第七巻 資本市場 第二十回 空売り
蒲文逸は一冊の帳面を游子敬の店の卓の上に置いた。
表紙に坑冶寺の印があった。鉱質の台帳の写しだった。唐州の南の山の頁。
「台帳は坑冶寺の書庫で、誰でも写せます」
蒲文逸は言った。四十前後の背の高い男だった。泉州の海の商人の家の次男。目の奥に潮焼けの皺があった。
「四年前、坑冶寺と工部が国中の鉄の山に見本を求めた。その後、坑冶寺は銀と銅と鉛の山にも同じ文を回した。——羅蘭徳どのとその下の技官たちが石を割って、中の多さを見積もった。見積もりは台帳に書かれて、写してよいことになっている」
蒲文逸は頁を開いた。
唐州の南の山。石の番号。その下に羅蘭徳の字で、石の中の銀の多さの見積もり。——石、百斤の中に銀、何銭。
「唐州の会社の告げ書は、これより四倍多く書いている」
蒲文逸は言った。
「告げ書には坑の奥の別の石の見積もりだ、と書いてある。——その別の石の見積もりを誰がしたのかは書いていない」
蒲文逸は台帳を閉じた。
「秋の終わりに揚州の茶館に銀の筋の話が流れた。私は泉州の家の手代を一人、唐州へやった。坑夫としてひと月会社の坑に入れた。——手代は先週戻ってきた。白い筋はある。けれど、ほとんど石英だ、と。銀の石は筋の脇に少しあるだけだ、と」
游子敬は黙って聞いていた。
「唐州の株は今、十三貫」
蒲文逸は言った。
「私は、十三貫は高いと見ている。——だから唐州の株を三百株借りたい。借りて板で売りたい」
◇
「持っていない株を売るのか」
太府寺の范汝舟が言った。
市易務の倉の提挙証券司の部屋だった。游子敬が蒲文逸の頼みを断る前に議に掛けたい、と持ってきた話だった。孟季常と、范汝舟と、鄭仲謙と、刑部の賈知節。修平。
「持っていない物を売る。——それは欺きではないか」
「持っていない株を売るのではありません」
游子敬が言った。
「借りた株を売ります」
「借りた株」
「唐州の株を持っていてすぐには売るつもりのない客が、うちの店に何人かいます」
游子敬は言った。
「その客から株を借りる。借りた株を蒲どのが板で売る。——後で蒲どのが板で同じ数の株を買い戻して、客に返す」
修平は紙に書いた。
——株を持つ者から株を借りる。
——借りた株を板で先に売る。
——後で同じ数の株を板で買い戻して、持ち主に返す。
「私の国ではこれを空売り、と呼びました」
修平は言った。
「空の手で売る。——けれど、本当に空の手ではありません。借りた株を手に持っている。空、というのは自分の株ではない、というだけです」
范汝舟は紙を睨んでいた。
「では、その者は何で儲ける」
「値が下がることで」
修平は言った。
「蒲どのが十三貫で三百株売ったとします。——三千九百貫が蒲どのの口に入る。後で唐州の株が九貫に下がった。蒲どのは九貫で三百株買い戻す。二千七百貫。買い戻した株を持ち主に返す。——三千九百貫と二千七百貫の差、千二百貫が蒲どのの儲けです。借り賃と手間の代とを除けば」
「上がったら」
「十九貫に上がったとします」
修平は言った。
「蒲どのは十九貫で三百株買い戻さねばならない。五千七百貫。——売った三千九百貫との差、千八百貫の損です」
修平は紙に書き足した。
「株をふつうに買った者は、株の値が零になれば、出した銭を全部失う。——それが損の底です。けれど、借りて売った者は株の値がいくら上がっても、買い戻さねばならない。十九貫でも、三十貫でも、五十貫でも。株の値に上の限りはない。——損にも限りがない」
范汝舟は少し顔色を変えた。
「そんな商いをする者がいるのか」
「値が下がると、自分の銭を賭けて信じる者がいるなら」
修平は言った。
◇
「貸す側の客は何を得る」
鄭仲謙が言った。
「貸し賃です」
游子敬が言った。
「株を貸している間、年に二分。——それに貸している間に唐州の会社が分け前を出したら、蒲どのが同じ額を客に払う。客は株を持っていたときと同じものを受け取る」
「蒲どのが株を返さなかったら」
「蒲どのには、借りた株の値打ちの一倍半の銭を店に預けてもらいます」
游子敬は言った。
「株の値が上がってその一倍半を割りそうになれば、追いの銭を求める。入らなければ、店が預かった銭で板で株を買い戻して客に返す」
「客が明日貸した株を返してくれ、と言ったら」
「返す約束にします」
游子敬は言った。
「蒲どのはそのときは、板で買い戻すか、別の貸し手を探すか。——その危うさも蒲どのが負います」
