第七巻 資本市場 第十七回 証券商
鄔大成の店の戸は、朝から閉まったままだった。
州橋の東の游子敬の店から、三軒北へ行った所だった。秋の半ばに、両替の店の看板の脇に、もう一枚板を掛けた店だった。——株と会社の証文の売り買いを、代わって承ります。
戸の前に人が四十人ほど集まっていた。汴河の船頭。城の東の瓦を焼く窯の職人。小役人。茶の小売りの女。——皆、鄔大成の店に銭を預けて、株を買ってもらっていた者たちだった。
戸の内側から手代の声がした。主は、今おりません。預りの払いは、しばらくお待ちください。
船頭の一人が戸を拳で叩いた。
開封府の町を見回る吏が二人来た。その後ろから、刑部の賈知節が来た。
修平が竇守義からの使いで州橋の東に着いたのは、昼過ぎだった。
戸は開いていた。鄔大成は、店の奥の帳場の机の前に座っていた。四十がらみの小柄な男だった。顔が灰色だった。
賈知節が机の上の帳面をめくっていた。
「一冊だ」
賈知節は修平に言った。
「店の銭も、客の銭も、客の株も、店が自分で買った株も、全部この一冊に書いてある」
修平は店の戸口に戻った。
戸の脇の石段に、船頭が一人座り込んでいた。五十がらみの日に焼けた男だった。汴河の糧船の舳先の櫂を三十年握ってきた、と隣の男が言った。
「八貫だ」
船頭は修平の官の服を見て言った。責める声ではなかった。
「秋に船の仲間が、磁州の道の株を十貫で買うて、十三貫になった、と言うた。三貫、何もせずに増えた、と。——わしは字が読めん。竇どのの行の板の前に行っても、何が書いてあるか分からん。鄔の旦那が代わりにやってくれる、と言うた」
船頭は膝の上の太い手を見ていた。
「鄔の旦那は悪い人ではなかった。船の仲間の嫁の実家の隣の人だ。——わしの八貫をどの株にしたのかも、わしは聞かなんだ。聞いても、分からんから」
「八貫は」
「冬の、船の櫂の替えと、娘の年越しの衣の銭だった」
船頭は少し笑った。
「三貫増えたら、娘の衣を一枚多く買うてやれると思うた」
修平は何も言えなかった。
秋の初めに竇守義の行の前に並んだ、八千三百の名のことを思った。告げ書の十一枚目を読んだ者が何人いたか、分からなかった。——この船頭は、告げ書を手に取ってさえいなかった。十二枚目も。株の札も。
船頭が手渡したのは、株ではなく、鄔大成という隣の人への信だった。
◇
鄔大成の話は長くなかった。
秋の半ばに株の店を始めた。客はすぐに増えた。竇守義の行の板まで自分で注文を出しに行くのは、面倒だ。字も書けない。鄔の店に銭を預けておけば、鄔が代わりに板に出してくれる。——汴河の船頭や窯の職人たちが、十貫、二十貫と銭を預けていった。
客の銭は、鄔大成の店の行の預りの口に入れた。店の銭と同じ口だった。
秋の終わり、唐州の銀の筋の噂が流れた。唐州の株が十三貫五百文から十八貫に跳ねた。
「まだ、上がると思いました」
鄔大成は言った。
「揚州の茶館の話は本当だと思った。——店の銭で唐州の株を買いました。十七貫で、三百株」
「五千百貫」
賈知節が言った。
「店の銭はいくらあった」
「……二千貫ほど」
鄔大成は言った。
「残りは」
鄔大成は答えなかった。
賈知節は帳面を指で叩いた。
「客の預けた銭だ」
鄔大成は机の上に額をつけた。
「すぐに返すつもりでした。唐州が二十貫になったら、売って客の口に戻す。——十日で戻るはずでした」
唐州の株は二十貫にはならなかった。
噂が流れて十日後、唐州の会社から、ようやく電信で揚州の行に返事が届いた。坑の奥の壁に、白い筋はあった。銀かどうかは、羅蘭徳に石を送って調べてもらっている。まだ分からない。——その返事が揚州の茶館の壁に貼り出された日、唐州の株は十四貫に下がった。
今朝は十二貫だった。
鄔大成の三百株。十二貫で、三千六百貫。
客の口から流れた銭は、三千百貫。店の銭の二千貫は、とうになかった。
「客に預りを返せと言われた」
鄔大成は言った。
「三千六百貫の唐州の株を今日全部売れば、客の銭は戻る。——けれど、三百株を今日全部板に出せば、十二貫では売れない」
修平は秋に竇守義の板の前で、閻守業が千五百株を売ろうとした日のことを思い出した。
◇
「欺いたのか、しくじったのか」
賈知節は店の外の柳の下で、修平に言った。
「客の銭を自分の株に使った。これは欺きだ。——だが、この男は盗むつもりはなかった。唐州が上がれば、戻すつもりだった。盗人と、しくじった商人との間だ」
「客は、この男が預りを自分の株に使うとは知らなかった」
修平は言った。
