11時02分
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何を考えていたのかと問われれば、答えはきっとただ一言。
「なにも」
ただ、誰かが傷付こうとしている。その傷の先に、避けられぬ死があるかもしれなかった。だから走った。思考は精々、その程度だった。
明石真の横を素通りに、ただ真っ直ぐに窓へと向かう。
滑って自分まで落ちてしまえば何にもならない。故に左手は窓枠に。砕けたガラスの破片へと向けて、叩きつけるが如く掌を。
破片が食い込み、裂けた肉から血が吹き出す。だが、構わない。
痛みなら耐えればいい。今はただ、その腕を伸ばす。
既に半ば外へと放り出されかけていた老人の手を、花蕗静の腕が——確かに掴んだ。
「——っいってぇぇぇ‼︎‼︎」
思わず叫んで、静が顔を歪める。歪めてそれでも——大きく息を吸って、吐いて。全霊を込めて、叫ぶ。
「——じぃさん!絶対に離すなよ!俺も絶対に離さねーから!」
吹きこぼれた血が、滴る。
その血を顔に受けながら——老いた男は驚愕に目を見開いていた。信じられないものを見る……正に、そんな眼差しであった。
「——君は、私は、君達を——」
言葉は最後まで続かない。
投げ出された先。足元には遠い地上。
断崖の向こうにあって、辛うじて紡がれた途切れ途切れの疑問。その全容はしかし、確かに花蕗静にも伝わっていた。伝わって——それでも。
「——だからって死んじまう事もねーだろ!くたばりてーんなら俺の目の届かねー、他所でやってくれ!」
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ご大層な矜持も、高尚なお覚悟もありゃしねー。
ただなんとなく、って奴だ。
俺の生き方が、誰かの為に何かをしようとしてる、みたいに他所から見えたとすれば……そこにある動機なんざ、その程度のもんだ。
——笑えるぜ。
明石真の言葉は、正しい。
俺は俺の空っぽを誤魔化す為に、偽善を積み上げ続けてきた伽藍堂だ。そんで、そんな自分を多分——俺はこの先も変えることが出来ない。
先着順で片っ端から手当たり次第、困り顔の連中を拾い続ける。なんの責任感も、決意もないまま。だからこれは善行なんかじゃない。ただの、俺の生き方だ。
ずっと昔からそうだった。
それが今になってこんなにもゴチャくそ考えちまうのは、欲が出ちまったからだ。
——アイツから教わっちまったから。もっとカッコいい生き方があるってのを、アイツから。
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そう。これは、憧れだ。
俺はアイツに——ラキエスに、憧れたんだ。
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幻想世界の童顔魔法使い。
口煩くてお調子者で……多分死ぬほど気の合う奴だった。
アイツが教えてくれた、テメェの生き方に名前を付けるってのの、最初の実践相手がアイツだった。
そんで——俺は、しくじった。
しくじって、ラキエスを亡くして、ビビって芋引いたんだ。本当に間抜けで、しょうもない話だ。
だから、もう全部どうでもよくなっちまったんだ。
パラドクスだの母親だの、花蕗静だの。
もう何もかも全部どーでもよくて……捨てちまおうと思った。しくじった挙句に恥晒しながら生きていくのもしんどくて、その割に投げ捨てる事もできなくて。
だけど、捨てられなかったもんがあった。
俺は結局、染みついた偽善を捨てられなかった。
しんどそうにしてる奴には手ぇ貸したくなっちまうし、それで俺が迷惑被ったって笑っていられた。放っておくってのが出来なかった。
それと、もう一つ。
どうしても幸せになって欲しい、なんて小っ恥ずかしい事を思っちまう相手が残っちまった。
頭が良くて、ツラが良くて。
気が利く割に控え目で、変なところで妙に抜けてる。
弱くて、弱くて——そんで、俺よりずっと強い、アイツ。
仙波星翠。
俺の憧れた友達と、同じ魂を持った奴。
ふと、考える。
俺はアイツの幸せの為に、どこまでやれるか。
アイツの幸せのトレードオフに、どこまでだったら差し出せるか。そう考えて答えが出ちまった時……俺はアイツから離れようと思った。
全部だ。全部。
アイツがそれを望むなら、俺は俺の全部をアイツにくれてやれる。
アイツも、アイツの家族、友人、恋人。そんな全部を守れるってんなら、俺は俺の全部を賭けられる。……我ながらドン引きする位重い話だから、本人には一生伝える気もないけどよ。
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腕が上がらない。
万全の体力ならまだしも、今の消耗し、痛み切った花蕗静に人一人を片腕で持ち上げるだけの余力は、ない。
吹き出す汗と、手のひらから溢れる夥しい出血。それでも——花蕗静は、歯を食いしばる。
「うへぇ、痛そ〜。手ぇ貸してやろうか?青少年」
「いらねーよ、都市伝説!ただ、今ぁ手ぇ出すんじゃねーぞ!」
「合点承知……飲み物掻っ払ってくるけど、なんかいる?」
「水!」
「りょ〜かい〜」
立ち去っていく明石真へと視線を向ける余裕は無い。
それでも——この手を離す選択肢など、ありはしない。
ラキエスの仇だった。
仙波の、俺の仇だった。
その首を落とせる千載一遇を棒に振ってまで、俺は一体何がしたかったのだろうか。思わず、自嘲気味な笑みが溢れる。
それでも。
諦めるな。
手を離すな。
責任なんか負えやしない。それでもいいから、無責任のまま人を助け続けろ。
——こんな自分に、意味は……価値はあるだろうか。
ふと、今はもう届かない記憶の少女へと問い掛ける。
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思い出すのは、青髪の少女。
丘陵の只中、風吹く中心に佇む雷霆の魔法使い。
記憶の中のラキエス・シーシスは——確かに笑っていた。
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「——ムシの良い話だよな、ったく」
俺は、間違ってる。
正しくなんて無い。
仮に、この今日を超える事が出来たとしても——いつか必ず、この偽善は俺自身を殺すと思う。
でも、もう構わない。それならそれで、もういい。
それでも、証明してみせる。
自罰も、内罰も糞食らえだ。
もう、諦めた。
「——見てろよ、ラキエス」
今はもう追いつけない遠い背中に、今こそ宣戦布告を。
彼女の救ったこの命が、救うに足るものだったと。俺自身の手で証明してみせる。
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「花蕗君‼︎‼︎」
声に、顔をあげる。
どうやって登ってきたのか……十メートルほど離れた位置に、仙波星翠の姿があった。その背後には、両手にコーラと水のペットボトルを持った、明石真。
「——————」
引き上げることは出来ない。
左手は既に見る影もない程に斬り裂かれ、仙波星翠の救助を待てるだけの余力など、残されてはいない。
俺だけの力では、もうどうにもならない。
『故に』
「——明石真‼︎」
「んん?」
花蕗静は、笑った。
「テメー、すぐに戻ってくるからよ!ちっとここで待ってろ!——後、仙波に手ぇ出すんじゃねーぞ!」
「お〜、了解。ごゆっくり〜」
「っと、仙波‼︎」
明石真には目もくれず。花蕗静が、仙波星翠を見つめる。見つめて……ニヤリと不敵に笑ってみせた。
「愛想尽かしてくれてなきゃ、って話だぜ」
「——え?」
次の、瞬間。
「——頼む、助けてくれ!仙波!」
手は窓枠から離れ——花蕗静と【影】の男は共だって、外へとその身を放り出された。




