17時19分
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松下馨は平凡である。
凡庸で、取り立てて特筆すべき何かなど持ち合わせていない——それは、自己肯定感の決して高くない彼女の自己分析であると共に、彼女の人生を言い表す、客観的な視点においての事実でもあった。
公立の中学・高校を経て大学へ進学。
卒業後は地元の広告代理店に就職。
ブラック企業気味な勤め先での毎日に心身を擦り減らす辺り、順風満帆とは言い難いながら、それでも、困窮した生活とも大仰な希死念慮とも無縁の日々。
そんな平穏に影が差したのが、約一ヶ月前。
会社の帰り道。歩道、電車、建物の中。夜が差し迫るにつれ強まる、何者かの視線。正体がわかる訳もなく、実害がある訳でもない。それでも、見知らぬ何者かの視線に晒されるという異常事態は、元来気弱な馨の精神を激しく蝕んだ。
決定的だったのは今朝。
自室で目覚めた彼女の目に飛び込んできたのは、激しく荒らされた室内の惨状。そして、にも関わらず無傷のまま朝を迎えた自ら。松下馨の精神は限界だった。
事を荒立てたくない。その一心で出社したものの、そんな状況で仕事が手に付く訳もなく。入社して数年、初めての早退を申し出たのが今日。
そして、今。
暗中の靄が如き正体不明は遂に、明瞭な輪郭を帯び、その爪を馨に向けた。
逃げながら、戸惑いながら。纏まらない思考はそれでも、一縷の救いを求め続ける。
けれど、叶わない。
救いを与えてくれる誰かの存在を欲しながら、では果たして誰がこんな荒唐無稽を信じてくれるのか……救ってくれるというのか、否定するのもやはり自分自身だった。
木陰に身を隠し、立ち止まる。
アスリートではない。どころか日々の仕事に忙殺され、碌々運動だって出来ていない。馨の体力は底をついていた。
——その、背後。
燃え盛る夕景が照らした彼女の背後に落とされた、色濃い影。
その内側から、『ソレ』は姿を現す。
人型の黒塗り。
獣の様に鋭い爪を有した、疑いようもない人外。
音もなく。気配も無く。鋭利な刃の如き爪が、馨の首元に突き付けられる。
針で突いたような鋭い痛み。首筋から伝う血——その不快感にようやく、馨は背後に立つ『ナニカ』の存在に気付く。
走馬灯を挟む暇もない。
ぎちりと、柔らかな首に爪が深々と突き刺さろうとした、その刹那。
——赤い風が一陣、吹き荒ぶ。
木を叩く、硬質な轟音。
馨の顔の真横には、無骨なコンバットブーツ。
視界に飛び込んで来たのは、赤髪の少年。
少年が、嗤う。
「出会い頭に悪ぃな、黒づくめ。選手交代だ」
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蹴り付けた足先に伝わる硬質な感触。
過ぎった違和感の正体を推し量るよりも先に、静が馨の肩を掴み、自らの背後へと押しやる。
勢い良く投げ出され、転倒しかけたその身体を、一足遅れで追い付いた星翠が抱き止める。
そんな二人へと向けて、凶刃が迫る。
静の蹴り付けた先に異形の姿は無く。
その傍……たった今まで馨の立っていた地点、そこに伸びた彼女の影から再度姿を現した人外が身体ごと迫り、その爪を振り翳す。静を回避し、『影』は未だ馨を狙っていた。
その首元を、振り下ろされた静の蹴りが狩る。
「話ぃ聞かねー野郎だな。会話は聞くのが九割って習わなかったかよ、コミュ障」
地面へと叩きつけられた身体は今度こそ、その場に滞留した。再度姿を隠す事はなく、黒塗りの影はすぐさま立ち上がり、後方へ飛び退いた後、両手の爪を前方へ構える。
だが、遅い。
一歩で潰される間合い。
低く沈んだ姿勢のまま突進した静が左腕を『影』の足元に伸ばす。
『影』の重心がやや下へ。引き摺られる様に、構えた両手の爪も拳ひとつ分下がる。矢継ぎ早、静の身体が跳ぶ。
下段から上段。足元へ意識が移った瞬間、襲い掛かるは上段飛び後ろ回し蹴り。突進の推進力を僅かに残し、旋回による遠心力を乗せた一撃が、無防備になった『影』の頭部を噛み砕く。
——今、確かに野郎は〝影〟から姿を現した。
攻撃と並行して回される思考。
——野郎の能力が〝影から影〟に飛べる様な代物だった場合、遮蔽物もねぇ、夕日でどこかしこ影だらけなこの状況で逃げるのは無理……確かめる手段がねー以上、想定は最悪ベース……なら、やる事はシンプルだ——!
