10時25分
「『鈴音よ、黒い旅人よ』」
人混みの中、極めて小さな声で紡がれるは、幻想世界の祝詞。言葉にを伴い現実を塗り替える、超然の異能。
『パラドクス』を経由することで自らの内包する幻想世界の理を現実世界に持ち出すことによって実現される能力の多彩さこそ、仙波星翠最大の強味であった。
広域検知・索敵魔法。
以前に検知・記録したことのある対象を割り出す、補助能力。その効果範囲、半径20m。
鋭敏な触覚が拡張されるような奇妙な感覚を味わいながら、星翠はまたしても、静の顔を盗み見た。
合わない目線。
交わされない言葉。
寒々しい沈黙ばかりが流れる時間の中で、星翠は思う。
いつもの様な軽口を言ってはくれないだろうか。
不遜で不敵……けれど楽しそうに笑ってはくれないだろうか。
我儘すら許されるなら。懸命に慣れない力を使い、敵を探すこんな自分を、荒っぽく励ましてくれはしないだろうか。
叶わない。
何一つ、ここにはない。
彼の示した断固たる拒絶。その遂行のために、遂に選びとられた沈黙という手段。閉ざされたその口を、心を。開け放つ術を、仙波星翠は持ち得なかった。
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他人からの押し付けじゃない。
彼が選んだ、世界の終わり。
仙波星翠は——知っていた。
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索敵を起動しつつ、人混みを縫って歩く三人。
テラスに寄った位置まで辿り着いた、そのタイミングで。星翠の足が、止まる。
「——居た」
星翠が短く口にする。
検知魔法は正確に、『影』の能力者の所在を捉えていた。
——展望テラスのすぐ近く。未だ姿は見えないが、間違い無く、そこにいる——。
「——では、はじめましょう」
吉國天麻の言葉を皮切りに——突如、エルミレオ全体にけたたましいベルの音が鳴り響く。加えて遠く、何処からか……何某かが炸裂する様な爆発音までも。
『ご来館中のお客様にお知らせいたします。只今一階、専門店フロアにて火災が発生しております。ご来館中のお客様は、近くの従業員の指示に従って、速やかに避難をお願いいたします。繰り返します——』
「——エルミレオの従業員には複数名、『青い通行券』の協力者がおります。これは彼等による演出……実際には怪我人一人出ませんので、ご安心ください」
天麻のあっさりとした物言いに、静が溜息を吐いた。
「言ったろ、どーでもいい」
「これは失礼……では、私も一般人の避難誘導に向かいます。お二人とも、ご武運を」
踵を返し、天麻が立ち去る。
残された二人が、共に視線を上げる。
言葉も交わさず。
今や余りにも遠のいた心のまま——しかし目指す現実、だけは確と。
老齢の、スーツ姿の小柄な男性。
喧騒の中立ち止まり、周囲の様子を窺うその姿は、明らかに不自然だった。
——アイツか。
出口へと向けて駆ける群衆。その、人の流れとは逆方向に。老齢の男へと向けて、静がゆっくりと距離を詰めていく。
男の目線が、静を捉える。
シワの刻まれた顔の奥——見開かれた双眸が、何より雄弁に事実を語る。
検知の魔法、対面の反応。
否定の根拠は既に無く……故に、花蕗静は問い掛ける。
「投降するつもりがあるなら、言えよ」
意思の確認。
短く放たれた言葉の源泉は、決して相手を思い遣ってのものではなかった。抵抗も投降も——今の花蕗静にとっては、どちらもおしなべて等しく、どうでもよかったのだから。
一瞬の逡巡を挟んだのち、老齢の男が観念した様に口を開いた。その声は確かに、昨晩対峙した『影』が放ったものと同じだった。
「——君の雇い主は白き【王】だな、少年。君は、彼の目的を正しく理解しているのか?」
挑発か、探りか。
その言葉の真意でさえ、今は煩わしく。
「——投降はなし、だな」
呟く様に一言放った、次の瞬間。
花蕗静の足が、地面を蹴った。
——————
右側には映画館、左手側にはレストラン街。
同フロアに既に人の波は既になく。
残されたのは、逆説の住人が三名のみ。
