「アンタへ」
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それは多分、初めて目にする表情だった。
組み伏せられた時に負ったのだろう、頬には青痣と埃汚れ。唇も切れ、薄く血が滲んでいた。
額にはびっしりと汗が浮かび、その両肩は未だ呼吸の度に大きく揺れていた。
大きな隈の奥、燦然と煌めく双眸にはけれど、悲壮感はなかった。狂気も、病理も——今日までの彼の強さ、その一端を確かに担っていただろう白熱する意志の光が、今だけは消え失せていた。
代わりにあったのは、少しだけ困った様な表情。
困り、戸惑い、躊躇い、僅かに怯む。
これまで彼がずっと、決して誰にも見せない様にひた隠していた筈の感情の数々が、そこには確かにあった。
傲慢不遜も。凶暴凶悪も影を顰めた花蕗静の顔は、心なしか普段よりも少しだけ、幼く見えた。
「お疲れのところ悪い、仙波——その、お願いがあるんだけどよ……」
嫌な事を、沢山言われた。
嫌な態度を、沢山とられた。
まるで伝わらなかった私の思いを、伝わらないまま蔑ろにされた憤りも。それら全部から目を背けようとしている事に対しての怒りも、確かに全部あった。
それでも今は。今だけは、不思議と。
この場でそれらを掻い摘んで、糾弾する気にはならなかった。
「——なに?」
ぐっ、と。何をか一つ、飲み込む様な仕草を見せて——花蕗静は、声を絞り出す。
「話したい事がある。虫がいいのは百も承知で——それでも、仙波が良いって言ってくれるなら、俺の話を聞いてほしい」
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その顔を、真正面から見たのは、随分と久し振りであった様に思えた。
大きな瞳。
仄かに蒼さを湛えた美しい虹彩が、静かにこちらを見ている。喜怒哀楽の起伏の過ぎ去った、ただ穏やかなばかりの——けれどとても真剣にこちらの言葉に耳を傾けてくれているその表情は、不思議と普段よりも少し、大人びて見えた。
「——————ごめんっ‼︎」
その表情に、頭を下げる。
堅苦しい謝罪の為のポーズではなく。
誇張した所作で責任をうやむやにする為でもなく。
ただ、伝わって欲しいと。
この言葉に……抱いた想いに、一片の偽りだってない事がちゃんと伝わるようにと。
「——それは、何に対してのごめんなの?」
手厳しい言葉。
普段の彼女ならば決して選ばないだろう、棘を含んだそれらに、胸を締め付けられる。こんな言葉を選ばせてしまったのは——きっと俺自身で。
「——アンタがあれだけ案じてくれた俺自身を、誰より先に俺が蔑ろにした。アンタの意思なんて、まるで意味もないものみたいに扱って、踏み躙った——酷いことを、沢山言った。酷い態度を、とった」
「——うん」
「アンタが俺を大切だと言ってくれた、その言葉を軽んじた……いや、違うな。それが本心だって認めちまうのがおっかなくて、出来なかった。アンタに俺を——大事になんて思って欲しくなかった」
「——どうして?」
吐き気がする。
こんな言葉を、他人に聞かせるなんて、本当は耐えられない。
けれど。
それでも——もう、コイツに嘘はつけない。
自分を守る為、コイツを傷付けるばかりの嘘なら、もうつきたくない。
「——返せるモンが、ねーと思ったんだ」
「——……」
「アンタがくれた、嬉しかった言葉や……その想いに応えられるなにか——自分がそんなもんを持ってるなんて風には、これっぽっちも思えなくて……アンタはそれでも構わないって言ってくれたけど、だけどどーしたってそんな風に考えちまったんだ」
「——…………」
その挙句選び取った心無い言葉と、行動。
それらがどれだけ、彼女の心を痛めるかなんて、ちょっと想像すればわかった筈なのに。
「……だけど、アンタは折れないでくれた。こんなにもクソ面倒臭い、俺みたいな奴の幸せを……アンタは本気で願ってくれた」
だから、欲が出てしまった。
守るべき相手じゃなく。
ラキエスの代わりでもない。
ただ一人。たった一人……かけがえのない、大切な人。
「だから、もし許されるなら——仙波が許してくれるなら——……」
俺に意味がなくても。
価値がなくても。
一緒に居たいと願った人。
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「———俺と、な、仲直りして欲しい、です……——」
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「……酷い事、いっぱい言われた」
「本当にごめん。どんな理由があろうと、もう二度と言わねー」
「……朝、挨拶無視された」
「俺がガキ過ぎた。何があっても、二度とやんねー」
「……テメーの席はないって言われた」
「心にもねー大嘘だ。アンタが座ってくれる席なら、無くたって仕立てる」
「……私への思い入れなんて、無いって言われた」
「——アンタより思い入れのある奴なんか、他にいねーよ」
「——危ない事は、もうしない?」
「………………………………」
「…………………………おい」
「い、いや!でも、だぜ!その結果、テメー自身を使い潰す様な真似は金輪際しねー!」
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言いたい事は山程あった。不平も不満も、愚痴も文句も。傷付けられた気持ちに蓋をしたまま笑えるほど聖人めいた人間では無いし、そもそも彼にどんな理由があったとしても、だから私が傷つけられてもいいなんて道理はないのだから。だから、本当は。許す事ができるのか——もう、本当にわからなくなりかけていた。
だけど、知らなかった。そして、知ってしまった。
心から信頼していた誰かから、真っ直ぐに自身を求められる嬉しさと、喜びを。返された信頼の厚さが、これほどまでに胸を打つ事を、仙波星翠は知らなかった。
百の甘言も。千の大言も。
目の前の少年から向けられた、不器用な言葉に比べれば、世界からの賞賛でさえ、遠く及ばない。
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「それ、は——ラキエスの代わり、だから——?」
ボロボロと大粒の涙が溢れ出す。
嗚咽の様に声を詰まらせながら搾り出されたのは、少しだけ意地悪な言葉。
その答えを、私は期待している。
望んだ言葉を言って欲しいと、願っている。
そして、望みは確かに叶えられる。
「冗談抜かせよ——アイツは大事な友達だ。アンタにアイツの面影を見た事がなかったとは、もう言わねーよ。でも、俺が大事なのはアンタだ。俺にとって何より重くて、俺自身よりも大切なのは……他の誰でもない、仙波星翠だ」
涙が止まらない。
顔はきっとぐしゃぐしゃで、目も当てられない事になっているに違いない。そんな顔、本当は彼に見られたくなんてなかったけれど。
「わた、しが——便利な、『パラドクス』を、っ、持ってるから——?」
貴方の答えを期待してる。
知っていると言い切ってしまいたいほどに、強く。
「スペックで大事なもん選ぶほどドライじゃねーよ……アンタのツラが潰れても、アンタの中身が変わっても、俺がアンタを大事に想う事はかわんねーよ」
だから。どうか。最後の願いを、どうか。
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「——一緒、に、居て、くれますか——?」
「……アンタが許してくれるなら、一生だって」
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「——————許すぅぅぅぅっうぅぅぅ———」
どぱっ、と。
遂に限界を超えたらしい、星翠が大号泣してしまった。
慌てふためく静。それを和やかに眺める、ソムヌスと京介。そして、大変極めて度し難く不機嫌そうな女王デケム。
幻想と逆理。
現実と虚構。
入り乱れ、しかして同じ道を歩み切った五人の肩から一斉に、ようやく力が抜けた。




