20時54分
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花蕗静は思い出す。
この世ならざる鎖を操る、逆説の亡霊を。
幻想より現界した、黒鉄の騎士を。
圧倒的な力を持った、最強の逆理を。
そのどれとも違う。
そのどれとも、異質。
思い返された、その全て。どれ一つとっても、目の前の【ソレ】の足元にも及ばない。その異常性は明らかに、花蕗静がこれまで出会ってきたあらゆる異質の中でも群を抜いていた。
どんな化け物も。どんな人外も。目の前の【ナニカ】と比べれば、可愛げすらある。
どんな異形よりも、遥かに怪物。
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仙波星翠は思い出す。
自らの人生で出会した、あらゆる恐怖を。
些細な事や瑣末な事から、自らの内より生じた、幻想世界からの侵略……その過程で晒された、明確な命の危機まで。そして今まさに脱した窮地をも。
そのどれ一つ、遠く及ばない。
目の前の【アレ】と比べれば、今日までの恐怖など、あまりにも取るに足らない。恐れや怯え、底冷えする様な悍ましい感情……それら全てがより集まって、具現化され、人の体裁を取ったかの如き、異様な気配。
これまで体験したどんな恐怖よりも、恐怖そのもの。
目の前の【ソレ】と比べれば、命の危機ですら生ぬるい。
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「はっは〜」
静、星翠、馨の三人が同時に身を震わせる。
たった今まで忘れていた呼吸を思い出した肉体が、酸素を求めて悲鳴をあげる。
何一つされぬまま。何の脅威にも晒されぬまま、三人は一様に酸欠寸前まで追い込まれていた。
そんな彼らの緊張を、【ソレ】は笑い飛ばす。
「そんなガチガチになんなって、楽にしとけよ少年少女。どちら道、アンタらにちょっかい掛けるつもりなんかね〜よ……ま、今日のところはな」
——くたびれた、スーツ姿の男。
細身の体躯。凡庸な顔立ちに、黒髪。
目を引く様な特徴が何もない、凡庸な風体。その右手には、場違いな、花柄の黄色いエコバッグが握られていた。
「…………——今日は、だと?」
辛うじて。
血を吐く様な重苦しさを振り払いながら、それでも。口を突いたのは、たった一言。その一言を口にしただけで、静の額には大粒の冷や汗が浮かんでいた。
「あぁ。急は要さね〜……っつーか[急ぐ必要はね〜]様にテコ入れ済みだかんな。それでなくても採寸、買い物……挙句未だこの後晩飯も作んね〜といけねぇし。ま、未成年殺しはまた次の機会にってとこだ」
肩をすくめて、おどけてみせて。
そんな【ソレ】の視線が、『本体』へと向けられた。
「アンタは最低点だな、雇われ変質者。こんだけアドバンテージ握っといてそのザマ、笑い話にもなんね〜な……けどま、こっちも今んとこって条件ありきだけどな。まだまだアンタがやりて〜様にやってた方が面白味がありそうだからな——今回はサービスしといてやるよ」
言い終わるや。静達は愕然とした。
〔[本体の姿は、そこには無かった]〕
先程までの交戦が嘘の様に。あたかも、初めから『影』の姿なぞこの場には無かったかの様に。前触れも、脈絡も無く、その姿は消え去っていた。
「んじゃ、後始末も終わったし、そろそろお暇するぜ〜。土足で踏み入って悪かったな」
事態をまるで理解出来ない三人はやはり、身動き一つ……言葉一言口に出来ずにいた。場を、不穏当な沈黙が支配しかけた、その刹那。
「あら?いきなりやって来て、言いたい事にしたい事だけ終えて、はいさよならなんて、そんな道理が通ると思った?」
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ただ一人。
異質極まる異様な【ソレ】に、臆する事のない、たった一人。幻想の頂点にして古き大国の君臨者……女王デケムが不適な笑みのまま、立ち去ろうとしたその背中を呼び止めた。
「コイツはおったまげだ。創作物から道理を説かれるとはな。それで?仮にソイツが通らね〜んだとしたら、アンタは俺に何を求めるよ、女王様」
