↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
109/440

第八巻 軍産業 第二回 天機一号の弱点

「冬の暮れからひと月あまり」


 枢密使の楊崇武が言った。


「枢密院と大名府との間で、天機の機械を通した文を百二十通、送り受けました。戻らなかった文は二通。——二通とも機械ではなく、人の誤りです。その日のうちに送り直して、戻りました」


 殿の中に低いざわめきが広がった。


 春の初めの御前廷議だった。殿の外の庭の梅がほころび始めていた。


「百二十通のうち、何通が秘すべき文だった」


 皇帝の趙祺が問うた。


「四十通あまり」


 楊崇武は答えた。


「北の軍鎮の兵の数。糧の蓄え。馬の病。——これまで騎馬の使いで二日かけて運んでいた文です。それが、その日のうちに」


 趙祺は頷いた。


 殿の脇に楠の箱が一つ置かれていた。枢密院の局から運ばれてきた機械だった。箱の蓋に焼き印で番号が押されていた。


「蘇玄機。艾琳・哈特。——よく作った」


 趙祺は言った。


 蘇玄機が白い頭を深く下げた。


 哈特は頭を下げなかった。


 一歩前へ出た。


「陛下。一つ、申し上げたいことがございます」


 殿の中が静まった。


「天機一号はできました。——できたからこそ、今が一番危ういのです」


  ◇


 修平は殿の末席で哈特の背中を見ていた。


 廷議の前の晩、哈特は修平の詰所に来た。明日の廷議で機械の弱いところを申し上げます。林詳定は、使う側として聞いていてください。使う側がどこまでの不便を飲めるか。それを確かめたい。


 哈特は殿の中を見渡した。


「私の世に、ある国がありました」


 哈特は言った。


「その国の軍は、歯車を重ねた暗号の機械を使っておりました。天機一号とよく似た機械です。——いえ、天機一号がその機械に似ているのです。私が蘇玄機どのにその形をお話ししましたから」


「その機械は強かったのか」


 趙祺が問うた。


「強かった」


 哈特は言った。


「鍵の組み合わせの数は、国中の砂の数ほどもありました。読む側が一つずつ鍵を試していけば、何百年かかっても試しきれない。——その国の将は、この機械の文は誰にも読めぬ、と信じておりました」


 哈特は少し間を置いた。


「私は、その機械の文を読む側の机の一つに座っておりました」


 殿の中の誰も声を出さなかった。


「読めたのか」


「読めました。——全部ではありません。けれど、戦の終わりの頃にはその国の軍の文の多くを、その日のうちに読んでおりました」


  ◇


「どうやって読んだ」


 楊崇武が問うた。


「機械の癖からです」


 哈特は殿の脇の楠の箱の方へ歩いた。


「蘇玄機どの。蓋を開けていただけますか」


 蘇玄機が箱の蓋を開けた。十の鍵。三枚の歯車。奥の形の違う一枚。十本の槌。


「奥の一枚は折り返しの歯車です」


 哈特は言った。


「三枚を抜けた力を、ここで折り返し、もう一度三枚をくぐらせる。——そうすれば、送る側と受ける側とが同じ機械で同じ鍵のまま使える。便利です。私の世のあの国の機械もそうでした」


 哈特は手前の鍵の四を押した。


 槌が跳ね、紙の帯に数字が打たれた。七。


 四をもう一度押した。歯車がひと刻み回っていた。二。


 また、四。九。


 また、四。〇。


 哈特は四を二十回押した。紙の帯に二十の数字が並んだ。


「陛下。この二十の数字の中に、四はございますか」


 趙祺は身を乗り出して紙の帯を見た。


「……ない」


「千回押しても、ございません」


 哈特は言った。


「折り返しの歯車がある限り。——入れた数と同じ数は、決して出ない。四を入れて、四が出ることはない。送る側と受ける側を同じにするための折り返しが、そういう癖を生みます」


