第八巻 軍産業 第二回 天機一号の弱点
「冬の暮れからひと月あまり」
枢密使の楊崇武が言った。
「枢密院と大名府との間で、天機の機械を通した文を百二十通、送り受けました。戻らなかった文は二通。——二通とも機械ではなく、人の誤りです。その日のうちに送り直して、戻りました」
殿の中に低いざわめきが広がった。
春の初めの御前廷議だった。殿の外の庭の梅がほころび始めていた。
「百二十通のうち、何通が秘すべき文だった」
皇帝の趙祺が問うた。
「四十通あまり」
楊崇武は答えた。
「北の軍鎮の兵の数。糧の蓄え。馬の病。——これまで騎馬の使いで二日かけて運んでいた文です。それが、その日のうちに」
趙祺は頷いた。
殿の脇に楠の箱が一つ置かれていた。枢密院の局から運ばれてきた機械だった。箱の蓋に焼き印で番号が押されていた。
「蘇玄機。艾琳・哈特。——よく作った」
趙祺は言った。
蘇玄機が白い頭を深く下げた。
哈特は頭を下げなかった。
一歩前へ出た。
「陛下。一つ、申し上げたいことがございます」
殿の中が静まった。
「天機一号はできました。——できたからこそ、今が一番危ういのです」
◇
修平は殿の末席で哈特の背中を見ていた。
廷議の前の晩、哈特は修平の詰所に来た。明日の廷議で機械の弱いところを申し上げます。林詳定は、使う側として聞いていてください。使う側がどこまでの不便を飲めるか。それを確かめたい。
哈特は殿の中を見渡した。
「私の世に、ある国がありました」
哈特は言った。
「その国の軍は、歯車を重ねた暗号の機械を使っておりました。天機一号とよく似た機械です。——いえ、天機一号がその機械に似ているのです。私が蘇玄機どのにその形をお話ししましたから」
「その機械は強かったのか」
趙祺が問うた。
「強かった」
哈特は言った。
「鍵の組み合わせの数は、国中の砂の数ほどもありました。読む側が一つずつ鍵を試していけば、何百年かかっても試しきれない。——その国の将は、この機械の文は誰にも読めぬ、と信じておりました」
哈特は少し間を置いた。
「私は、その機械の文を読む側の机の一つに座っておりました」
殿の中の誰も声を出さなかった。
「読めたのか」
「読めました。——全部ではありません。けれど、戦の終わりの頃にはその国の軍の文の多くを、その日のうちに読んでおりました」
◇
「どうやって読んだ」
楊崇武が問うた。
「機械の癖からです」
哈特は殿の脇の楠の箱の方へ歩いた。
「蘇玄機どの。蓋を開けていただけますか」
蘇玄機が箱の蓋を開けた。十の鍵。三枚の歯車。奥の形の違う一枚。十本の槌。
「奥の一枚は折り返しの歯車です」
哈特は言った。
「三枚を抜けた力を、ここで折り返し、もう一度三枚をくぐらせる。——そうすれば、送る側と受ける側とが同じ機械で同じ鍵のまま使える。便利です。私の世のあの国の機械もそうでした」
哈特は手前の鍵の四を押した。
槌が跳ね、紙の帯に数字が打たれた。七。
四をもう一度押した。歯車がひと刻み回っていた。二。
また、四。九。
また、四。〇。
哈特は四を二十回押した。紙の帯に二十の数字が並んだ。
「陛下。この二十の数字の中に、四はございますか」
趙祺は身を乗り出して紙の帯を見た。
「……ない」
「千回押しても、ございません」
哈特は言った。
「折り返しの歯車がある限り。——入れた数と同じ数は、決して出ない。四を入れて、四が出ることはない。送る側と受ける側を同じにするための折り返しが、そういう癖を生みます」
「それが、なぜ弱い」
呉承烈が言った。
「一つの数が出ぬ、というだけではないか。十のうち、九が出る」
「兵部尚書。読む側はこう考えます」
哈特は呉承烈に向き直った。
