21時05分
「仙波——!」
走る。
少年の手を引いて、守るべき女性の前を、ただ走る。
早鐘の様にけたたましく暴れる心の臓を押さえ込む様に、胸元をもう一方の手で握りしめながら、決して立ち止まる事なく。
「仙波——————!」
聞きたくないと思った。
自分の後ろを走る少年が、次にどんな言葉を口にするかは、想像に難くなかった。だから、そんな言葉は——お願いだから今は口にしないで欲しいと、強く思っていた。
「待てって、仙波‼︎」
それでも、その時は訪れてしまう。
振り解く様に、普段の彼からは想像出来ない乱雑さを以て解かれた、手。繋がれていた間中伝わってきていた温もりが、離れる。
じん、と痺れる掌を一瞬だけ見つめてから、視線を彼の顔へと向ける。そこに浮かんでいたのは——悲壮も、悲哀も……或いは怒りですら混じらない、確かな焦燥の表情だった。——私の、好きではない顔だった。
「こんだけ離れりゃ文句ねーだろ!二人はここいらで息ぃ潜めておいてくれ!俺は戻るぜ」
——————
あぁ、やっぱり。
貴方はきっと、そう言うと思った。
「……戻って、どうするの?」
「決まってんだろ、デケムの助太刀だ。野郎が何者かは皆目検討も付きゃしねーけど、【アレ】は絶対にやべー。アイツ一人に押し付けて、芋引いてられるかよ」
「……それで、もしどうにも出来なかったらどうするの?」
「——ぁあ?」
「【アレ】の力が私たちの思い描いているよりも遥かに強大で、女王も花蕗君……二人がかりで手も足も出なかったら、その時はどうするつもりなの?」
「——随分侮ってくれるじゃねーか。心配すんなよ、どう転んでもデケムは必ず無事に帰す。その為なら——」
「——また、自分の首でもあげるの?」
ぴり、と。
空気が強張るのを感じる。
静の声色が、一段階低く沈む。
「……随分棘のある物言いするじゃねーかよ、仙波。こんな土壇場で身内揉めなんざしたくねーんだけど、そこら辺はどう考えてんだよ」
だが、もう止まらない。
堰を切った感情は濁流となり、仙波星翠の理性を飲み込む。言葉が、溢れる。
「誤魔化さないで答えてよ。どうするつもりなのか教えてよ、ねぇ」
ようやく、普段とは明らかに違う星翠の気配に気付いた静が、思わず唇を噛む。それでも、自らの矜持と信念に裏打ちされた、歪な覚悟は揺るがない。
「——俺がどーこーなんざ、どーだって良いだろ。それよりも、今はとにかくデケムを——」
「……どうでもいいって、なに?」
「……は?」
「——どうでもいいって、なんだよ‼︎‼︎‼︎」
——————
夜の静けさの中に、痛切な絶叫がこだました。
そのあまりの迫力に、後ろを走っていた馨も……そして、静でさえ気圧されていた。
「私の友達の憧れの人で!私の恩人で、憧れで!大切な友達の生き死にが、なんでどうでもいいんだよ‼︎‼︎私の大事な友達なのに、その本人が自分自身を、どうしそんな簡単に投げ捨てちゃうんだよ‼︎‼︎私の友達を、私から取り上げないでよ‼︎‼︎」
「——仙、波……?」
仙波星翠が顔を上げる。
怒りと腹立たしさでぐしゃぐしゃな顔。その双眸からは、大粒の涙がボロボロと溢れていた。
その顔のまま、星翠が静の胸倉を掴み上げる。
「ねぇ、私が弱いのがダメ?敵にすぐ捕まる様な間抜けで、折角持ってる力も碌に使いこなせないから?だから、そんな可哀想な私を助ける為に、自分の命はどうだっていいの?答えてよ‼︎‼︎」
「いや、っと……そういう訳じゃ……」
「ここに居たのが抄帷ちゃんだったら違った?命の捨て所にはしなかった?弱くて弱い、仙波星翠だったからあんな風に庇い立てたの?」
「——っぐ、ちょ、マジで——」
「——だったら、変わってやる。変わってみせる」
感情の奔流に歪む顔を真っ直ぐに。涙で濡らした双眸を、真正面から。花蕗静を見据えたまま、仙波星翠は宣誓する。それは——守られてしまった自らへの、反旗だった。