「それが、なぜ弱い」


 呉承烈が言った。


「一つの数が出ぬ、というだけではないか。十のうち、九が出る」


「兵部尚書。読む側はこう考えます」


 哈特は呉承烈に向き直った。


「この文の頭には、きっと決まった言葉がある。——毎朝、大名府から同じ刻に、天気と線の具合を送ってくる。その文の頭は、きっと『本日、辰の刻』の電碼だろう。読む側は、その電碼を紙の上の数の列のあちこちに当ててみます。当てた場所で、電碼の数と列の数とが一つでも同じなら——」


「そこではない」


 修平が思わず言った。


 哈特は修平を見た。


「はい。同じ数が出ぬ機械なら、そこは違う。——そうやって当てられぬ場所を消していく。残った場所に当てた言葉がある。あると分かれば、言葉と数の列とを並べて、その日の鍵を割り出せる」


 哈特は紙の帯を卓の上に置いた。


「読む側は、鍵を割り出すための機械まで作りました。人の手なら何年もかかる鍵の試しを、機械にひと晩でさせた。——けれど、その機械も手がかりがなければ、回りませんでした。手がかりは、機械の癖と人の癖とがくれたのです」


  ◇


「では、どうする」


 趙祺が言った。


「折り返しの歯車を外すのか」


「外せば、送る側と受ける側とで機械の向きを切り替えねばなりません」


 韋金森が殿の後ろから進み出た。


「切り替えを誤る者が出ます。——夜の寒い局で、切り替えの摘まみを送る向きのまま、受けた文を打つ。摘まみがあれば、大名府の四十通のうち、戻らぬ文は十一通では済まなかったでしょう」


 韋金森は蘇玄機を見た。蘇玄機が頷いて、懐から小さな木の模型を出した。


「折り返しは残す」


 蘇玄機は言った。


「その代わり、折り返しの歯車の中に抜け道を作る」


「抜け道」


「十の点のうち、一対だけ折り返さずに、来た道をそのまま戻らせる。戻った力は、入れた数と同じ槌を叩く。——四を入れて、四が出ることがある」


 蘇玄機は模型の歯車の縁の小さな摘まみを指で回した。


「どの一対を抜け道にするかは、その日の鍵の票に書く。歯車がひと巡りするごとに、抜け道の位置もずれる。——読む側は、そこではない、ともう言えない」


 哈特が言った。


「読む側の一番の手がかりが一つ消えます」


 楊崇武が長く息を吐いた。


「一つ、か」


「一つです」


 哈特は言った。


「機械の癖は、それで一つ消える。——けれど、陛下。あの国の機械が読まれた理由の半分は、人の方でした」


  ◇


 哈特は紙を一枚出した。


 廷議の前の晩、修平の詰所で哈特が書いていた紙だった。


「鍵の票は毎日替えております。これは続けます」


 哈特は一行目を指した。


「その上で、軍鎮ごとに票を分けます。大名府の票と、いずれ線が届く真定府の票とは、別のもの。一つの票が漏れても、漏れるのは一つの軍鎮の文だけ」


 二行目。


「票は二枚しか作らない。写さない。写しを取った者は罰する。使い終えた行は、その日のうちに鍵の保管の官が切り取って焼く」


 三行目。


「票を失くしたとき。盗まれたとき。盗まれたかもしれぬとき。——その局は、すぐに決めてある一つの言葉を送る。その言葉を受けたら、全ての局はその票を使わない。封をして、別の場所にしまってある替えの票に、その日のうちに切り替える」


 四行目。


「決まった言葉を決まった形で送らない。『異状なし』を毎日同じ字で送らない。文の頭の書き方をいくつも持ち、どれを使うかも票に書く」


 五行目。


「文の頭と文の中に、意味のない数の組を混ぜる。混ぜる数と混ぜる場所は、機械の手がその都度、賽を振って決める。——読む側がここに決まった言葉がある、と当てにくくするために」