「この文の頭には、きっと決まった言葉がある。——毎朝、大名府から同じ刻に、天気と線の具合を送ってくる。その文の頭は、きっと『本日、辰の刻』の電碼だろう。読む側は、その電碼を紙の上の数の列のあちこちに当ててみます。当てた場所で、電碼の数と列の数とが一つでも同じなら——」
「そこではない」
修平が思わず言った。
哈特は修平を見た。
「はい。同じ数が出ぬ機械なら、そこは違う。——そうやって当てられぬ場所を消していく。残った場所に当てた言葉がある。あると分かれば、言葉と数の列とを並べて、その日の鍵を割り出せる」
哈特は紙の帯を卓の上に置いた。
「読む側は、鍵を割り出すための機械まで作りました。人の手なら何年もかかる鍵の試しを、機械にひと晩でさせた。——けれど、その機械も手がかりがなければ、回りませんでした。手がかりは、機械の癖と人の癖とがくれたのです」
◇
「では、どうする」
趙祺が言った。
「折り返しの歯車を外すのか」
「外せば、送る側と受ける側とで機械の向きを切り替えねばなりません」
韋金森が殿の後ろから進み出た。
「切り替えを誤る者が出ます。——夜の寒い局で、切り替えの摘まみを送る向きのまま、受けた文を打つ。摘まみがあれば、大名府の四十通のうち、戻らぬ文は十一通では済まなかったでしょう」
韋金森は蘇玄機を見た。蘇玄機が頷いて、懐から小さな木の模型を出した。
「折り返しは残す」
蘇玄機は言った。
「その代わり、折り返しの歯車の中に抜け道を作る」
「抜け道」
「十の点のうち、一対だけ折り返さずに、来た道をそのまま戻らせる。戻った力は、入れた数と同じ槌を叩く。——四を入れて、四が出ることがある」
蘇玄機は模型の歯車の縁の小さな摘まみを指で回した。
「どの一対を抜け道にするかは、その日の鍵の票に書く。歯車がひと巡りするごとに、抜け道の位置もずれる。——読む側は、そこではない、ともう言えない」
哈特が言った。
「読む側の一番の手がかりが一つ消えます」
楊崇武が長く息を吐いた。
「一つ、か」
「一つです」
哈特は言った。
「機械の癖は、それで一つ消える。——けれど、陛下。あの国の機械が読まれた理由の半分は、人の方でした」
◇
哈特は紙を一枚出した。
廷議の前の晩、修平の詰所で哈特が書いていた紙だった。
「鍵の票は毎日替えております。これは続けます」
哈特は一行目を指した。
「その上で、軍鎮ごとに票を分けます。大名府の票と、いずれ線が届く真定府の票とは、別のもの。一つの票が漏れても、漏れるのは一つの軍鎮の文だけ」
二行目。
「票は二枚しか作らない。写さない。写しを取った者は罰する。使い終えた行は、その日のうちに鍵の保管の官が切り取って焼く」
三行目。
「票を失くしたとき。盗まれたとき。盗まれたかもしれぬとき。——その局は、すぐに決めてある一つの言葉を送る。その言葉を受けたら、全ての局はその票を使わない。封をして、別の場所にしまってある替えの票に、その日のうちに切り替える」
四行目。
「決まった言葉を決まった形で送らない。『異状なし』を毎日同じ字で送らない。文の頭の書き方をいくつも持ち、どれを使うかも票に書く」
五行目。
「文の頭と文の中に、意味のない数の組を混ぜる。混ぜる数と混ぜる場所は、機械の手がその都度、賽を振って決める。——読む側がここに決まった言葉がある、と当てにくくするために」
「賽を振るのか」
張文謹が言った。七十になった右丞相の声は、少し嗄れていた。
「振ります」
哈特は言った。
「人に好きな数を選ばせると、人は選び方に癖を持ちます。恋人の名の頭。自分の生まれた日。——賽には癖がございません」
張文謹は小さく笑った。
「賽の方が人より信じられるか」
「この話に、限っては」