「知らなかった。この男も、客に使ってよいかと聞かなかった。——聞けば断られると分かっていたからだ」
賈知節は店の戸の前の船頭たちを見た。
「刑部はこの男を裁く。唐州の株を少しずつ売らせて、客に返させる。返しきれなければ、この男の家の蔵まで取りに行く。——欺いた者に、限りのある責めは及ばぬ。春に林詳定が書いた決まりだ」
「はい」
「だが、あの船頭の八貫は明日には戻らぬ」
賈知節は言った。
「春までに戻るかどうかも分からぬ。——刑部が裁くのは、しくじった後だ。しくじる前に止める決まりが要る」
◇
その三日後、游子敬が自分から竇守義の行に来た。
注文の紙の写しを持っていた。
「うちの手代がやりました」
游子敬は言った。
紙は二枚だった。一枚目は、杭州の茶の大商人の注文の紙。通済の会社の株、五十株、十七貫以下で買う。刻は午の刻の初め。二枚目は、同じ日の游子敬の店の名で出した注文の紙。通済の株、三十株、十六貫二百文で買う。刻は午の刻の初めより少し前。
竇守義は二枚の紙の刻を見比べた。
「茶の商人の注文を受けてから、それを竇どのの行の板に出す前に」
游子敬は言った。
「手代が店の名で、先に三十株を安く買った。——茶の商人の五十株の買いが板に出れば、通済の値が上がると分かっていた。上がった後で、店の三十株を茶の商人に売るつもりだった」
游子敬は紙を卓に置いた。
「紙に刻を書くようになったから、分かった。——口の注文の頃なら、誰にも分からなかった」
竇守義はしばらく黙っていた。
「手代は」
「昨日、暇を出しました」
游子敬は言った。
「茶の商人には、店の三十株を十六貫二百文で渡しました。手代が買った値で。——店は何も儲けていない」
修平は紙の二枚を手に取った。
游子敬は悪い男ではない、と竇守義は秋に言った。自分の見込みが外れたことが、まだ一度もないのだろう、と。
この男は、自分の店の手代のしくじりを、自分から持ってきた。
「游どの」
修平は言った。
「店が自分の名で株を売り買いすることは、これからもありますか」
「あります」
游子敬は言った。
「客の注文を取り次ぐだけでは、手間の代しか入らない。——店の銭で株を持つのも、商いのうちです」
「では、その二つを帳面で分けてください」
修平は言った。
「客に代わって売り買いする帳面と。店が自分の銭で売り買いする帳面と。——二つの帳面のどちらの注文も、刻と番号を書く。後から誰が見ても、客の注文より先に店の注文が出ていないかが分かるように」
◇
冬の初めの終わり近くに、戸部の一番大きな部屋に人が集まった。
戸部から葉正言と孟季常。太府寺から范汝舟。中央銀行から鄭仲謙。刑部から賈知節。それに、竇守義と、游子敬と、揚州の聶仲和の行の手代と。開封で株の店を構える者たちの中から、あと二人。
「開封に株の店は今、十六軒」
孟季常が言った。
「揚州に五軒。杭州に三軒。相州と磁州に一軒ずつ。——秋の初めには一軒もなかった」
「店の呼び名がない」
范汝舟が言った。
「両替の店でも行でもない。株と会社の証文とを、客に代わって売り買いする店」
修平は紙に書いた。
「株の札と、会社の証文。——どちらも、会社に対する権を紙に書いたものです。私の国では、これをまとめて証券と呼びました。証券を客に代わって売り買いする商人を、証券商、と」
「証券商」
孟季常はその字を帳面に書いた。
「鄔大成は証券商だったのか」
「証券商の看板を掛けていた」
賈知節が言った。
「看板の中身がなかった」
修平は壁に紙を貼った。
——証券商は、客ごとに一つずつ口の帳を作る。客の銭。客の株。客が出した注文。成った売り買い。まだ受け渡していない銭と株。
——客の銭と客の株とは、証券商の銭と株とから分けて預かる。客の銭は、行に証券商の口とは別の、客の口を開いて預ける。客の株は、会社の名の帳面に客の名のまま載せておく。
「鄔大成がこれを守っていれば」
鄭仲謙が言った。
「客の銭は客の口にそのまま残っていた。——鄔大成が店の銭で唐州を買ってしくじっても、失うのは店の二千貫だけだった」
「はい」
修平は言った。
「そしてもし証券商が潰れても。——客の口の銭と客の名の株とは、証券商に貸した者たちが取り立てに来ても、渡さない。証券商の持ち物ではないのですから」
賈知節が頷いた。
「潰れたとき、客の分を先に客へ返す。——それも書いてくれ」
修平は次の紙を貼った。
——証券商は、客に代わる売り買いと自分の銭での売り買いとを、別の帳面に書く。
——どちらの注文も、紙に書き、刻と番号を付け、写しを残す。