奥手の大きな窓——テラスを背にした男の元へと向かい、赤い影が猛然と迫る。
老いた男は徒手空拳。
武器や武装の類は確認出来ず、周囲に協力者の姿がある訳でもない。足下に伸びる影は影のまま、動き出すことも牙を剥く事もない。男を助ける何かしらは、今この場のどこにもなかった。
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『故に、実体である』
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ずるりと。
影を媒介にして這い出る様に、異形がその姿を現す。
影という非実体……観念ないしは現象と呼べるそれに、実存性を付帯させて現界させる、逆説の異能。
——やっぱ、仙波の『パラドクス』の下位互換だな。制御出来るのも相変わらず影限定……【王】様の読みは当たりって訳だ——
物質的な無から有を産み落とす逆理。奇しくも、仙波星翠と『影』の男の能力には共通点が存在していた。
だが、遠く及ばない。
【影】という限定的な事象のみを媒介とする男の能力は、幻想世界そのものを内包し、その領域内の理を操る〝魔法使い〟仙波星翠のそれとは比較にもならない。ならば、恐るるには足らない。
——〝魔法使い〟、か。
ふと。花蕗静は、小さく微笑んだ。
——————
多分。
今の俺を見たら、アイツは怒るだろう。
そんなつもりで助けたわけじゃないと、あの小さな身体で……幼い顔立ちで、凄まじい剣幕で怒り散らかすだろう。
——本当は、知っている。
己の無力が殺した少女、なんて認識自体、アイツに対しての冒涜だという事を。
決して事実に即してなどいない、俺自身にとって都合の良い自罰に過ぎないと。
けれど。そうでも思わなければ。そう、言い聞かせなければ。この身体は——この自身はもう、一歩も動けないかもしれないという恐怖があった。
何も出来ず。
何も成せず。
無為に死んでいく事が、怖い。
何も求められず。
何の価値もなく。
のうのうと生きていく事が、怖い。
すすんで今日死ぬつもりなんてない。
けど、今日死んでも構わない。
〝魔法使い〟——ラキエス・シーシス。
その内に、アンタに今の俺をボロカス叱られちまうなら——それも悪くないよな。
——————
影の異形が、男を庇い立てる様に立ち塞がる。
その両手は交差され、防御体勢をとる。
星翠が一瞬、眉を顰めた。
花蕗静の『パラドクス』——絶対堅守の自動迎撃。堅牢を誇る逆理の盾にはしかし、明確な弱点が幾つか存在する。
とりわけ、この場において問題となるのは二つ。
能力の運用が両腕に限定される事と、攻撃への転用が出来ないこと。故に、後手での戦闘ならば無類の強さを有する少年に対する策としての〝見〟は、正しい。
花蕗静が先手を取るなら、その選択肢は蹴り技。
注意するべきは腰から下。
最上段からの蹴り落としも、中下段への蹴り払いも、出所がわかっているなら、押さえ込める。
「——花蕗君!」
敵の狙いは、後の先取り。
思惑を看破した星翠の叫びが響く中——花蕗静の足が、止まる。
影の異形の脇、その半身と交差気味に出した左脚。
広く開いた右足と共に、斜に構えた体躯はわずかに前傾、左の半身が異形に迫る。
緩く、握り込まれた左の拳が鋭く振るわれる。
「——!」
突進による慣性を踏み込みによって加速させ打ち出されるは、高速のジャブ。
人中、顎先から下方に狙いを下げて、水月。
一息、矢継ぎ早に放たれた正中線上三連撃。
クロスガードを掻い潜る、常理の拳。その一連を目の当たりにして、仙波星翠は舌を巻いた。
——迎撃不可能を撃ち落とす、絶対堅守の逆理。その能力は、必ずしも常時発動しているものではない。
迎撃待機状態への移行……花蕗静の『パラドクス』にはオン・オフが存在する。
——『パラドクス』を、切っている。
自動迎撃の逆理を意図的に無効化することで、防御運用のみに限定された両腕のリソースを解放し、初手の攻撃に採用する。『影』の男は勿論、仙波星翠ですら想定していなかった、予想外の不意打ちであった。




