22時00分
「…………」
天麻に案内された客室の内装は、丸っ切り高級ホテルのスイートルームそのものであった。
白とブラウンの二色で統一されたクラシカルなインテリア。大きな窓から望む夜景は煌びやか。室内にありながら、流れる空気は非日常。室内を数度見回して、花蕗静はげんなりとした様子で眉を顰めた。
——広すぎてまるで落ち着かねぇ。
乾かし終えた髪をポニーテールに括り、体を伸ばす。
汗を流す事ができたのは喜ばしかったが、影との戦闘で全身に付いた切り傷がとにかく沁みるのだけはどうにもならない。くまなく疾るひりつく様な痛みに小さな苛立ちを感じつつ……さりとて身体的なパフォーマンスを損なうほどの損傷ではないと、気に留めることを止める。
リビングスペースに設置されたソファに腰掛け、一息をつく。思考は、今ここには居ない……守るべき女性、同級生……そして未だ無事を確認出来ていない幻想の女王へと。
久遠寺御言の言葉を信じるならば、恐らくデケムは無事。それでなくとも、幻想世界の創造主たる仙波星翠の安全が保証されてる今、そこまで気に病む事もないだろう。故に、思考は別の方へ。
女王デケムが再臨した。では、他の『テサウル国物語』の住人もまた、再現界が出来るのではないか。
「——……っ」
追い詰められた窮地において、そこまでを考える余裕はなかった。死地を脱した今だからこそ脳裏を掠めた、都合の良い妄想。すなわち——あの日救えなかった友との再会という、夢物語。
「——抜けたことほざくなよ、クソ馬鹿が」
だが。それは、実現してはならない紛い物。
彼女が最期の瞬間……瀬戸際に遺した、ささやかな願い。この世界でたった一人しかいない自らを証明するという、文字通り命を賭した彼女の命題を踏み躙る如き行為。
——これは多分、呪いだ。
仙波星翠の身近に居る限り、生涯俺を苛む、柵だ。
見やれば見やるだけ、語れば語るだけ。
仙波星翠の声に、言葉に、眼差しに……俺は確かに、アイツの影を見ている。そして——あまつさえ、今は望んでさえいる。
誓いも、尊厳もいらない。
だから、もう一度。アイツに——……
「……救えねー話だぜ、どうにも」
目を閉じ、大きく息を吸う。そして、自らの為すべき事を確かめる。
——明日が最後だ。
幸い、彼女の側には阿島京介も、明智小理もいる。同級生には合掌抄帷……ジョーカーとして遠野稔だっている。デケムは……ぶっちゃけわからんが。
それでも。アイツには、アイツの助けになる様な連中が山程居る。そもそもアイツ自身、端から誰かの助けなんざいらねー位ハッキリとした強さを持った奴だ。……俺がいらねー世話を焼く必要なんてのは、最初から無かったんだ。
だから、明日。
明日が、最後。
この先のアイツの行先に、俺の席は必要無い。
「——嗤えよ、花蕗静」
それだけがお前の存在証明だろう。
だったら、投げ出せよ。
お前の持ってる全部を賭けろ。
それ以外、お前の価値を認める術なんて——
「——!」
インターホンが鳴る。
やたらと上等な呼び出しの音に辟易としながら、静が扉を開ける。
警戒心はなかった。
そもそもこのビルは久遠寺御言の城だ。奴に敵意があるならば、最早この場において打つ手はない。そんな、半ば破れかぶれの無警戒。そんな心持ちをしかし、更に斜め上から殴りつける様な予想外に、静が目を丸くした。
「……仙波?」
シャワーを浴びた後らしい。僅かに水気を帯びた髪、やたらと上質な質感の寝巻きに身を包んだ仙波星翠がそこに立っていた。
「こ、こんばんは」
「お、おう……お久しぶり?」
——————