「賽を振るのか」


 張文謹が言った。七十になった右丞相の声は、少し嗄れていた。


「振ります」


 哈特は言った。


「人に好きな数を選ばせると、人は選び方に癖を持ちます。恋人の名の頭。自分の生まれた日。——賽には癖がございません」


 張文謹は小さく笑った。


「賽の方が人より信じられるか」


「この話に、限っては」


  ◇


 修平は手を上げた。


「使う側として、一つ確かめたいことがあります」


 哈特が修平を見た。


「今の決まりを全部守ると。——一通の文を送るのに、どれだけ時が延びますか」


 殿の中の目が修平に集まった。


「大名府から今、一通の文を送るのに、字を電碼に直して機械に通して、打って受けて、機械で戻して字に直すまで、半刻あまり。意味のない数を混ぜ、頭の書き方を選び、二人で読み合わせれば、もう少し延びる」


「延びます」


 哈特は言った。


「半刻が、半刻と少しに」


「延びた分で文が読まれずに済むなら」


 修平は言った。


「使う側は飲めます。——けれど延びすぎれば、使う側は機械を通さずに送りたくなる。急いでいるときほど。大名府の冉三郎どのが、急いでいるときに票を読み違えたように」


 修平は少し言葉を選んだ。


「決まりが重すぎれば、決まりを破る者が出ます。破る者が出るような重さかどうかを、半年ごとに局の者に訊いてください。——使う側が飲める重さで止めてください」


 哈特はしばらく修平を見ていた。


「……それを言っていただきたかったのです」


 哈特は言った。


「私の世のあの国の軍で、機械を通さずにそのままの字で送った者は、怠け者ではありませんでした。急いでいた者です」


  ◇


「もう一つ」


 哈特は紙の最後の行を指した。


「読まずとも、分かることがございます」


 楊崇武が目を上げた。


 四年前の春、楊崇武自身が陳橋の線の帳面の上で言ったことだった。この日と、この日。文が他の日の三倍、流れている。


「大名府から急に文が増えれば、大名府で何かが動いている。夜に文が増えれば、夜に何かが動いている。——軍鎮が兵を出す前には、必ず文が増えます」


「ならば、文を減らすのか」


「要らぬ文は減らします」


 哈特は言った。


「そして、要らぬ文を送ります」


 殿の中が少しざわめいた。


「毎日同じくらいの数の文を送る。何もない日には、意味のない文で埋める。——文が増えても減っても、読む側に何も分からぬように」


 呉承烈が低く唸った。


「線の上を、空の文が走るか」


「空の文も機械を通します」


 哈特は言った。


「空の文と本当の文とが見分けられぬように」


「最後に」


 哈特は紙を下ろした。


「機械が奪われたとき」


 殿の中がしんとした。


「陣が落ち、局が落ち、機械が票ごと敵の手に渡る。——そのときは、票を替えるだけでは足りません。機械そのものが読む側の手にあるのですから」


「どうする」


「歯車の中の十本の銅の線の繋ぎ方を替えます」


 蘇玄機が言った。


「繋ぎ方の違う替えの歯車の組を、国にもう一揃い作っておく。枢密院と、どこか別の場所にしまう。——機械が奪われたと報せが来たら、全ての局がその日のうちに替えの組に差し替える」


「全ての局がその日のうちに」


 楊崇武が繰り返した。


「その日のうちに、替えの組が全ての局に届いているのか」


 哈特は首を振った。


「今は届いておりません。——ですから替えの組を局ごとに封をして、先に置いておきます。開けてよい、という言葉を受けたときだけ開ける」


 楊崇武はしばらく黙っていた。


「機械が一台奪われれば、国中の機械の腹の中を替えるのか」


「はい」


 哈特は言った。


「読まれた文は戻りません。——四年前の春にも、そう申し上げました」


  ◇


 廷議の終わりに趙祺が言った。


「哈特」


「はい」


「朕は今日、天機一号を褒めるつもりで、この席を設けた」


 殿の中に小さな笑いが起きかけて、止まった。


「褒めるのはやめぬ」


 趙祺は言った。


「だが、今日分かった。——この機械の強さは、機械の中にはない。鍵を作る者と、運ぶ者と、しまう者と、打つ者と、焼く者と、賽を振る者と。その全部のどこか一つが崩れれば、崩れる」