「大した事じゃないわよ、異常者。お前がさっき口にした一言……その否定さえ聞ければ、とりあえず満足してあげるわ」
「色々喋っちまったからな〜。具体的に言って貰わにゃわからんぜ?」
「——シジマを殺す。その、『次の機会』。あの戯言を取り消しなさい、と言っているのよ」
【ソレ】が、立ち止まって、振り返った。
「——へぇ」
【ソレ】が、わらう。
「やっぱ今日のMVPはアンタだな、ファンタジー。まさかそんな言葉がアンタから聞けるとは……いやはや全く、感受性が豊かな様で」
「御託はいいわ。それで?興味があるわけじゃないけど、聞こうかしら。お前の選ぶ末期を」
つい、と。【ソレ】の視線が静へと向かう。
値踏みする様な、視線。
感情の色味の淡いその瞳が、澱んだ輝きを放つ。
【ソレ】が、嗤う。
「心苦しい限りだけどよ〜……自分に[嘘]はつけねぇよなぁ———」
答えを待たず。
非実存の幻想兵器が、烈火の如く降り注ぐ。
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再び燻る砂煙。
それが晴れるのを待たず、デケムが軽く腕を振るう。
動作に連動して放たれた一射が、静達の後方……隔てる兵を打ち砕いた。
「シジマ」
呼びかけに、静が顔を上げる。
絢爛豪華にして傲慢不遜。
そして何よりも、圧倒的な美しさを伴った笑みが、そこに咲いていた。
「ひとつ頼まれてくれる?そこの伽藍堂を連れて、この場を離れて欲しいの」
「——————は?」
「あの異常者が何者かは知らない。けど——そうね、確かにアレは少しばかりおかしい。今この瞬間、アレが何を考えているかなんて興味も湧かないけれど、生かして帰す理由も見当たらないわ」
柔らかな笑みのまま——眼に宿る温度だけが冷え込む。視線の先には……仙波星翠。
「アレに、その伽藍堂を狙われでもしたら手間が増えてしまうもの!だからシジマ——私が戻るまで、ソレを適当に仕舞っておいてくれるかしら?」
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天上天下唯我独尊。
君臨者たる女王に、自己犠牲の精神など存在しない。
選んだ選択はどこまでも合理……彼女にとっての最適解でしかない。
だが——
「——————っ」
仙波星翠。
松下馨。
女王デケム。
それぞれがそれぞれに立たされる窮地。その只中にあって、身体はひとつしかない。静の狼狽は、誰の目にも明らかだった。だが、それも長くは続かない。
狂気を帯びた眼光。
緩く握られた両の手。
その異変を最初に察知したのは、デケム。
次いで星翠が、静の困惑に気付く。
「——————」
仙波星翠は思い出す。
一瞬前、自らの胸中に渦巻いた、白熱した怒りを。
理不尽と呼ぶにも度し難い、その自分勝手な選択を。
次の瞬間——
「——————っ‼︎」
星翠の手が、静の拳を掴む。
作動しない迎撃……予想だにしなかったその動作に、静の反応が一歩遅れた。その一瞬を逃さず、星翠が全速力で駆け出す。
「——馨さん‼︎」
呼び掛けに呼応して、馨がその後を追う。
『天印』によって穿たれた塀を潜って、その場を走り去る三人。その背中を見送って、デケムは小さく溜息をついた。
「全く、別れの場面だというのに、無粋な伽藍堂ね。本当に、嫌になるわ」
「そうかぁ?ディストピアっぽくて超エモいじゃん。嫌いじゃね〜ぜ、あの青臭さは」
デケムの視線が、ようやく晴れ始めた砂煙の先に、その姿を見つける。
「……一度ならず二度も、アレだけ差し向けて無傷とはね。本当に、どの口で一般人を語ったのかしら」
無傷の【ソレ】が、嗤う。
「見解の相違だな、クイーン。鉄砲だろうが魔法だろうが、当たんね〜なら等しく無意味……ガキでもわかる道理じゃね〜か」
「口の減らないこと……面白い男だというのは認めてあげるけど」
「ソイツぁ光栄至極だな。なんか景品はあるのかよ」
「えぇ、勿論」
展開されるは数多の『天印』。
紅き極光が、天空を包囲する。
「褒美よ……惨たらしく殺してあげるわ」
「熱烈だね〜……いいぜ、『遊んでやるよ』フィクション」




