第七巻 資本市場 第十六回 注文と約定
「わしが先に言うた」
「いや、わしが先だ」
竇守義の行の帳場の奥の板の前で、二人の男が言い争っていた。
冬の初めの昼だった。板の前にはいつものように人が群がっていた。行の客もいれば、游子敬の店のような、客に代わって注文を出す店の手代もいた。
右の板。買いたい者。——相州石炭会社、十一貫、五十株。
左の板に今朝、売りたい者が一人書かれた。相州石炭会社、十一貫、五十株。
値も数も合っていた。手代が買いたい者を呼ぼうとした。
そのとき、別の男が帳場に割り込んできた。自分も十一貫で五十株買いたい、と今朝一番に手代に言った。右の板に書かれていないのは、手代が書き忘れたからだ、と。
板に書かれていた男は、書かれていたのだから自分が先だ、と言った。
帳場の手代は青い顔をしていた。朝の混みの中で、口で言われた注文を全部覚えてはいなかった。
竇守義が奥から出てきた。
二人の男の話を黙って聞いた。それから板に書かれていた男に五十株を渡した。割り込んできた男には、行の手間の代をひと月取らない、と言って頭を下げた。
割り込んできた男は不満そうに帰っていった。
その日の夕方、もう一つ揉め事があった。
昼に、ある客が磁邢の株を百株売りたい、いくらでもいい、今すぐ、と手代に言った。——右の板の買いたい者を、上から順に当てていった。十三貫二百文の三十株。十三貫の四十株。十二貫五百文の三十株。
夕方、その客が戻ってきた。朝、磁邢は十三貫二百文と小さな板に出ていた。なぜ自分の百株は、ならして十二貫九百文にしかならなかったのか。
「いくらでもいい、と言われましたので」
手代は言った。
「そういう意味で言ったのではない」
客は言った。
◇
「口では足りませぬ」
竇守義は言った。
その晩、竇守義の行の奥の部屋に、修平と游子敬と揚州から来た聶仲和の行の手代とが集まっていた。
「秋の初めに板を掛けたときは、一日に売り買いは十かそこらでした。——今は一日に三百を超えます。口で聞いて手代が板に書く。書き忘れる。聞き違える。後で言った、言わない、になる」
修平は昼の揉め事の話を聞きながら、兵部の駅の吏の田守信のことを思い出していた。
三年前の、城の中に電信の線を引いた頃。田守信は、電信の文の頭に通し番号を付けること、名を復唱させることを言い出した。——口で言ったことは残らない。紙に書いて番号を振れば残る。
「紙に書かせましょう」
修平は言った。
「売りたい者も買いたい者も、口ではなく、一枚の紙に書いて出す。——紙には決まった欄を刷っておく」
修平は卓の上に紙を置いて、欄を書き出していった。
——注文を出す者の名。
——会社の名。
——売るか、買うか。
——株の数。
——値。
——注文を受けた刻。
——通し番号。
「刻は」
游子敬が言った。
「行の帳場に漏刻を置く」
竇守義が言った。
「鉄の道の駅に刻の表があるように。——紙を受けた刻を、手代が漏刻を見て書き込む。同じ値の注文なら、刻の早い紙が先に成る」
聶仲和の行の手代が頷いた。
「揚州の茶館でも同じ揉め事があります」
手代は言った。
「同じ紙を揚州でも使えれば」
修平は紙の「値」の欄を指で叩いた。
「ここが一番大事です」
◇
「値の欄には、二通りの書き方があります」
修平は言った。
「一つは、値を書く。——十一貫以下なら五十株買う。十三貫以上なら百株売る。値を指して出す注文です」
修平は紙の脇に「値を指す」と書いた。
「値を指した注文は、その値に合う相手がいなければ成りません。——十一貫以下で買いたい者は、十一貫で売りたい者が来るまで待つ。今日来なければ、明日また待つ」
「もう一つは」
游子敬が言った。
「値を書かない」
修平は言った。
「今、板の上にいる一番よい相手とすぐに成らせてくれ、という注文です。——売るなら、今一番高く買いたい者から順に。買うなら、今一番安く売りたい者から順に」
修平は紙の脇に「成り行き」と書いた。
「昼の客の、いくらでもいい、今すぐ、はこれです」
竇守義が苦い顔をした。
「成り行きの注文はすぐに成ります」
修平は言った。
「けれど、いくらで成るかは、そのときの板の上の相手次第です。——相手が厚ければ、十三貫二百文の近くで百株全部売れる。相手が薄ければ、十三貫二百文の三十株を売り切った後、十三貫、十二貫五百文とどんどん下の相手に当たっていく」
修平は少し言葉を切った。
「値を指せば、値は守られる。その代わり、成らないかもしれない。——成り行きなら、必ず成る。その代わり、値は守られない」
