↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
107/440

第七巻 資本市場 第二十二回 富と熱狂の入口

 年の暮れの最後の板の日だった。


 開封証券取引所の市易務の倉の中の壁に板が十一枚並んでいた。


 冬の半ばに七枚で始めた板だった。ひと月で四枚増えた。衛州の河港の倉と荷揚げの機械の会社。汴河の蒸気の曳き舟の会社。京東の二つ目の炉の会社。それに、杭州の絹を機械で撚る工場の会社。——どの会社も提挙証券司の決まりを満たして、帳面を倉の壁に貼り出していた。


 板の前の柵の内に証券商の手代たちが三列に並んでいた。冬の半ばには一列だった。


 柵の外は人で埋まっていた。


 修平は倉の奥の提挙証券司の部屋の窓からそれを見ていた。


 商人の手代がいた。官の服の者がいた。前掛けをした職人がいた。綿入れの袖に泥のついた、城の外の地主の家の者もいた。——ふた月前、この倉は屋根の瓦が落ちた、空の倉だった。


 巳の刻の初めに板が開いた。


 磁邢鉄道会社。十六貫。


 秋の初めに十貫で売り出した株だった。道はまだ邯鄲の南の橋の橋脚を積み始めたところだった。分け前はまだ一文も出ていない。


  ◇


「一年で」


 統計局の韋明遠が表を卓の上に広げた。


 提挙証券司の部屋だった。鍾九思が表の写しを何枚か抱えていた。孟季常と、鄭仲謙とが卓を囲んでいた。


「この一年に会社が株と会社の証文とで集めた銭」


 韋明遠は表の一番上の行を指でなぞった。


「株で、二百九十万貫あまり。会社の証文で、百五十万貫あまり。——合わせて四百四十万貫」


 孟季常が低く息を吐いた。


「去年の冬に工部に届いた申し出の二千三百万貫には、まだ遠い」


「遠い」


 韋明遠は言った。


「だが、この四百四十万貫の一文も国の証文ではない。民の行の長い貸しでもない」


 韋明遠は次の行を指した。


「株を持つ者の名の数。会社ごとに数えて足すと、三万一千。——同じ者がいくつもの会社の株を持っていることがあるから、本当の人の数はもっと少ない。それでも二万は超えている」


