銃の筒と同じことが起きています。——長い筒の奥の方で、刃の棒が撓んだ」


 砲の筒を穿つ台は、工部の工房の母の機械の建屋の一番奥にあった。銃の筒の台と同じように、筒の方を回し、刃を送り込む。けれど砲の筒は長さが六尺あった。刃の棒は六尺伸びた。


「六尺の棒は自分の重さで撓みます」


 韋金森は言った。


「撓んだ棒の刃の先は下へ垂れる。筒を回しているから、穴はまっすぐにはなる。——けれど垂れた刃が削った穴の真ん中は、筒の真ん中から少し外れる」


「どうしますか」


「棒を支えます」


 韋金森は言った。


「刃のすぐ後ろに、筒の内に当たる支えの輪を付ける。支えの輪は、今削ったばかりの穴の壁に当たりながら、刃と一緒に進む。——自分の削った穴を、次の一寸を削る支えにする」


 韋金森はそれから台の骨組みを指で叩いた。


「それと、台そのものが柔すぎる。刃が固い鋼に食い込むとき、台の骨組みがわずかに逃げる。——骨組みを鋳物の太いものに替えます。送りのねじも、親のねじからもう一本写し直す」


 修平は韋金森の横顔を見ていた。


 銃の筒を削るために作った台が、砲の筒を削るには足りなかった。砲の筒を削れる台を作るには、台そのものを作り直さねばならなかった。台を作り直すには、親のねじをまた写さねばならなかった。


 砲一門が工作の機械を一段押し上げていた。


  ◇


 筒の検めが決まったのは、冬の半ばだった。


 樊守正の房の砲の筒の検めの紙には、五つの段が書かれた。


 一。鋼の塊の頭を切った後の切り口から、輪を一つ切り取り、杜布林の房で引く力と曲げる力とを試す。線を越えぬ塊は筒にしない。


 二。穿って削った筒の内の径と壁の厚さとを、筒の長さに沿って十か所で測る。壁の厚さの一番厚いところと一番薄いところの差が、線を越えれば、否。


 三。込める火薬の一倍半で三度撃つ。台に締め、人は塁の陰から紐で。


 四。撃った後、筒の内と外とに墨を塗って拭う。黒い線が一本でも残れば、否。


 五。以上を越えた筒の尻に番号を刻む。


 番号を刻んだ筒には一冊ずつ帳面が付いた。


「砲の身の上の帳面です」


 樊守正は言った。


 帳面の頭に筒の番号。どこの鋼の場の、どの壺の、どの日の塊か。引く力と曲げる力の試しの数。十か所の壁の厚さ。一倍半の試しの日。——その下に、白い欄がずっと続いていた。


「撃った数を書きます」


 樊守正は言った。


「どこの軍へ渡っても、撃った数をこの帳面に書き足す。直したら、直したことを。何百発撃てば、筒の内がどれだけ減るか。——いずれ、この帳面から筒の寿命が分かります」


「筒にも寿命があるのですね」


 修平は言った。


「あります」


 樊守正は言った。


「外から見て、よい筒でも。撃った数が、ある線を越えれば、中で割れが育っているかもしれない。——乙の筒は百二十発で、割れの始まりが出た。外からは何も見えなかった」


 樊守正は帳面を閉じた。


「名工が筒を撫でて、まだ撃てる、と言うのをやめます。帳面の数が、まだ撃てる、と言うまで撃たない」


  ◇


 筒の検めが決まっても、砲はまだ砲ではなかった。


 克魯澤が三年前に試しの場の小屋の壁に貼った絵を、修平は覚えていた。砲は筒ではありません。この絵の全部が砲です。


 台。車輪。軸。


 車輪と軸は、衛州の車を直す工場で作らせた。鉄の道の車の軸と車輪とを直している工場だった。この夏、開封で作った軸と磁州で作った軸の受けとが合わなかった、あの工場だった。今は全ての軸と軸の受けとが、一の等の尺から写した番号の付いた物差しで測られていた。