◇
修平は手を上げた。
「使う側として、一つ確かめたいことがあります」
哈特が修平を見た。
「今の決まりを全部守ると。——一通の文を送るのに、どれだけ時が延びますか」
殿の中の目が修平に集まった。
「大名府から今、一通の文を送るのに、字を電碼に直して機械に通して、打って受けて、機械で戻して字に直すまで、半刻あまり。意味のない数を混ぜ、頭の書き方を選び、二人で読み合わせれば、もう少し延びる」
「延びます」
哈特は言った。
「半刻が、半刻と少しに」
「延びた分で文が読まれずに済むなら」
修平は言った。
「使う側は飲めます。——けれど延びすぎれば、使う側は機械を通さずに送りたくなる。急いでいるときほど。大名府の冉三郎どのが、急いでいるときに票を読み違えたように」
修平は少し言葉を選んだ。
「決まりが重すぎれば、決まりを破る者が出ます。破る者が出るような重さかどうかを、半年ごとに局の者に訊いてください。——使う側が飲める重さで止めてください」
哈特はしばらく修平を見ていた。
「……それを言っていただきたかったのです」
哈特は言った。
「私の世のあの国の軍で、機械を通さずにそのままの字で送った者は、怠け者ではありませんでした。急いでいた者です」
◇
「もう一つ」
哈特は紙の最後の行を指した。
「読まずとも、分かることがございます」
楊崇武が目を上げた。
四年前の春、楊崇武自身が陳橋の線の帳面の上で言ったことだった。この日と、この日。文が他の日の三倍、流れている。
「大名府から急に文が増えれば、大名府で何かが動いている。夜に文が増えれば、夜に何かが動いている。——軍鎮が兵を出す前には、必ず文が増えます」
「ならば、文を減らすのか」
「要らぬ文は減らします」
哈特は言った。
「そして、要らぬ文を送ります」
殿の中が少しざわめいた。
「毎日同じくらいの数の文を送る。何もない日には、意味のない文で埋める。——文が増えても減っても、読む側に何も分からぬように」
呉承烈が低く唸った。
「線の上を、空の文が走るか」
「空の文も機械を通します」
哈特は言った。
「空の文と本当の文とが見分けられぬように」
「最後に」
哈特は紙を下ろした。
「機械が奪われたとき」
殿の中がしんとした。
「陣が落ち、局が落ち、機械が票ごと敵の手に渡る。——そのときは、票を替えるだけでは足りません。機械そのものが読む側の手にあるのですから」
「どうする」
「歯車の中の十本の銅の線の繋ぎ方を替えます」
蘇玄機が言った。
「繋ぎ方の違う替えの歯車の組を、国にもう一揃い作っておく。枢密院と、どこか別の場所にしまう。——機械が奪われたと報せが来たら、全ての局がその日のうちに替えの組に差し替える」
「全ての局がその日のうちに」
楊崇武が繰り返した。
「その日のうちに、替えの組が全ての局に届いているのか」
哈特は首を振った。
「今は届いておりません。——ですから替えの組を局ごとに封をして、先に置いておきます。開けてよい、という言葉を受けたときだけ開ける」
楊崇武はしばらく黙っていた。
「機械が一台奪われれば、国中の機械の腹の中を替えるのか」
「はい」
哈特は言った。
「読まれた文は戻りません。——四年前の春にも、そう申し上げました」
◇
廷議の終わりに趙祺が言った。
「哈特」
「はい」
「朕は今日、天機一号を褒めるつもりで、この席を設けた」
殿の中に小さな笑いが起きかけて、止まった。
「褒めるのはやめぬ」
趙祺は言った。
「だが、今日分かった。——この機械の強さは、機械の中にはない。鍵を作る者と、運ぶ者と、しまう者と、打つ者と、焼く者と、賽を振る者と。その全部のどこか一つが崩れれば、崩れる」
「はい」