修平は紙に貸し借りの取り決めを並べた。
——貸し賃。
——返す期日。途中で返せと言われたときの取り決め。
——貸している間の分け前の扱い。
——借りる者の預け銭。
游子敬は店の、貸してもよいという客の名を三つ挙げた。
一人は揚州の塩の商人の家の次男だった。秋に揚州の茶館で唐州の株を一株二十貫で買った男。その後父の目を盗んで、十四貫の頃にさらに二十株買い足していた。——二十一株。父に叱られて売るに売れず、持ったままでいた。
「借り賃が年に二分入る、と言ったらすぐに貸す、と」
游子敬は少し笑った。
「売れば損が決まる。持っていれば損は決まらない。貸せば借り賃が入る。——あの次男にとっては一番、父に叱られぬ道なのでしょう」
范汝舟が呆れたような顔をした。
「高いと思って売りたい者に、下がってほしくない者が株を貸す」
「はい」
修平は言った。
「貸す者は値が下がってほしいとは思っていない。ただ、しばらく売るつもりがなく、借り賃が欲しい。——借りる者と貸す者とは見込みが違う。見込みが違うから、貸し借りが成ります」
「全部紙に書いて、両方の名を入れます」
修平は言った。
「借りた証しの紙がないまま株を売らせない。——借りてもいない株を売る者が出れば、それこそ持っていない物を売る欺きです。後で返す株がどこにもない」
賈知節が頷いた。
「借りた証しのない売りは、刑部が裁く」
◇
「それでこの商いは何の役に立つ」
范汝舟はまだ納得していなかった。
「値が下がって得をする者がいる。——唐州の株を持つ何千人もが損をしているときに一人、得をする。人の損を喜ぶ商いではないか」
「人の損を喜ぶ商い、に見えます」
修平は言った。
「けれど、范どの。——秋の終わりに唐州の株は出どころの分からない話で、一日で十八貫に跳ねました。あのとき板の上には買いたい者ばかりがいた。十八貫は高すぎると思っていた者もいたはずです。けれど、株を持っていない者は高すぎると思っても、何もできなかった。見ているだけでした」
修平は蒲文逸の台帳の写しを指した。
「蒲どのは台帳を写し、手代を唐州の坑にひと月入れました。——その上で、十三貫は高い、と見た。蒲どのが借りて売れば、その見方が板の上の値に映ります。高すぎると思う者の見方も、安すぎると思う者の見方も、同じ板の上でぶつかる」
修平は少し言葉を切った。
「値が本当の値打ちより高すぎるとき、それを値に映す道が、借りて売ることのほかにあまりないのです」
范汝舟は長いこと黙っていた。
「唐州の会社が嘘をついているなら、それが値に早く映る」
「はい」
「唐州の会社が嘘をついていないなら」
「蒲どのが損をします」
修平は言った。
「それでいいのです」
◇
その議から十日後。
冬の寒い朝だった。開封証券取引所の磁州機械会社の板が、巳の刻の開いてすぐに崩れ始めた。
十四貫から十三貫。十二貫。
倉の中の客たちの間に話が流れていた。——磁州の車の工場の建屋から昨夜、火が出た。組み立ての屋根が焼け落ちた。
修平は倉の東の隅の電信の局へ行った。
「磁州へ。汪徳潤どのに。車の工場の昨夜の様子を」
局の者が銅の鍵を打った。黄河の岸まで線。岸から渡し舟。向こう岸の局で打ち直し。——返事が来るまで二刻あまりかかった。
——車の工場、昨夜、火なし。建屋の屋根葺き、本日続けて行う。汪。
その二刻あまりの間に、磁州機械の株は十一貫四百文まで下がった。下の端の十一貫二百文の手前だった。
修平は電信の紙を提挙証券司の孟季常に渡した。孟季常が板の脇にそれを貼り出させた。
未の刻の終わりには十三貫八百文に戻った。
◇
賈知節が取引所の成った売り買いの帳面と、証券商たちの注文の紙の写しとを、三日かけて突き合わせた。
「この男だ」
賈知節は一枚の紙を修平の前に置いた。
開封のある証券商の店の名で出された注文の紙だった。磁州機械の株を借りて売る。四百株。刻は巳の刻の初め。
注文の主は巫廷玉。開封の布の商人の家の主だった。
「火事の話は巳の刻の前に、州橋の脇の茶館で最初に出た」
賈知節は言った。
「茶館の主が覚えておった。朝一番に話を持ち込んだのは、巫廷玉の店の手代だった、と。——手代は磁州から来た男に聞いた、と言うた。磁州から来た男を茶館の誰も見ておらぬ」
賈知節は紙の刻の欄を指で叩いた。
「手代が茶館で話を流したのが巳の刻の少し前。巫廷玉が借りて売る注文を出したのが巳の刻の初め。——値が十一貫四百文まで下がったところで、巫廷玉は買い戻している。四百株。一株、二貫六百文の差。千貫あまりを二刻あまりで儲けた」