游子敬が少し笑った。
「どちらを取るかは、客が決める」
「はい。ただ、紙の値の欄に成り行き、と書くときには、手代が客に一度読み上げる。——今、板の上の相手はこれだけです、と」
竇守義が頷いた。
「昼の客にはそれをしなかった」
◇
竇守義がもう一つ困りごとを出した。
「名の書き換えです」
竇守義は言った。
「一つの売り買いが成るたびに、会社の株を持つ者の名の帳面を書き換えねばならぬ。——磁邢の会社の監事から苦情が来ております。一日に百を超える書き換えが、磁州に電信で届く。一株、二株の売り買いまで。監事の吏が三人、夜まで筆を走らせておる」
修平は少し考えた。
「売り買いをある数のまとまりでさせましょう」
修平は言った。
「十株を一つのまとまりにする。——注文は、十株、二十株、三十株。十株の倍の数でしか出せない」
「一株では出せぬのか」
聶仲和の行の手代が言った。
「揚州の質庫の主のように、一株だけ売りたい者もおる」
「一株、二株の端の株は」
修平は言った。
「月に二度、日を決めてまとめて売り買いする。——端の株を、その日に行が束ねて、十株のまとまりにして板に出す。書き換えもその日にまとめてする」
游子敬が首を傾げた。
「では、紡ぐ場の女頭の二株は、月に二度しか売れぬ」
「はい」
修平は言った。
「急いで売りたいときには不便です。——けれど十株のまとまりにすれば監事の吏の筆は十分の一で済む。行の手代の聞き違いも減る」
修平は紙に書いた。
——売り買いは、十株を一つのまとまりとする。端の株は、月に二度、まとめて。
「このまとまりは、株そのものの決まりではありません」
修平は言った。
「磁邢の株は十万株です。一株は、一株として在る。何四娘の二株は、二株のまま名の帳面に載っている。——十株のまとまりは、売り買いと書き換えの手間を減らすための市の決まりです。いつか、書き換えの手間が減らせるようになれば、まとまりを小さくしてもいい」
竇守義は紙のその一行の脇に「市の決まり。株の決まりにあらず」と書き足した。
◇
修平は新しい紙に板の形を書いた。
真ん中に、値を上から高い順に並べる。左に、その値で売りたい株の数。右に、その値で買いたい株の数。
相州石炭会社のその日の夕方の板を写して書き込んだ。
——売りたい、十株。十一貫五百文。
——売りたい、二十株。十一貫二百文。
——売りたい、三十株。十一貫。
——買いたい、十株。十貫八百文。
——買いたい、五十株。十貫五百文。
「今、この板の上では売り買いは成りません」
修平は言った。
「一番安く売りたい者が十一貫。一番高く買いたい者が十貫八百文。——二百文の隙間があります。売りたい者は、十一貫より安くは売らない。買いたい者は、十貫八百文より高くは買わない。値が合わない」
「そこへ」
修平は紙の右に新しい一行を書いた。
——買いたい、二十株。十一貫。
「十一貫で二十株買いたい者が来た。——十一貫で三十株売りたい者がいる。値が合います。二十株が十一貫で成る」
修平は売りたい三十株の行の数を消して、十株、と書き直した。
「成った、この十一貫が、その刻の相州石炭の株の値です。——竇どのの小さな板に書かれる値」
游子敬が紙を覗き込んだ。
「株の値を決めたのは誰だ」
「誰でもありません」
修平は言った。
「十一貫で売りたい者と十一貫で買いたい者とが、板の上でぶつかった。——行が決めたのでも、会社が決めたのでも、朝廷が決めたのでもない。ぶつかったところが、値です」
修平は紙に書いた。
——売りたい者と買いたい者とが、値と数とで合ったとき、売り買いが成る。これを約定と呼ぶ。約定した値が株の値になる。
◇
「では金さえあれば、いくらでも買えるのか」
游子敬が言った。
「私の客に、杭州の茶の大商人がおります。通済の舟の会社の株を三千株欲しい、と」
「三千株は買えません」
修平は言った。
「通済の株は全部で二千株しかありません」
游子敬が少し目を丸くした。
「そうか。——では五百株なら」
「二千株のほとんどを、七つの家の主が持っています。邱どのは六百株。売る気はないでしょう。他の家もほとんど売っていない。揚州の茶館の板に通済の株を売りたい者が出るのは、ひと月に二十株か三十株です」
修平は言った。
「その茶の商人が五百株買いたいと板に出しても、売りたい者がいなければ、一株も成りません。——値を十六貫から、二十貫、二十五貫と上げていけば、七つの家の誰かが売る気になるかもしれない。けれど、それは茶の商人の買いが値を押し上げた、ということです」
游子敬は黙った。
