10時27分
「……この間片付けたばっかりなのに……!」
乱雑に散らばった書類の山を見やって、仙波星翠が苦々しげに呟く。
スカートの端を引っ掛けない様につまみながら、狭い通路を見回してから、溜息を。そして、小さく頬を膨らませる。
尤も。やや丸顔に、垂れ気味な目……年齢より幾つか下に見られる事の方が多い顔立ちでは、怒りよりも先に可愛らしさが前に出てしまっていた。
その後方。
息を潜め、その場を立ち去ろうとする影が一つ。
だが、逃げ出すことは叶わない。
きっ、と。
大して迫力も無い眼差しは、それでもとりあえず、逃げ出そうとする明智小理を見逃す事はなかった。
「小理さん!出した資料はちゃんと戻してくださいって、私先週言いましたよね!」
「ぅえっ!あー……えっとー」
黒金のプリン頭をポリポリと掻きながら、小理が視線を右往左往させる。
「いや、これはっすね!ちょっと本当に立て込んでいたと言いますか、なんせほら!私も忙しいっすから!ね!」
「…………」
星翠がじとりと小理を睨め付ける。相変わらず圧は無いものの、そもそも己の非が明白なだけに、小理の抵抗も長くは続かなかった。
「……すみませんっした!」
いっそ清々しい程の、思い切りの良い謝罪であった。
「もう!……いいですけど、ちゃんと手伝ってくださいね!片付け」
「ぅぃーす……」
すっかりしおらしくなった小理は、ヨレヨレと星翠のもとへと足を運ぶのであった。
——————
阿島探偵事務所。
長らく所長・阿島京介と助手・明智小理の二名体制を貫いてきた事務所に、アルバイトとして仙波星翠が雇われたのが二ヶ月ほど前。
当初こそは借りてきた猫……もとい預けられた子犬の様に大人しかった少女はしかし、今ではすっかり事務所設備管理の長然とした働きっぷりを発揮していた。
「……こんなこと言いたくないんですけど、私が来る前、掃除って一体どうしてたんですか?」
「えーっと……とりあえず適当にファイリングして、空いてる棚にこう、ガーッと……」
「……位置を動かしてスペースを作る事を、掃除とは呼びません」
「耳痛っす……」
益々しょんぼりしてしまう小理の姿を見て、思わず小さく笑いながら、星翠は整理整頓を続けた。
——————
「あれ?」
ふと、星翠が片付けの手を止める。
「どしたんすか?」
「いえ、これ……」
言いながら。星翠は散らばったファイルの内一冊を手に取り、ページをパラパラと捲る。
「あー……明石一家惨殺事件に纏わる資料すね。星翠ちゃんには刺激強いだろうから、あんまじっくり見ちゃ駄目っすよ」
「そんな、小さな子じゃないんだから……それにこの事件、そもそも凄く有名じゃないですか」
——明石一家惨殺事件。
2006年という、20世紀の名残色濃い21世紀の初頭。
世紀末から尾を引く、薄ら暗い社会の空気を反映した凶悪殺人。
発生、そして解決から二十年。
赤子が大人になるだけの年月を経てしかし、事件は一切風化の気配すらなかった。
「知名度あるのは知ってるつもりだったけど、星翠ちゃん位若い子でも知ってるんすね」
「都市伝説系のYouTuberさんとか、未だにこの事件の話よくしてたりしますもん……というか小理さん、言うほど歳変わんないじゃないですか」
「ばっ、星翠ちゃん!まじ良くないっす!十代後半と二十代半ばをそんな……吐いちゃいそう」
「我慢して下さい」
「厳しい」
——————
「けど、確かこの事件ってもう解決済みですよね?未解決ならまだしも、既に終わった……それもこんな昔の事件資料、なんで今になって目を通してるんですか」
星翠の言葉は正しい。
明石一家惨殺事件は被疑者死亡でとうに幕を閉じている。幾つかの不可解、異質を抱えてこそいるものの、一介の探偵が今更当時を掘り起こす必然は思い付かない。