「もう二度と、花蕗君が私を守ったりする必要なんかない位、京介さんや小理さんの力を必要ともしない位‼︎誰にもこの願いが踏み躙られない様に、私はきっと、変わってみせるから‼︎だから——だから——」
胸倉を掴んでいた手が、離れる。
その手は力無く下げられ、その先で、花蕗静の掌を包んだ。
愛おしむ様に。慈しむ様に。
やがて——か細く弱々しい、囁く様な声で。
「——独りで、どこかに行っちゃおうとしないで——」
仙波星翠は、自らの願いを口にした。
伏せられた顔から、とめどなく溢れる涙がこぼれ落ちる。
力無く、震えながら。それでも懸命に伝えられた言葉の意味は、確かに静に伝わっていた。
静もまた、言葉を失い顔を伏せた。
そして、仙波星翠の言葉を反芻し——内心で首を振った。
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——そりゃ無理な話だぜ、仙波。だってよ……俺はもう——
——————
キキっ、と。
静達の側に、黒塗りの車が停車した。
閑静な住宅街の狭い路地には窮屈そうな、景観ともまるで不釣り合いな高級車。その運転席から降り、姿を現したのは——女性。見覚えのないその姿に、静が身構える。
——このややこしい時に、今度は何だ——!
白のボウタイブラウスにペンシルスカート。
秘書風なその姿に、涙を拭いながら、声を挙げた。
「天麻さん——!」
「——なに?」
言葉に、静が女性を見据える。
——コイツが、吉國天麻。松下馨警護の依頼を持ち掛けた、張本人。
ちら、と。
天麻が星翠、静——そして馨の顔を順繰りに見やる。
「お取り込み中の所申し訳ございません、星翠様……よろしいでしょうか?」
無表情で尋ねる天麻。
言葉に、若干の冷静さを取り戻したらしい……星翠がズズっと鼻を啜りながら、平静を装う。
「だぃじょぶでず……!」
「ありがとうございます」
星翠に一つ頭を下げた後、天麻が改めて静と馨へ向き直る。
「お初にお目に掛かります。花蕗静様……そして、松下馨様。私は吉國天麻。あなた方を救助に参りました」
花蕗静が、嗤う。
「はっ。いきなりツラぁ晒したかと思えば、言いたい事言ってくれんな。他責は柄じゃねーけどよ、引き金引いといて随分のんびりしたご到着じゃねーかよ。悠長な話だなぁ、おい」
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「——ああ。そこは本当に申し訳なかった」
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その声は、あまりにも穏やかで。
その姿は、あまりにも浮世離れしていた。
凪いだ湖畔のざわめきの様な静けさを纏った、純白の髪の青年。後部座席から降りたその姿に、星翠と馨が息を呑む。
「もっと早く迎えに来たかったのだけど、こちらはこちらで少し立て込んでしまってね。ごめんよ、静」
「……アンタは、朝の……」
それぞれの驚愕を示す三者を横目に、純白の青年が腕を広げる。
「とにもかくにも、先ずは少しゆっくりしないと。皆疲れているでしょう」
「——テメーも人の話聞かねー口かよ。こっちゃそれどころじゃ——」
「うん。デケムの事なら大丈夫。たった今、あちらは終わったから」
「——————なに?」
その異変に、最初に気付いたのは星翠だった。
デケムの顕現、検知魔法の運用継続——その全てが、途絶えている。幻想世界の『パラドクス』が、解除されていた。
「実は『俺』もパラドクスを持っていてね。能力は——『他のパラドクス能力の強制解除』。デケムには怒られてしまいそうだけど、星翠。君の『パラドクス』は切らせてもらった。けど同時に、この位置だったら真の『パラドクス』も使えない……しばらくは安全だと思ってくれて構わないよ」
「テメー……マジで何者だ」
青年が、微笑う。
——————
「名乗りが未だだったね。『俺は』久遠寺御言。よろしくね、馨、星翠——そして改めて、だね。静」




