20時01分
放たれるは異形の爪。
獣の様に鋭く……けれども決して光を映さない、闇夜の刃。それらが一体につき二振り……六本の腕が少年へと疾る。
それら全てを難なく撃ち落とした静の身体が、突如大きく沈み込む。
超低空……ほぼ完全に上体を伏せた形になりながら、打ち出される蹴りの軌道は最上段。ほぼゼロ距離で放たれるのは、カポエイラのリズムを伴った変則卍蹴り。真下から頭上を蹴り抜かれるという、矛盾。
「はっ、考えなしでわざわざ玄関口に居る訳ねーだろ——!」
自動迎撃の『パラドクス』。
その能力が攻撃転用出来ない以上、蹴り技は静の戦闘を支える生命線。コンバットブーツ——彼にとっての最大武装は、既にその脚にあった。
蹴り払われた『影』が、後方へと倒れ込む。その身体を、残る二体の足止めとして、静は靴のまま、星翠達の居る居間を目指す。その手には、上体を伏せたついでに掴んだ、スニーカーとパンプスがあった。
「寝こけ姉さんは起こしたか、仙波!」
部屋に入るや叫び、瞬きの間に二人の姿を確認する。
強く頷く星翠と、動揺しつつも既に目覚めた馨。
二人に向けて、各々の靴を放りながら、すぐさま踵を返し、部屋の入り口に立ち塞がる。
「履いとけ!」
短く指示を出した矢先、静の右腕が疾る。
廊下を渡り、部屋への侵入を目論む『影』。その攻撃を撃ち落としながら、静が思考を巡らせる。
——初手で松下さんを直接狙って来ねーって事は、やっぱ出入りする〝影〟には、何かしら条件付けがあんのか。サイズ……濃淡……どっち道外に逃げ出す方がリスクがデケェ……っとなりゃ——
「——この場でテメェの本体、バチボコにしばいてやろーじゃねーか!」
出現要件を満たした影が存在しないと仮定される、室内での制圧。焦点を絞った静が、口角を上げた。
狭い廊下には、人二人が並び渡れるだけの余裕はない。必然、戦闘は擬似的な一対一。そしてそれは、花蕗静の『パラドクス』——その独壇場。
「——すごい」
至近距離で繰り広げられる格闘戦に、馨が思わず呟く。
そしてそれは、星翠もまた同じように抱いた感想だった。
全ての攻撃を撃ち落とす、『パラドクス』……その駆動は明らかに、常人の反射神経を凌駕していた。
だが、二人の目を釘付けにしたのは、そこではなかった。
廊下の狭さをものともしない、しなやかな体捌き。
空間を立体で捉える、観察眼。
そして、緩急自在の脚技。
漫画やテレビドラマ、映画でしかお目にかかれない様な、卓越した身体操作。仮に『パラドクス』がなかったとしても、『影』を圧倒していただろうと予感させる、洗練された格闘術。その戦い振りは一介の学生の喧嘩とは明らかに一線を画していた。
流麗。
その一語に尽きる戦闘を披露しながら。しかし、静の内心には焦りがあった。
——駄目だ、本体がわかんねー——!
格闘の最中、静が観察していたのは、三体の『影』——それぞれの戦闘参加の比率。
仮に本体が、その他の『影』と変わらない外見をしているとすれば、特定手段は限定される。その方法として静は、〝リスクを最も回避する一体が本体である〟という推論を立てていた。
だが、実際には三体の戦闘参加率はほぼ均等——全員が我が身を顧みず、静へと向けて攻勢を仕掛けてきている。
単純な肉弾戦では、三対一でも花蕗静に分がある。
にも関わらず躊躇が生まれないという事は——
「——外か、糞っ!」
刹那。
総勢二十を超える『影』の軍勢が、居間のガラスを叩き割り、室内へと雪崩れ込んできた。
「——————っ!」
静が、星翠と馨を両脇に抱き抱える。
そして、そんな二人を出来るだけ自分の体で覆い隠しながら、雪崩れ込む『影』へと突っ込む。
外は既に夜の闇の中。
出現に使用される影の条件がなんであれ、蛍光灯に照らされた室内よりも状況は悪化する。それでも、狭い室内にあれだけの数を投入されてしまえば、そもそも抵抗すら出来ない。
——クソ、吊り出された——!