「ならば、その全部を枢密院で見よ」
趙祺は楊崇武を見た。
「読む側の目で見よ。——自分の文を敵のつもりで読んでみる者を置け」
楊崇武が深く頭を下げた。
◇
枢密院の奥にその房が置かれたのは、春の半ばだった。
房の長は哈特だった。房の者は三人。枢密院の吏から二人。一人は晁子明という、二十八のよく喋る男だった。もう一人は、無口な、四十がらみの元の字験の係。それに、兵部の駅の房から田守信が若い吏を一人出した。
房の名は董元礼が付けた。
敵の目の房。
房の者たちは十日の間、枢密院の線を読んだ。読んだ、と言っても、中身は読まなかった。天機の機械を通った数の列は、房の者には戻せなかった。票を持っていなかったからだ。
読んだのは、中身の外だった。
十日目の夕刻、修平はその房に呼ばれた。
房の壁に大きな紙が一枚貼られていた。
横に、十日。縦に、局の名。開封の枢密院の局、陳橋、黄河の南の岸、北の岸、大名府。——一つずつの升に、その日、その局から何通の文が出たかの数が書き込まれていた。朝と昼と夜とに分けて。
送り直しの数も書き込まれていた。文の頭の呼び名の印も。
「大名府の七日目」
晁子明が升を指した。
「夜の文がいつもの三倍。送り直しも四倍。——呼び名の印に、これまで見なかった印が一つ増えている」
晁子明は楊崇武の方を見た。楊崇武は壁の前の椅子に座っていた。
「大名府で七日目の夜に、兵が動きました。——一つの指揮か、二つ。新しい隊の長が線を使い始めた」
楊崇武は何も言わなかった。
董元礼が低い声で言った。
「七日目の夜、大名府の軍鎮で夜の出陣の稽古があった。二つの指揮。——稽古のことは、枢密院の作戦の房の三人しか知らなかった」
房の中が静まった。
「もう一つあります」
無口な元の字験の係が、初めて口を開いた。
「開封の枢密院の局。——四日目から六日目まで、局から出る文の最後の印の形が違う」
「最後の印」
「文の尻の、送った者の印です。枢密使が目を通された文には、いつも同じ形の印が付く。四日目から六日目までは、別の印でした」
元の字験の係は楊崇武を見た。
「枢密使は、その三日、院に出ておられなかった」
楊崇武は長いこと黙っていた。
楊崇武の頬がわずかに強張った。
その三日、枢密使が風邪で屋敷に伏していたことを、修平は後になって董元礼から聞いた。知っていたのは、枢密院の中でもほんの数人だった、と。
「……中身を一字も読まずにか」
「一字も」
哈特が言った。
「私たちは票を持っておりません。持たないようにしてあります。——それでも、これだけ分かります」
◇
日が暮れてから、修平は房の外の廊下で、哈特と並んで立っていた。
「機械の中身は守れました」
哈特が言った。
「中身の外は、まだ守れていない」
「空の文を流すのですね」
「流します。頭の印も、送った者の印も替えます。送り直しを減らす稽古もさせます」
哈特は廊下の窓の外を見た。
「けれど、あの房は畳みません。——私たちが空の文を流せば、あの房は、空の文の流し方の癖を見つけるでしょう。見つけたら、また直す。直したら、また見つける」
「終わりがない」
「ございません」
哈特は言った。
「私たちの文を一番よく読むのは、私たちであるべきです。——敵より先に」
修平は壁の紙を思い出していた。十日の升の数。朝と昼と夜。送り直しの数。印の形。
九年前、西の遠征の報せは、四月かかって開封に届いた。その四月の間に、何が誰に読まれていたのか。誰も数えてはいなかった。
今は数えていた。
自分たちの線を。敵の目で。
廊下の先で房の戸が開いた。晁子明が新しい紙を抱えて出てきた。
「哈特どの。十一日目の升を足します」
哈特は頷いて、房の中へ戻っていった。