 台の木は軍器監の木の倉から出した。


 冬の終わりに試しの場で、甲と乙との間の筒を載せた砲を百里引いた。


 開封の北から陳橋へ。陳橋から黄河の岸へ。岸から戻る。雪の解けかけた泥の道。凍った轍の残る道。汴河の古い石の橋。


 百里の間に、車輪の輪金が二つ外れた。軸の受けの油が泥と混ざって、黒い練り物になった。


 試しの場に戻った次の朝、据えて撃った。


 三発目で台の尾が割れた。


 尾は、撃ったとき砲の跳ねを地面に逃がす長い木の棒だった。その尾が真ん中から縦に割れていた。


 砲の周りにいた兵が四人。一人が割れた尾の木片で脛を打った。骨は折れていなかった。


  ◇


 その日の午後、試しの場の小屋に人が集まった。


 克魯澤。秦牧之。韋金森。衛州の工場から来た車の職人の頭。軍器監の木の倉の吏。樊守正。砲を撃っていた四人の兵の長。


 兵の長は顔色を失っていた。


「据え方を誤ったか」


 木の倉の吏が言った。


「据えた地面が凍って固かった。固い地面に尾を据えれば、跳ねが逃げぬ」


 兵の長が唇を噛んだ。


「待ってください」


 克魯澤が言った。


「今日は、誰が悪かったかを決める日ではありません。——何が悪かったかを決める日です」


 克魯澤は割れた尾を卓の上に置いた。


「地面が固かった。それは本当です。でも、戦の野はいつも柔らかくはありません。冬の北の野は凍っています。——凍った野で三発で割れる尾は、兵が悪いのではない」


 克魯澤は樊守正を見た。


「札を読んでください」


 樊守正が尾の木の札を読んだ。楡の木。軍器監の木の倉に入った年。


「……この秋です」


 樊守正は言った。


「倉に入ってから半年も経っていない」


 木の倉の吏が黙った。


「乾いていない木」


 車の職人の頭が言った。


「生の楡は、粘りはあります。けれど乾いていくうちに、中で縮む。縮んだところに、目に見えぬ割れが入る」


 秦牧之が割れの断面を指でなぞった。


「それに、百里引いた。泥の道と凍った轍とで、尾は百里の間、叩かれ続けた」


 修平は紙を一枚取り、五つの見出しを横に並べて書いた。


 木。据えた地面。百里の道。撃った角度。込めた火薬。


 一つずつ印を付けていった。


 込めた火薬は許す幅の内だった。撃った角度は試しの紙のとおりだった。


 残った印は三つだった。乾いていない木。凍った地面。百里の道。


「どれか一つなら、割れなかったかもしれない」


 修平は言った。


「三つが重なった。——兵の長が据え方を誤ったのではありません。据え方の紙に、凍った地面のことが書いていなかった」


 兵の長が顔を上げた。


 克魯澤が頷いた。


「尾の木は、倉で三年乾かしたものだけにする。尾に鉄の帯を巻く。——据え方の紙に、凍った地面での据え方を足す。百里引いた後は、尾と輪金と軸の受けとを検めてから撃つ」


 克魯澤は兵の長の方を向いた。


「それから今日のことを帳面に書いてください。あなたの名で。——何が起きて、何が悪かったか。次に、同じ尾を据える兵のために」


 兵の長はしばらく黙っていた。


 それから深く頭を下げた。


 脛を打った兵は、小屋の外の筵の上に座っていた。脛に布を巻いていた。修平が小屋を出たとき、その兵は割れた尾の木片を手の中で転がしていた。


  ◇


 春の初め、克魯澤は試しの場の小屋の壁に新しい紙を貼った。


 四年前、同じ小屋の壁に、四つの箇条と五つの字とを貼った。


 運べること。すぐ撃てること。同じ弾を何度も。歩く兵と同じ速さで。——威。重。堅。牽。速。


 新しい紙には、三つの砲の数が並んでいた。甲。乙。そして、丙。


 丙の筒は七百斤だった。甲より三百斤軽い。乙より二百斤重い。


 紙には、筒の重さと撃てる弾の重さと届く遠さとが並んでいた。——それだけではなかった。


 馬、何頭で引けるか。泥の坂を上がれるか。据えるまでに香篆のどれだけ。畳むまでにどれだけ。台の前の弾を積む小さな車に、何発積めるか。百里引いた後に撃てるか。


「一番遠くへ飛ぶ砲を選ぶのではありません」


 克魯澤は言った。


 小屋には董元礼が来ていた。秦牧之も。


「甲は一番遠くへ飛びます。一番壊れにくい。——でも、坂を上がれない。上がれない砲は戦の野に着かない」


 克魯澤は丙の欄を指した。


「丙は甲より少し近い。けれど六頭で泥の坂を上がる。据えるのが甲より速い。前の車に三十発積める。百里引いて、そのまま撃てた。——三百発撃って、墨の線は出ませんでした」


 董元礼が紙を見ていた。


「一日に何度、場所を変えて何発を撃ち続けられるか、か」


「はい」


 克魯澤は頷いた。


「砲の強さは、一発の強さではありません。戦の野で何度動いて、何発撃ち続けられるか。——その数で見てください」


 秦牧之が紙の馬の欄を指でなぞった。


「六頭なら、四門の隊で砲の車に二十四頭。弾の車と替えの馬とを足して——」


 秦牧之は珠を弾いた。


「五十頭と少し。甲なら七十頭を越えていた」


  ◇


 日が傾いてから、修平は試しの場の真ん中に据えられた丙の砲の脇に立っていた。


 筒の尻に番号が刻まれていた。その横に、砲の身の上の帳面が紐で括り付けられていた。


 修平は帳面を開いてみた。


 撃った数の欄に、この春の三百発が日ごとに書き込まれていた。一番下の行に、樊守正の字でこうあった。


 ——墨の線、なし。


 克魯澤が隣に来た。


「撃てる砲になりました」


 克魯澤は言った。


「まだ軍の砲ではありません」


「何が足りませんか」


「弾です」


 克魯澤は筒の口を手のひらで叩いた。


「今日、この砲が撃った弾は、軍器監の作坊でこの砲のために作ったもの。火薬の袋も、この砲のために量ったもの。目当ての器も、この砲のために合わせたもの。——十門作ったら。十門が、どこの作坊のどの弾でも同じに撃てるか」


 克魯澤は丙の砲の黒い筒を見上げた。


「一門の砲では戦はできません。十門、百門が同じ弾を同じように撃てて、初めて軍の砲です」


 試しの場の向こうで、黄河の堤が夕日に赤く染まっていた。


 甲の砲が堤の上に据えられたままになっていた。八頭と十人とでようやく引き上げた砲だった。誰もまだ下ろしに行っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。