「一年前には零だった」


 鄭仲謙が言った。


「揚州の通済の組の七つの家を除けば」


 韋明遠は表の下の方の行を指で叩いた。


「取引所の板に載る十一の会社の時価の総額。——合わせて四百七十万貫」


「株で会社に実際に入った銭は、この一年の二百九十万貫に会社になる前からの元手を足しても、三百十万貫あまり」


 鍾九思がぽつりと言った。


「会社の証文で集めた百五十万貫は、株を持つ者の持分ではないから、ここには入れぬ。——時価の総額の方が百六十万貫大きい」


 部屋が少し静かになった。


「それが先の儲けの見込みだ」


 韋明遠は言った。


「国中の二万の者が、この十一の会社の株は、株で集めた銭より百六十万貫多くの値打ちがある、と見込んでいる」


 韋明遠は最後の行を指した。鄭仲謙が秋に足させた欄だった。


「公認の行が株と会社の証文とを質に取って貸している額。そのうち、株を買うための分。——秋の半ばに四万貫。今、十五万貫」


「ひと冬で四倍に近い」


 鄭仲謙が言った。


「国中の行の貸しの百に一つにはまだ届かぬ。——届かぬが、四倍だ」


  ◇


 表の最後に鍾九思が一枚紙を添えていた。


 十一の会社の半年の帳面の儲けと株の値とを並べた紙だった。


「磁州機械は半年で一株あたり七百文の儲け。一年に直せば、一貫四百文」


 鍾九思は言った。


「株の値は十七貫。——一年の儲けの十二年分」


「通済は半年で一株あたり一貫二百文の儲け。一年に直せば、二貫四百文。株の値は十九貫。——一年の儲けの八年分」


「磁邢は」


 修平が言った。


「儲けはまだない」


 鍾九思は言った。


「株の値は十六貫」


 部屋の誰も何も言わなかった。


 秋の終わりに統計局は先の銭を今の値に直す表を刷った。——磁邢の株を買う者は、三年目からの二十年、三十年の分け前をどこかの列で直して十六貫と見ている。


 秋の終わりには十三貫だった。


 秋の終わりから、磁邢の道は邯鄲の南の橋の橋脚を積み始めただけだった。橋脚はまだ半分だった。


 どの列を読むようになったのか。


「儲けの見込みが秋よりよくなったのかもしれない」


 孟季常が言った。


「鋼の場の五つ目の炉。軍器監の注文。——磁邢の道が開けば、運ぶ荷は秋の見込みより多い」


「そうかもしれません」


 修平は言った。


「そうでないかもしれない。——十三貫から十六貫へ上がった理由の、どれだけが先の儲けの見込みで、どれだけが上がったから買った者の買いなのか。表からは分かりません」


  ◇


 午の刻の過ぎ、修平は倉の柵の外に出た。


 人の間を抜けていった。


 游子敬の店の手代の周りに、人がとりわけ多く群がっていた。游子敬の店は信用の売り買いの決まりの四割の線を守っていた。守ったうえで客がこの冬、倍に増えていた。——他の証券商も同じ決まりを守っていた。守ったうえで客が増えていた。


 株の値が上がれば、客の株の値打ちが増える。四割の線に余りが出る。余りでまた借りられる。


 上がるときには止めにならない。——冬に游子敬の前で修平自身が言った穴だった。


 人混みの端で、修平は一人の若い男と目が合った。


 二十歳を少し過ぎたくらい。前掛けに鉄の粉がついていた。春の夜、磁州の汪徳潤の工場の門の脇で火鉢に当たっていた、あの若い職人だった。


「林どの」


 若い職人は少し照れたように頭を下げた。


「汪の旦那の車の工場の開封の出店の組み立ての手伝いに、ひと月来ております。——今日は休みで」


「株を」


「三つ買いました」


 若い職人は言った。


「磁邢を。冬の初めの端の株を束ねる日に、十三貫で。——今、十六貫。三つで九貫増えた。三月の賃に近い」


 若い職人は懐を手で押さえた。


「春には十貫を道に入れたら三月、飯を食わずにいたのと同じだ、と言いました。——でも、上がっている。皆、上がると言っている。今日、証券商に頼んで次の端の株の日にもう三つ買おうと思って」


「磁邢の帳面は読みましたか」


 修平は言った。


 若い職人は少し困った顔をした。


「……読んでいません」


 若い職人は言った。


「読んでも分からないと思って。——けれど、皆が買っている。上がっている。上がっているのは、皆がよいと思っているからでしょう」


 修平は何か言おうとして、言葉を探した。


 春の夜、火鉢の脇の年かさの職人は言った。見せられても、わしには読めん。——その年かさの職人の隣で、この若い男は三月の賃を両の手のひらに載せて、重さを量っていた。


 今、この男は重さを量っていなかった。


「今日は買わずに帰りませんか」


 修平は言った。


「磁邢の道はあと二年開きません。その間、分け前はない。——今日の十六貫が来月、十二貫になっても、道は何も変わっていないかもしれない」


 若い職人はしばらく修平を見ていた。


「林どのは磁邢が下がると思っているのですか」


「分かりません」


 修平は言った。


「上がるかもしれない。下がるかもしれない。——分からないものに三月の賃をまた入れるなら、せめて帳面を誰かに読んでもらってからにしてください」


 若い職人は少し黙った。


 それから頭を下げて人混みの中へ戻っていった。游子敬の店の手代の方へ、ではなかった。倉の扉の方へ、だった。


 修平はその背中が見えなくなるまで見ていた。


 今日、一人を帰らせた。——明日、この倉にはまた何百人が来る。


  ◇


 倉の隅の柱の陰に蒲文逸が立っていた。


「林どの」


 蒲文逸は言った。


「私はこの冬、相州石炭の株を少し借りて売りました」


「相州石炭も高いと」


「一年の儲けの三十年分」


 蒲文逸は言った。


「石炭の坑はよい坑です。枝の道も開いた。——けれど、三十年分は高い。そう見て借りて売った」


 蒲文逸は板の方を見た。相州石炭。十四貫。


「ひと月で十二貫から十四貫に上がりました。私の売りでは止まらなかった。——私と同じように高いと見て借りて売る者は、この倉に十人もいません。上がると見て買う者は何百人もいる」