——手間の代は、表にして店の壁に掲げる。客によって代を変えない。
游子敬の隣に座った開封の店の主の一人が、手を挙げた。
「手間の代を客によって変えぬ、というのは。——長い馴染みの客には少し安くしてやるのが、商いの義理というものだ」
「馴染みの客を安くすれば」
修平は言った。
「馴染みでない客は、同じ注文に高い代を払わされている、ということです。——船頭や窯の職人は、馴染みにはなかなかなれない」
店の主は少し口を閉じた。
聶仲和の行の手代が口を開いた。
「成った後の受け渡しも、ばらばらでございます。揚州では、成ったその日に、銭と株の書き付けを交わす。開封では、竇どのの行が三日のうちに。——売った者が三日の間に同じ株を別の者にも売ってしまう、ということが、揚州で一度ありました」
「受け渡しの日を揃える」
鄭仲謙が言った。
「それも、板を束ねるときに一緒に」
「大口の客を安くするのは構いません」
修平は言った。
「百株の注文と十株の注文とで、代の割合を変える。——それを表にして掲げる。誰が見ても、同じ注文には同じ代だと分かるように」
◇
葉正言が口を開いた。
「一つ、聞く」
葉正言は言った。
「証券商は株の値を決める者か」
「決めません」
修平は言った。
「証券商は、客の注文を集めて板に届ける者です。——値は、板の上で売りたい者と買いたい者とがぶつかって決まる。証券商は、そのぶつかる場所へ注文を運ぶ。成った後の銭と株との受け渡しを支える。客の銭と株とを預かる」
「運ぶ者、支える者、預かる者」
「はい」
葉正言は少し目を細めた。
「鄔大成は、預かったものを自分の見込みで使った」
「預かる者が自分の見込みを持ってはならない、とは言いません」
修平は言った。
「游どのの店のように自分の銭で、自分の見込みで株を持つのも、商いです。——ただ、客のものに自分の見込みを乗せてはならない」
游子敬が少し身じろぎした。
それから口を開いた。
「もう一つ、決めていただきたいことがあります」
游子敬は言った。
「うちの客の中に、株を買う銭が足りない、という者がいます。——持っている株を質に、店が銭を貸して、その銭でもっと株を買いたい、と。杭州の茶の商人も。汴河の荷の組の頭も」
部屋が静かになった。
「貸しているのか」
鄭仲謙が言った。
「秋の終わりから、少し」
游子敬は言った。
「店の銭で貸せる分だけ。足りない分は、竇どのの行から店が借りて貸しています。——それに、泉州の海の商人の家の者から、別の頼みが来ています。唐州の株をしばらく貸してくれないか、と。借りた株を板で売りたい、と」
「株を借りて売る」
范汝舟が言った。
「持っていない株を売るのか」
「借りて売ります」
游子敬は言った。
「後で買い戻して返す。——唐州の株は下がる、とその者は見ています」
修平は游子敬を見た。
游子敬の顔には悪びれたところはなかった。杭州で茶引の札の売り買いを十年見てきた男だった。茶引の市では、どちらもとうに行われていたのかもしれない。
「証券商が銭を貸し、株を貸すなら」
修平は言った。
「証券商は、注文を運ぶ者、預かる者から、貸す者になります。——行と同じ種類の危うさを抱える者に」
鄭仲謙が腕を組んだ。
「それは今日決めきれぬ」
鄭仲謙は言った。
「だが、決めずに放っておくこともできぬ」
葉正言が立ち上がった。
「今日の二枚の紙は、戸部と太府寺と中央銀行と刑部との連名で、証券商の決まりとして、開封と揚州と杭州と相州と磁州とに下ろす」
葉正言は言った。
「銭を貸すこと、株を貸すことは、もう一つ別の卓で議す。——それに、同じ株が開封と揚州とで違う値で成るような、ばらばらの板を一つに束ねる話と、一緒に」
◇
鄔大成の客の四十人あまりのうち、冬の終わりまでに、預けた銭の全部が戻ったのは十一人だった。
鄔大成は、唐州の株を刑部の吏の立会いで、毎日二十株ずつ板に出した。二十株なら、値はあまり崩れなかった。——それでも、唐州の株は下がり続けていた。
汴河の船頭の八貫は、冬の終わりに半分だけ戻った。
州橋の東の游子敬の店の看板が架け替えられた。
——証券商、游記。手間の代の表は、店の内の壁にあり。客の銭と株とは、店のものと分けて預かる。
看板の文字を書いたのは、游子敬自身だった。字は少し右上がりだった。
修平はその看板の下で、少しの間立ち止まった。
看板の文字は正しかった。鄔大成の店の看板も、秋には正しい文字で書かれていた。
看板の中身を、誰が確かめるのか。——修平はそれをまだ決めていなかった。