「はい」


「ならば、その全部を枢密院で見よ」


 趙祺は楊崇武を見た。


「読む側の目で見よ。——自分の文を敵のつもりで読んでみる者を置け」


 楊崇武が深く頭を下げた。


  ◇


 枢密院の奥にその房が置かれたのは、春の半ばだった。


 房の長は哈特だった。房の者は三人。枢密院の吏から二人。一人は晁子明という、二十八のよく喋る男だった。もう一人は、無口な、四十がらみの元の字験の係。それに、兵部の駅の房から田守信が若い吏を一人出した。


 房の名は董元礼が付けた。


 敵の目の房。


 房の者たちは十日の間、枢密院の線を読んだ。読んだ、と言っても、中身は読まなかった。天機の機械を通った数の列は、房の者には戻せなかった。票を持っていなかったからだ。


 読んだのは、中身の外だった。


 十日目の夕刻、修平はその房に呼ばれた。


 房の壁に大きな紙が一枚貼られていた。


 横に、十日。縦に、局の名。開封の枢密院の局、陳橋、黄河の南の岸、北の岸、大名府。——一つずつの升に、その日、その局から何通の文が出たかの数が書き込まれていた。朝と昼と夜とに分けて。


 送り直しの数も書き込まれていた。文の頭の呼び名の印も。


「大名府の七日目」


 晁子明が升を指した。


「夜の文がいつもの三倍。送り直しも四倍。——呼び名の印に、これまで見なかった印が一つ増えている」


 晁子明は楊崇武の方を見た。楊崇武は壁の前の椅子に座っていた。


「大名府で七日目の夜に、兵が動きました。——一つの指揮か、二つ。新しい隊の長が線を使い始めた」


 楊崇武は何も言わなかった。


 董元礼が低い声で言った。


「七日目の夜、大名府の軍鎮で夜の出陣の稽古があった。二つの指揮。——稽古のことは、枢密院の作戦の房の三人しか知らなかった」


 房の中が静まった。


「もう一つあります」


 無口な元の字験の係が、初めて口を開いた。


「開封の枢密院の局。——四日目から六日目まで、局から出る文の最後の印の形が違う」


「最後の印」


「文の尻の、送った者の印です。枢密使が目を通された文には、いつも同じ形の印が付く。四日目から六日目までは、別の印でした」


 元の字験の係は楊崇武を見た。


「枢密使は、その三日、院に出ておられなかった」


 楊崇武は長いこと黙っていた。


 楊崇武の頬がわずかに強張った。


 その三日、枢密使が風邪で屋敷に伏していたことを、修平は後になって董元礼から聞いた。知っていたのは、枢密院の中でもほんの数人だった、と。


「……中身を一字も読まずにか」


「一字も」


 哈特が言った。


「私たちは票を持っておりません。持たないようにしてあります。——それでも、これだけ分かります」


  ◇


 日が暮れてから、修平は房の外の廊下で、哈特と並んで立っていた。


「機械の中身は守れました」


 哈特が言った。


「中身の外は、まだ守れていない」


「空の文を流すのですね」


「流します。頭の印も、送った者の印も替えます。送り直しを減らす稽古もさせます」


 哈特は廊下の窓の外を見た。


「けれど、あの房は畳みません。——私たちが空の文を流せば、あの房は、空の文の流し方の癖を見つけるでしょう。見つけたら、また直す。直したら、また見つける」


「終わりがない」


「ございません」


 哈特は言った。


「私たちの文を一番よく読むのは、私たちであるべきです。——敵より先に」


 修平は壁の紙を思い出していた。十日の升の数。朝と昼と夜。送り直しの数。印の形。


 九年前、西の遠征の報せは、四月かかって開封に届いた。その四月の間に、何が誰に読まれていたのか。誰も数えてはいなかった。


 今は数えていた。


 自分たちの線を。敵の目で。


 廊下の先で房の戸が開いた。晁子明が新しい紙を抱えて出てきた。


「哈特どの。十一日目の升を足します」


 哈特は頷いて、房の中へ戻っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。