 蒲文逸は少し笑った。


「値が本当の値打ちより高すぎるとき、それを値に映す道は、借りて売ることのほかにあまりない。——林どのが冬に提挙証券司の議でそう言われたと、游どのから聞きました」


「はい」


「道はあります。けれど、道が細い」


 蒲文逸は言った。


「皆が同じ方を向いているときには」


  ◇


 日が傾いてから、修平は戸部の葉正言の部屋に呼ばれた。


 葉正言は六十二になっていた。炭が多めに入っていた。卓の上にこの一年の国の証文の帳面が広げられていた。


「国の証文の残り」


 葉正言は言った。


「一年前の冬、孟君がこの部屋で言うた。四十七通の申し出に全部、国の証文で四つに三つを出せば、残りは一倍半を越える、と」


 葉正言は帳面を指で叩いた。


「この一年で国の証文の残りは一割も増えておらぬ。——鉄の道は磁州から邢州へ延び始めた。衛州の港に荷揚げの機械が据わった。通済の舟は長江を上り始めた。京東に二つ目の炉が建った。どれも国の証文ではない」


「はい」


「これはそなたの手柄だ」


 修平は首を振った。


「閻どのと、邱どのと、汪どのと、晏どのと。——それに、二万の株を持つ者たちの」


 葉正言は少し笑った。


「そう言うと思うておった」


 葉正言は帳面を閉じた。


「私の祖父は会子を刷りすぎた。——戸部が刷れば刷るほど、会子の値は下がった。祖父は会子の値が下がるのを見ながら、刷り続けた。北の戦の銭が要ったからだ」


 葉正言は窓の外の暮れた空を見た。


「今日、取引所の前を通ってきた。人が溢れておった。磁邢が十六貫。——戸部は一枚も刷っておらぬ。中央銀行も刷っておらぬ。それでも、取引所の株の値は一年で合わせて四百七十万貫になった」


 葉正言は修平を見た。


「刷らずとも、値は膨らむのだな」


「膨らみます」


 修平は言った。


「刷った会子の値が下がるのと逆の形で。——今度は紙の数は決まっている。磁邢の株は十万株のまま。値の方が膨らむ」


「どちらも人が先をどう見るかで動く」


「はい」


 葉正言はしばらく黙っていた。


「右相が年が明けたら、致仕を願い出る、と李左相に漏らしたそうだ」


 葉正言は言った。


「七十になった。——会社は法の下に立つ、とあの一行を書き足させたのが、右相の最後の大きな議になるかもしれぬ」


 修平は夏の都堂の議の書き留めの写しを思い出していた。張文謹の言葉がそのまま書き留められていた。——私は十年後にはもうこの座にはおらぬ。


「その一行は残ります」


 修平は言った。


「残る」


 葉正言は言った。


「残るものを残せ。——林詳定。取引所の熱はどこまで行く」


 修平は少し考えた。


「分かりません。——ただ、今、熱は始まったばかりです」


 修平は言った。


「上がるから、買う者が増えています。売れるから、買う者も。借りて買う者の借りもひと冬で四倍に近い。——どれも今は小さい。けれど小さいうちに数え始めておかなければ、大きくなってから、何が膨らんだのかが分からなくなります」