「んー……まぁ、わざわざ今、って訳でもないんすよ。折に触れ、暇を見つけて、掘っくり返しちゃ調べてるんす」
星翠は首を傾げる。
具体的な目的を持たず、思い出した様に読み返すには物騒すぎる内容であるのは間違いがなく。回答を得て尚、益々わからなくなるばかりであった。
視線を再び捜査資料へ。
当時の新聞の切り抜き。色褪せたメモ書き。捜査線上に挙がったであろう、幾人かの名前。その内の、一つ。
「——『明石真』」
時代が変わり。
時が移ろい。
さりとて僅かも霞むことも忘れ去られることもなかった、ある凡庸な名前。一家惨殺の犯人とされる、当時七歳の少年。突入した警官たちの眼前、なんの躊躇いもなく自らの首を包丁で突き刺して絶命した、異常者。
「——『アンタ方の大好きな現実の、今日が命日だ。この先は、逆説が蔓延る釜の底だ。長生きしたけりゃ皆様方、精々丁寧な暮らしを心掛けて、どうぞ』」
はたと顔を上げて、再び星翠は首を傾げる。
「……なんですか、それ?」
「最期の言葉っすよ。犯人、明石真の。事件の異常性だけだったら私らも今ほどこの事件に固執してなかったと思うっす。けど、この言葉は——」
星翠の表情が強張る。
確かに不可解。不気味で意図の見えない、奇怪な言葉。
だが、何よりも。言葉の中に含まれた、ある一つの単語こそ、明智小理……そして阿島京介がこの事件を追いかけ続ける理由なのだと、星翠は即座に理解した。
そしてそれは。今や仙波星翠にとっても、到底無関係とは言い難い、一つの言葉だった。
——————
呼び鈴が鳴る。
二人は揃って顔を見合わせ、どちらからともなく首を傾げあった。
「お客さんの予定はなかった筈っすけどね……」
壁にかけてあるホワイトボード。記された予定の空白を確認した後、それでもまさか居留守をするわけにもいかず、小理が入口の戸を開ける。
開けて。
「ぅぉあ」
なんとも間の抜けた声を上げた。
星翠もひょいと身を乗り出し、来訪者へと目を向ける。
来客は女性だった。
艶やかな黒髪、整った顔立ち。両耳には小ぶりな一粒石のイヤリング。
白のボウタイブラウスにペンシルスカート。姿は正しく、王道の秘書然としたものだった。
「ど、どうしたんすかヨシクニさん!な、なにか御用でして……?」
上擦った小理の言葉に、秘書風の女性が丁寧に一度会釈を挟んでから、口を開く。
「突然申し訳ありません。本日は一件、依頼をさせて頂きたくお伺いいたしました」
風体に違わない、明瞭ながらも事務的で、簡潔な言葉だった。
「依頼……ってヨシクニさんがすか?それとも……」
「私ではありません。『オウ』の意向です」
「ですよねー……ただ申し訳ないんすけど、今所長は留守でして……」
——『オウ』?
星翠が眉を顰める。
日本人名にしては珍しいその響きには、違和感があった。
その違和感に対しての考察を進めるよりも早く、女性の目線が星翠へと向く。
静かで、熱を帯びない……にも関わらず真っ直ぐにこちらを見据えるその眼差しに、一先ず小さく会釈で応える。
「あ、彼女はウチのアルバイトさんでして……」
「はい。存じております」
言い掛けた小理の言葉を半ば遮って、女性が続ける。
「阿島様が不在であることも承知しております。その上で、問題ありません。依頼は彼ではなく彼女……貴女宛のものですので」
「——私、ですか?」
視線は尚真っ直ぐ、仙波星翠へ。
女性が改めて腰を折る。
「はじめまして、仙波星翠様。私は吉國天麻と申します。本日は貴女様に依頼があり、お伺いいたしました——
『幻想世界を創出する逆説』、パラドクス能力者である貴女様に」