『影』が、影の中へと姿を消す。
その姿を確認した静が、即座に後方へと飛び退き、馨を抱き止めた星翠の前に立ち塞がる。
「仙波!そのまま動くなよ!」
太陽は真後ろ、逆光の位置どり。
三人の影は長く、彼らの前方へと伸びていた。
静が地を這う様に、低い姿勢をとる。
一瞬の静寂。
星翠の目が見開かれる。
星翠達と静の間に落ちる影——花蕗静の背後から、『影』は再びその姿を現した。
音もなく、気配も無い。
報せようとする星翠の声も間に合わない。
物理的な死角、意識の外縁から放たれた一撃を咎める術は存在しない。
『故に、迎撃可能である』
常人離れした駆動。背側面部へと放たれた左拳による自動迎撃が、異形の爪を撃ち落とす。
「びっくり人間ショーがテメーの専売特許だとでも思ったかよ。なら、残念——悪意や敵意は俺の領分だぜ」
爪を弾いた腕が、そのまま体のやや左後方へと落ち、強く地面を突く。
ふわり、と。片手でのバク転を想起させる形で、静の全身が逆さまに。長い両脚が振り子運動を経て大きく加速する。
マカコ・エスドブラード。
単体の蹴り技としては最大級の威力を誇るカポエイラの一撃が、再び影の頭部を撃ち抜いた。
勢い良く吹き飛ぶ黒塗りの異形。
着地と同時、更なる追撃の為に駆け出そうとする静。
「——!」
その行手を、静自身の足元に伸びた影より這い出てきた、二体の新たな『影』が阻んだ。
その背後から、先程蹴り飛ばされた『影』がのそりとその身を起こす。
一体目と全く同じ姿形をした二体の異形が、鋭く腕を振るう。当然それらの攻撃は静のパラドクスによって阻まれる。だが、完璧に虚を突いたその攻撃は、静の足を止めるには十分な代物だった。
——分裂……分身?どちらにしても、初めの一匹を庇い立ててるって事ぁ、こっちの連中はブラフ——
「——っ、めんどくせぇなぁ、おいっ!」
構えも新たに、静が吐き捨てる。
——コイツらを躱して本体を叩こうとすりゃ、仙波達が狙われる。かと言って、まごついてりゃ夜が来ちまう……っとにめんどくせぇ——!
敵の能力が影に纏わるものである以上、周囲一帯が闇に包まれる夜の訪れを悠長に待つわけにはいかない。
理想は、眼前の二体を即時行動不能に追い込んだ上で、奥に控える『本体』への追撃。
協力者……もしくは何か、『影』を縫い止める何か。存在しない希望に考えを巡らせるその愚に、静が舌打ちをした、まさにその時。
『故に、此処に在る』
空中より飛来した、白き光の柱。
召喚された光が、左右から静へと迫る黒き異形を貫いた。
その光の正体を、花蕗静は知っていた。
刺し貫いた対象の自由を奪い、強制的に行動不能に追い込む、幻想世界の天上兵器——名を『封露の天印』。
仙波星翠の『パラドクス』によって現界した、本来現実に存在しない筈の異能。それらに貫かれた二体の『影』が、その場に縫い付けられる。
「——っ!」
振り返ることも、声をかけることもせず、静が駆け出す。
——初手で本体を直接狙わなかったって事は、本体のあの位置は仙波の射程距離圏外……逃してたまるか——!
だが、一歩遅い。
光の柱に貫かれた二体の影が、溶け落ちる様に消え失せる。それに伴い『本体』もまた、忽然とその姿を眩ませた。
「——くそっ!」
『影』のパラドクスは解除された。
残されたのは、燃え盛る様な夕陽ばかりであった。