「数えておるか」


「統計局が数えています」


 葉正言は頷いた。


「数えておけ。——祖父の代の戸部は、会子の値が下がり始めたとき、何がどれだけ刷られたのかを数えておらなんだ。数えておらぬものは止めようがない」


  ◇


 その晩、詳定官の詰所に手紙が一通届いていた。


 吉州泰和県、石塘村。呉順からだった。


 ——修平どの。父の目はこの冬また少し弱りました。帳面の字はもう読めませぬ。私が読み上げております。


 ——吉州の市にこの秋から、開封の株の話が伝わってまいりました。吉州の米の商人が二人、揚州の証券商を通して磁州の道の株を買ったそうです。泰和の県の主簿さまも買われた、と噂でございます。


 ——父にその話をしましたら、父はしばらく黙っておりました。それからこう申しました。


 ——株というのは田か。


 ——田なら見に行ける。土を掴んで湿りを見て、今年の稲の出来を見込める。株は見に行けぬ田じゃ。見に行けぬ田の今年の出来を誰が見込むのか。


 ——父はそれだけ申して、あとは何も申しませんでした。修平どのにそう書いておけ、と。


 修平は手紙を二度読んだ。


 それから筆を取った。


 ——呉順どの。呉守田どのにお伝えください。


 ——株は見に行けぬ田です。見に行けぬから、田の持ち主に代わって、田を耕す者が年に二度、田の出来を帳面に書いて見せる決まりを作りました。帳面が本当かどうかを、外の者が検める決まりも。


 ——それでも見に行けぬ田の先の出来を見込むのは、株を持つ者、一人一人です。見込みは外れます。今年の稲がよく実っても、来年の値を高く見込みすぎれば、損をします。


 ——呉守田どのは秋に籾の半分を売り、半分を蔵に残しておられました。今の一俵と春の一俵とは同じ一俵ではない、と。十五年前に土間で教えていただいたことを、この一年何度も思い出しました。


 ——泰和の主簿さまが株を買われたのなら。主簿さまに一度帳面を読んでから買われましたか、とお尋ねください。


 修平は筆を置いた。


 最後の一行は消そうか、と少し迷った。


 消さなかった。


  ◇


 夜更けに修平は詰所を出て州橋の方へ歩いた。


 汴河の北の岸の市易務の倉は暗かった。板はもう閉じていた。倉の東の隅の電信の局にだけ灯が一つついていた。揚州と杭州と相州と磁州とへ、この日の最後の値を打っているのだろう。


 修平は橋の上で足を止めた。


 一年前の冬、工部の書庫の卓の上で四十七通の申し出が二つの束に分かれていた。——国の銭でも、行の銭でも、商人の蔵の銭でもない、銭が要る。


 その銭は来た。


 国中の二万の手から。十貫、二十貫、百貫。牛把頭の二株。何四娘の二株。陶大年の孫娘の一株。汴河の船頭の八貫。荷の組の頭の百三十貫。——それが磁州から邢州への道の棒になり、衛州の港の荷揚げの機械になり、長江を上る通済の舟になった。


 二十年、三十年戻らない銭を、明日売れる紙に変えて。


 修平は倉の暗い屋根を見た。


 自分の世で、同じ形の倉が何度も国を豊かにした。鉄の道も、船も、炉も、その倉を通って敷かれ建てられた。


 そして、同じ形の倉が何度も国を崩れさせた。上がるから買い、借りて買い、借りた銭でまた買い、ある朝、一つの噂で皆が一斉に売りに来た。値が崩れ、質の値打ちが崩れ、行が貸した銭を取り立て、会社が次の銭を集められなくなり、工場が止まり、職人が職を失った。——株を一つも持っていなかった者まで。


 それはこの国のずっと先の話かもしれない。十年先か。三十年先か。


 倉の壁の決まりの紙の一番下の一行を、修平は思い出していた。——損をさせぬための決まりではない。損が出たときに、崩れぬための決まりである。


 それで足りるのか。


 修平には分からなかった。


 分かっているのは、この倉が今日、国中の見込みを一つの板の前に集めたということだけだった。——よい見込みも、悪い見込みも。筋の通った見込みも、そうでない見込みも。同じ板の前に。同じ速さで。


 橋の下を汴河が暗く流れていた。


 倉の東の隅の電信の局の灯がふっと消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。