修平は紙を見下ろした。
注文の紙に刻と番号とを書くようにしたのは、竇守義の行の言った言わないの揉め事を減らすためだった。——その刻が、茶館の噂と借りて売った注文とを一本の線で結んでいた。
「巫廷玉は磁州機械が本当に高すぎると思っていたのか」
修平は言った。
「思っておらなんだ、と本人が言うた」
賈知節は言った。
「儲けるために借りて売り、儲けるために噂を流した。——蒲文逸とは違う。蒲文逸は唐州の坑に手代をひと月入れた。巫廷玉は茶館に手代を半刻座らせた」
賈知節は紙を畳んだ。
「借りて売ることは罪ではない。嘘の噂で値を動かして儲けることが罪だ。——刑部はそう裁く」
巫廷玉は刑部の取り調べで自分のしたことを隠さなかった、と賈知節は言った。
布の商いがこの二年傾いていた。東水門の外の紡ぐ場の機械の布が市に出回ってから、巫廷玉の家の手で織らせた平の布は売れなくなった。借りが積もっていた。年を越す銭が足りなかった。
——茶館で一言流すだけで、千貫になる。誰の懐からも盗んでいない。板の上で売って買っただけだ。
巫廷玉はそう言った。
「誰の懐からも盗んでいない、というのは違う」
賈知節は言った。
「あの二刻あまりに火事の話を聞いて、十一貫あまりで磁州機械の株を手放した者が、二十七人おった。巫廷玉が十一貫四百文で買い戻した株は、その者たちの株だ。——その者たちは、夕方には十三貫八百文に戻った株をもう持っておらなんだ」
修平は黙って聞いていた。
巫廷玉は愚かな男ではなかった。刻の欄のある紙が、自分の注文と手代の茶館の噂とを結ぶことに気づかなかっただけだった。——あるいは気づいていても、年を越す銭の方が重かった。
◇
提挙証券司の決まりがまた一枚、取引所の壁に貼り出された。
——借りて売る者は、株を借りた証しの紙を証券商に見せる。証券商はその紙の写しを取引所に届ける。証しのない売りの注文は受け付けない。
——取引所は毎日閉じるとき、会社ごとに借りて売られたまま、まだ買い戻されていない株の数を数えて板の脇に掲げる。
——借りて売ることと嘘の報せを流すこととを組み合わせて、値を動かした者は、刑部が裁く。儲けは取り上げる。
——国の大事、あるいは市の全部が崩れかかっているときは、提挙証券司は、借りて売ることを日を限って止めることができる。
最後の一行に游子敬が眉を寄せた。
「止めることができる」
「止めることができる、です」
修平は言った。
「止める、ではありません。——借りて売る者は、崩れかかっている市に売りを足します。けれどいつも止めておけば、高すぎる値を映す道がなくなる。日を限って止める。止めたら、止めた理由といつまでかを掲げる」
鄭仲謙が頷いた。
「中央銀行が非常の時に行へ銭を貸すのと同じだな。——決まりは平らな日に作っておく。使うのは平らでない日だけ」
「はい。平らでない日に決まりを一から作っている暇はありません」
◇
冬の終わりの前のある日、唐州の株が跳ねた。
揚州からまた話が流れてきた。——唐州の会社が、羅蘭徳どのに送った石の見積もりが出た。石、百斤の中に銀、台帳の四倍。
唐州の株は十二貫から十四貫、十四貫四百文と、上の端の値に張りついた。
板の脇の借りて売られたままの株の数は、唐州が一番多かった。千二百株。
借りて売った者たちが一斉に買い戻しに来た。——値がまだ上がれば、損に限りがない。今のうちに買い戻して返してしまいたい。
買い戻しの買いが上の端の値に並んだ。売りたい者はほとんどいなかった。
翌日も唐州は上の端の値で始まった。十七貫二百八十文。
蒲文逸は買い戻さなかった。
游子敬の店で、蒲文逸は手代に追いの預け銭を渡していた。
「羅蘭徳どのの見積もりが本当に出たのなら、会社が会社の名で告げるはずだ」
蒲文逸は言った。
「揚州の茶館から流れてくる話ではない」
修平はその日の夕方、統計局の鍾九思のもとに使いを出した。——工部の羅蘭徳どのの部屋に、唐州から石が届いているかどうか。
使いは夜に戻ってきた。
羅蘭徳の部屋に唐州から石は届いていた。三つの箱。割って見積もりを始めたところだった。——見積もりはまだ一つも出ていない。
修平は使いの書き付けを手にしばらく灯の下に座っていた。
唐州の株は二日で四割跳ねていた。借りて売った者たちの買い戻しが、買い戻しを呼んでいた。
市は下へだけ崩れるのではなかった。上へも崩れた。