「磁邢でも同じです」
修平は言った。
「十万株。けれど、閻どのと四十二の家の三万株は、ほとんど板に出てこない。牛把頭どののような小さな株を持つ者も、多くは持ったまま。——今、板の上に実際に売りに出ている株は、十万のうちのほんの少しです」
修平は紙に書いた。
——株の数が十万でも、板に売りに出ている株は、その一部である。売る者がいなければ、金があっても、買えない。
——逆に株を持っていても、買う者がいなければ売れない。
「秋に閻どのが千五百株を売ろうとして、七百五十株で板の買いたい者が尽きたのと、同じです」
◇
「売り買いのしやすさ」
竇守義が言った。
「春に、林どのが揚州の証文の話で言われたと、孟どのから聞きました」
「はい」
修平は言った。
「売りたい者と買いたい者とが、板の上にたくさんいて、少しの値の隙間ですぐに成る。大きな注文でも、値があまり飛ばない。——そういう株は売り買いがしやすい。私の国ではこれを、流れのよさ、と呼びました」
修平は磁邢と通済のひと月の板の写しを並べた。
「磁邢は、板の上の売りたい者と買いたい者との隙間が、百文か二百文。一日に何百株も成る。——通済は、隙間が一貫を超える日がある。ひと月に二十株しか成らない月もある。二十株の買いが入っただけで、値が二貫飛ぶ」
游子敬が紙を見比べた。
「同じ株でも、会社によって流れが違う」
「はい。流れのよい株は、今日売りたいとき、今日売れる。流れの悪い株は、売りたいときに売れないかもしれない。売れても、ずいぶん安く」
修平は少し言葉を切った。
「秋に晏どのに言いました。売り買いの形だけを見れば、株もまず一つの品物と考えていい、と」
修平は板の紙を指で叩いた。
「品物の数には限りがある。欲しい者と売りたい者とが、値で折り合う。相手がいなければ、売り買いは成らない。——市の米と同じです。米の市が大きければ、米は売り買いしやすい。村の小さな市では、米を一度に百石売ろうとすれば、値が崩れる」
竇守義がゆっくりと頷いた。
「株の市を大きくせねばならぬ」
竇守義は言った。
「開封のうちの板と、揚州の茶館と、相州の行の帳面とを、一つに」
◇
十日後、竇守義の行の帳場に漏刻が据えられた。
銅の壺から水が細く落ちていた。壺の脇の竹の目盛りに刻が刻んであった。
帳場の窓口には、刷った紙が束で置かれた。注文を出す者の名。会社の名。売るか、買うか。株の数。値、または成り行き。刻。通し番号。
帳場の手代は紙を受け取るたびに、漏刻を見て刻を書き、番号を振り、客に紙の写しを渡した。
板の前の人々は、最初の数日、紙を書くのを面倒がった。字の書けない者は手代に書いてもらった。
五日目の昼、修平は帳場の脇で、一人の客と手代とのやりとりを見ていた。
客は戸部の吏員だった。秋の初めに磁邢の株を二十株申し込んで、十株と少ししか持てなかった、あの若い男だった。今は十株ちょうどを持っていた。割り当てで余った端の一株は、この冬の最初の端の株を束ねる日に手放していた。家の母が冬の薬代を要る。十株売りたい。いくらでもいい、今すぐ。
手代が紙に、成り行き、と書きかけて手を止めた。
「今、板の上の磁邢を買いたい者はこれだけです」
手代は右の板を指して読み上げた。
「十三貫百文で十株。十三貫で二十株。——今、成り行きで出せば、十三貫百文で十株全部成ります」
若い吏員は少しほっとした顔をした。
「ではそれで」
「もう一つ申し上げておきます」
手代は言った。
「今朝、十三貫三百文で成っています。今、十三貫三百文と値を指して出せば、夕方までに成るかもしれない。成らないかもしれない。——二百文の差です。十株で二貫」
若い吏員はしばらく板を見ていた。
「薬は今日要るわけではない」
若い吏員は言った。
「明日でもいい。——十三貫三百文で出します。今日成らなければ、明日の朝、成り行きに変えます」
手代は紙の値の欄に十三貫三百文と書いた。漏刻を見て刻を書いた。番号を振った。
夕方、その紙は成った。十三貫三百文で、十株。
修平は、若い吏員が紙の写しを大事そうに懐へしまうのを見ていた。——十株のまとまりのちょうど一つ。端の株は一つもなかった。
十日目には、誰も面倒がらなくなった。
言った、言わないの揉め事が一度も起きなかったからだった。
揚州の聶仲和の行でも、同じ紙が刷られた。相州の行でも。——三つの場所で、同じ欄の紙が使われ始めた。けれど、三つの場所の板はまだ別々だった。同じ日の同じ刻に磁邢の株が、開封では十三貫三百文、揚州では十三貫百文で成ることがあった。




