『11時00分』
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古びたクッションフロアには所々、由来のわからない黒いシミがあった。
一時間程の換気を挟んで尚、室内の空気は澱んでいた。
からからと回る換気扇の羽音がもの悲しく響く。
部屋の電気は消されたまま。
食べ掛けのホットスナック。飲み残しのカップ麺。
それらの残骸を貪る蛆の群れ諸共、無表情のままゴミ袋に押し込み、縛る。
シニョンに結い上げられた赤い髪。
耳元で揺れる、巨大な金色のフープピアス。
花蕗静の——整いすぎるとすら言い表せる美しい顔を、遮光カーテンの隙間から差し込んだ陽光が無遠慮に照らした。
漂う埃が緩く反射して煌めいた。
清潔に洗われた食器類。
丁寧に畳まれた衣類。
部屋をぐるりと一周見回して、静は自身の清掃に不備がないかを確認していた。
「——カーテンを、閉めて」
部屋の片隅に敷かれた布団。
上半身だけを起こし、項垂れる。声の主は、女性だった。
手入れの行き届いていない、乾燥した髪の毛。
そこかしこに白髪が混じったそれらは好き放題に伸び、その表情を覆い隠している。
「けどよ、折角天気もいーんだ。少し陽の光も入れた方が——」
静が半歩、女性へと歩み寄る。
その顔を、ガラス製の灰皿が勢い良く叩いた。
「——その顔で‼︎‼︎私を見るな‼︎‼︎‼︎」
左瞼のやや上。額に向かって投げつけられた灰皿が、ごとりと鈍い音を立てて床に落ちる。
フローリングだったら割れていただろうか。
取り留めなく思いながら、静は足元に落ちた灰皿を拾い上げる。
ぽつりと。赤い雫が手元に溢れた。
流れ落ちた静の血が、拾い上げた手を伝い、灰皿を赤く濡らした。その様を見つめ……けれど新たに何か言葉を口にする事はなく。灰皿を汚した自身の血を拭い、女性の側にそっと置き直す。
踵を返し、玄関に。腕を伸ばし、女性の要望通り、遮光カーテンを閉め切る。
女性の荒い息。
薄暗い室内。
一度だけ振り返り、ただ一言。
「…………また来るよ」
花蕗静はそれだけを伝え、部屋を後にした。
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不躾な陽の光。
雲一つない、嘘くさいまでの快晴だった。
——まるでペンキをぶちまけたキャンバスみたいな節操の無さだ。
思いながら、静は頬を伝う自らの血を乱暴に拭う。
衛生面を考える事すら煩わしく。赤黒く汚れた手をポケットに捩じ込んで、歩を進める。
街は静かだった。
閑静と言えば聞こえは良いが、実際には都市再開発の折に見捨てられた古い家々の墓場。枯れた生活の名残。
シャッターの降りた個人商店。
人の気配のない、荒れた民家。
死んだ街の頭上を晴天が包囲する。歪なコントラストに吐き気すら催しそうになりながら、花蕗静は僅かばかり足を速めた。
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「こんにちは」
知らず。歩きながら伏せていた視界に、誰かの足元が飛び込んできた。自分が呼びかけられたとは咄嗟に理解出来ず……それでも反射的に、静は顔を上げた。
上げて、思わず息を呑んだ。
「あぁ、そうやって顔を上げてもらえると、表情がよく見えていいね」
青年だった。
ゆったりとした白色のカーディガンを羽織った、年若い青年。——白いのは、上着だけではなかった。
肩口まで伸ばされたウェーブの掛かった頭髪。
整った眉、長いまつ毛。
そして、肌に至るまで。
目に映る全てが、純白。透き通る雪のように、真っ白な青年だった。
唯一、虹彩だけは淡い灰色。異彩を放つその眼差しは、真っ直ぐ静へと向けられていた。
外見で人を判断する。