軍勢の最後尾——庭の端、塀の側まで進んで、静は二人を下ろし、身を翻す。
「——花蕗君、それ——!」
真っ赤な血が、暗がりの夜に飛び散る。
二人を抱えている最中に『パラドクス』が発動すれば、静の意思とは無関係に彼女達の体を放り出してしまう。止むを得ず解除された絶対堅守——その間隙を縫った大量の爪撃により、静は全身を切り裂かれていた。
「擦り傷だ!んな事より二人とも——」
深く切り刻まれた体躯から血を流しながら、それでも静は構えを解かない。だが、
「いや。決着だよ、少年」
老いた、男性の声。
その声に、静が後方へと視線を投げる。
塀に伸びる、黒い影。
そこから這い寄った、二体の新たな『影』。
それぞれがそれぞれに、仙波星翠と松下馨……その両手を拘束し、首筋に鋭利な爪を突き付けていた。
「——————」
油断していた訳ではなかった。
初戦で披露された三体が、敵の分裂——もしくは分身の最大数だとは思っていなかった。それでも、実際に現れた軍勢の数は、静の予想を遥かに上回っていた。
「素晴らしい技術と、『パラドクス』だ……だが、君の能力の保護対象は自身のみ、遠隔での起動は不可——相違ないかな?」
声は、全ての『影』から同時に発せられており、その出所から本体を特定する事は不可能であった。
「本来、この様な卑劣な真似はしたくなかったが……いかんせん、君は強すぎる。申し訳ないが、私も手段を選んではいられないものでね」
二人の首に突きつけられた爪に力がこもる。
一筋。仙波星翠の首を、赤い血が伝う。
——————
「——よぉ、変質者共。アンタ方が一枚上手だ、話は聞くぜ……けどな——」
『影』が、一瞬たじろぐ気配を見せる。
馨も——そして、星翠さえも。
「仙波にそれ以上触れてみろ——テメェら全員、この場で皆殺しにしてやる」
それは、見る者を圧倒する——具現化された殺意そのもの。どう控えめに見積もっても最悪な劣勢に立たされながら、それでも。その言葉が虚勢などでは無いと確信させるに足る、凄絶な圧力。
「……君の態度次第だな」
一瞬の間を空けて、『影』が口にする。
その言葉を聞いて、静が両腕を下げる。
「私の要求は一つだけ。そちらの女性……『松下馨』を貰い受けたい」
「はっ、初手から話になんねーぜ。そもそも俺らはその人を、テメーに渡さねー為に出張ってんだぜ」
「その戦いは既に終結している……違うか?」
『影』の言葉は、正しい。
花蕗静は敗北した。
松下馨も、仙波星翠も。
そして、一般人を巻き込まないことも。全てを諦められなかった少年の望みは、既に途絶えている。
星翠の『パラドクス』——『封露の天印』を用いれば、今この場に在る何体かの『影』を行動不能に追い込むことは出来るかもしれない。
だが、後が続かない。
発動の気配を感じた時点で、首に突き付けられた爪はその喉笛を掻き切るだろう。仮に星翠を救出出来たとしても、今度は馨が窮地に陥る。それら全てを覆すだけの何かは、花蕗静には、無い。
「……なにが目的でその人を攫おうってんだ」
「実の所、私は雇われでな。ある人物に引き渡す様依頼を受けている」
「どっかで聞いた様な話だぜ。下らねー代理戦争だな」
「かもしらん。ただ、依頼主は松下馨に危害を加えるつもりではない事だけ、付け加えておこう」
「それこそ、信憑性ゼロじゃねーか」
溜息混じりに静が肩をすくめる。
絶望的な窮地。
その断崖で静の脳裏を掠めたのは、一人の少女だった。
幻想より生まれ、かけがえの無い生き方を遺してくれた、たった一人。己が無力の尻拭いを押し付けてしまった、青髪の少女。
自らが名付けた行為を諦める、或いは翻す。
それは許されない。
残された想いを、手放す事は出来ない。
「……駄目だ、松下さんはやれねー」
だからと言って、仙波星翠を犠牲にする選択肢など最初からない。そこまで思い至って、静は——小さく、笑った。
「——俺のパラドクスは『絶対堅守』。敵意の含まれたありとあらゆる攻撃の無効化と無力化を全自動で行う」
「——急に自らの手の内を晒して、どういうつもりだ」
「つもりもクソもねーよ。タネがバレても構いやしねーんだからな。要は、俺単体ならテメーは俺を絶対にやれねー。松下さんを攫ったトコで、俺は必ずテメーのところまで辿り着く。俺一人なら、この場をやり過ごせば必ず、だ」
「——それで?」
静が、自らの首を掻き切る仕草をする。
「……二人を見逃せ。引き換えにこの首、くれてやるよ」