「月波さん……お母ちゃんの方は大丈夫なのか?年頃の娘に無断外泊なんざ、蓋開けちまえば顔向け出来もしないぜ」
「抄帷ちゃんと小理さんが上手く話してくれてるみたい……年頃の娘て」
促され腰を下ろしたソファの座り心地を楽しみながらの言葉に、静が小さく笑みを浮かべる。
「厳然たる事実だろ。長丁場は避けたかったんだけどな……ま、そう上手くはいかねーや」
自らも星翠の対面に腰を下ろし、静が星翠を見る。
見て、ふと。数時間前の会話を思い出して、少しだけ苦い顔をする。話は何一つ終わってなどいなかったし、答えは何一つ出てなどいなかった。
「…………」
「…………」
沈黙が、流れる。
仙波星翠にプランなどなかった。
甘ったるい浮かれた気分も、先刻の白熱した怒りをぶつけるつもりもないまま。兎に角一目、少年の、顔を見るためだけの来訪だった。
一方の花蕗静に、迎え入れる言葉などなかった。
白状すれば、彼女が自らを訪ねてきた明確な理由を正確に理解しているわけでも無い。そうでなくても、灼熱の様な意思をぶつけられ——そして、そんな想いに対する答えの一つも未だ見つけられていない只中で、言うべき何かなど見出せる訳もなかった。
二人は共に、次の一言を探しあぐねていた。
「あー……仙波」
「は、はい!」
やがて。重く閉じた静寂を破ったのは、静だった。
「その、よ。なんっつーか……ま、変な言い回しになっちまうんだけどよ……その、悪かったな」
「……!」
静が肩をすくめ、頭を掻く。
「ご指摘いただくまでもなく、って奴だ。アソコで俺の首ぃ晒したトコで何がどーなった訳でもねー……追い詰まって、テンパって、愚策に突っ込んじまった。アンタの言う通り、アレは褒められたもんじゃなかったぜ」
「……っ」
星翠が、下唇を噛む。
先程までは柔らかく、穏やかそのものであった眼光に、感情の煌めきが宿る。
「身の程を知る、でもねーけどよ。明日こそは任せとけよ、文学兎。今度こそは——明日だけはきっと、もっと、上手くやってみせるからよ」
——————
言い争いがしたい訳じゃなかった。
あのやり方が正しかったなんて、なにがあったって決して認められやしないけれど。それでも彼があの異常事態の只中、私を救うために全力を尽くしてくれた事……私の無事を心の底から喜んでくれた事は、素直に——嬉しかった。
醜く——或いはいっそ歪んですらいる愉悦かもしれない。それでも、彼が——花蕗静が仙波星翠を大切にしてくれていると言う事実が、どうしようも無く嬉しかった。
彼は絶対に消耗している。
だから本当は——上から目線みたいで気が引けるけど、少しでも彼を労いたかった。
場違いな世間話でいい。
ほんの僅かでも、楽しく言葉を交わして、笑った彼の顔を見られれば、それでよかった。
——なのに。そう、本気で思っていたのに。
「——上手くやって、なんてお願いしてないよね?私。そんな事で怒ってるんじゃ無いって、ちゃんと伝わってなかったのかな」
気付いた時にはもう遅い。
怒りの言葉は口を突いて、烈火の如く噴き出していた。
——————
「さっき、感情的に捲し立てたのは、本当にごめん。あんな言い方じゃ伝わりにくかったし、分かりにくかったと思う。だから今、もう一度ちゃんと言う。なんで花蕗君は、自分の命っていう一番誰かに譲っちゃいけない場所を、そんな簡単に、蔑ろにしちゃうの、って聞いてるの」
静が思わず、口を結び、身を引く。
「……あれ、仙波さん……もしかして、メッチャキレてる?」
「軽口ではぐらかさないで、ちゃんと答えて。花蕗君の話はいつも好きだけど、今は嫌だ」
ぴしゃりと、言い切られて……観念した様に静がもう一つ、乱暴に頭を掻いた。