当たり前すぎるその行為を咎めるつもりなど、花蕗静には微塵もなかった。自ら望んで派手な風体を作り上げている彼にとって、色眼鏡で見られることなど日常茶飯事であったし、それが嫌ならそもそも当たり障りの無い身なりをしていれば良いだけの話だったのだから。
だが、だからこそ。自らはそうした物差しで人を見ないように努めていたことも、また事実。後天的ではない、生まれ持った特徴においては、尚の事。
だが、そんな彼の矜持を束の間とは言え忘れさせそうになる程、青年の風体は現実離れしていた。
「目立つでしょ?」
青年の言葉を受けてようやく、静は数秒、自らが惚けていた事を思い知らされた。
「本物のアルビノを見るのははじめてかな?」
「……そーだな。少なくとも、身近なツレにゃいねーな」
「不便な事も多くてね。それでも折り合いをつけながら生活はしているのだけど、見た目が目立つのだけはどうにも慣れなくてね」
「ソイツぁ難儀だな。そんで?そんな色白おにーさんが、何用で俺みてーのに声掛けてきたのか、お伺いしても構わねーかよ」
青年が、柔らかく微笑む。
「特別に用事がある訳じゃ無いんだ、実の所ね。ただ、君と少し話がしたいと思ったんだよ、静」
静の眼光が、仄かに鋭さを帯びる。
「コイツぁ光栄至極で咽び泣いちまうぜ。けどな、野郎二人で雁首並べて、一体何を楽しくお喋りしよーってんだよ。むさ苦しくて反吐が出らぁ」
「んー……そこまで深く、何かテーマを考えてきてはいないのだけれど……何が良いかなぁ」
「ノープランかよ。んじゃ、僭越ながら。俺がぴったりのテーマを投げてやるよ」
静が嗤う。
不遜を体現するかの如き、挑発的な笑み。
表されたのは、明確な敵意。
「テメー、誰だよ。なんで俺の事知ってやがる」
狂気めいた、暴力的な威圧の笑顔。
だが、青年に臆する様子は微塵も見受けられなかった。
どころか、益々その微笑みを深める。
「勿論知っているよ、静。君のことも——君が辿ってきた今日までのことも」
「——なんだと?」
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「花蕗静、十七歳。性格は粗野で好戦的。けれどそれは表面的な評価でしかなく、実際は他者の尊厳を慮り、見知らぬ誰かを救う為行動することの出来る人物。一年半ほど前、合掌抄帷の腕に浮かび出た〝鎖型の痣〟に纏わる調査の過程で菅野友尚の亡霊と交戦——君が『パラドクス』を獲得したのはこの時だね」
奇妙な青年だった。
語り口はどこまでも穏やかに、狂気も威圧も宿さない。
にも関わらず。彼の言葉を聞かずにはいられないと思わせる何かがあった。
「そして二ヶ月程前。仙波星翠が宿した『パラドクス』を巡る一連の奮闘も知っているよ。友の為勇敢に立ち向かった事。そして——救えなかった少女の事も」
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「なぁ、アンタ」
奇妙な青年だった。
言葉は真実だった。
「アンタが何者で、どーいうつもりで俺の前にツラ出したのか。わかりゃしねーがわかんねーなりに、別になんだってよかったし、話の一つ位やぶさかじゃなかったんだけどよ——」
それらはしかし、最早瑣末な話だった。
「ここから先は慎重に言葉を選べよ、ホワイトカラー。テメェの喉笛に未練があるんならなぁ」
嗤いも、不遜も、今や見る影も無く。
あったのは、敵意を塗り潰すに足る、どす暗い殺意だった。
だが。それでも青年は変わらず、穏やかであった。
「君の痛みは君だけのものだ。だから『俺』が、君の痛みについて言える事はないし、そのつもりもないよ」
「——……」
青年は、微笑む。
「繰り返しになるけれど、『俺』は君の事を知っている。けれど、『俺』は未だ、君の事を何も知らない。事実と情報の列挙はただの記号でしか無いし、それは君自身を言い表すに足るものじゃない。だから『俺』は、君と話をしに来たんだよ、静」
青年が、屈託なく笑った。




