19時32分
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静の去った部屋の中を、星翠が改めて見回す。
清掃の行き届いた、物のない部屋。
ミニマリストだとか、質素であるだとか……そういったものとは異質な、生活臭の少なさ。その理由に、少女は遂に辿り着いた。
ここは、家ではなかったのだ。
どころか、愛玩動物を飼育するための檻ですらなかった。
『花蕗静』というパッケージを保管、保全する為の籠。
一方的な価値基準で評価された存在を仕舞い込む為……ただその為だけの、空虚な箱庭。
星翠は戦慄した。
俄かには信じ難い、狂気じみた妄想の裏付けは、言葉にされた今改めて見れば、そこかしこに存在していた。
写真が無い。
花も、ポスターの類も。
飾る為のインテリアの一切が存在しない。
ひとつひとつは小さな違和感……だが、それら全てが合わさった時——招き入れられたこの家は、確かに異常だった。
——傷付かなかったかと問われれば、そんな事はない。
差し伸べようとした手を、つっけんどんにはたき落とされた。手渡そうとした真心を無下にされた。事実はどうであれ、そう感じた自身の心までも言い繕おうとは思わない。
けれど。けれども、それよりも。
甘味の盛られた、可愛らしい小鉢を思い出す。
こんな家に暮らしながら、彼が自らの為にあんな物を買い揃えたとは思えない。きっと——いつかどこかで客人を招く時に、少しでも心地良く過ごせる様にと用意していたのだろう。
三人分の座布団を見る。
自分と馨の為に取り出されたそれらは、厚みもしっかりした、明らかに上等な物だった。
対して、取り残された一枚。部屋に初めからあった、静が普段から使っているだろうそれは、清潔に保たれてこそいるものの、見るからに安物だった。
全てを強要された訳では無いのだと思う。
ささやかな飾り気を求めれば、それが叶えられるだけの金銭は手渡されていたのでは無いかとも。
けれどきっと、彼は拒んだ。
自ら望んで、こんな空っぽを選択したのだろう。
——傷付かなかった、とは言わない。
けれどそれよりも、何よりも……苦しいと感じた。
彼は一体、どんな想いで……どんな気持ちで、私達をここに招いてくれたのだろう。笑い話にもならない、痛みの象徴でさえあるだろうこの籠の中で、どれだけの痛みから目を逸らして私達をもてなそうとしてくれたのだろう。
——ずっと、痛みの只中にあって。
けれどそれを、ずっとひた隠して。
どうして私達に、傷付かないでくれなどと言えたのか。
そんな彼に、一体自分はどんな言葉を掛けられたというのか。遮られた言葉の続きは、自身にもわからなかった。
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上がり框に腰掛け、閉ざされた引き戸へと視線を向ける。
うら寂しい玄関。見慣れたその様を、見るともなく眺めながら、静は自らの愚を呪っていた。
話すべきではなかった。
そもそも、話すつもりもなかった。
——今日が『今日』でなければ、きっと。あんなつまらない話を、彼女にすることも無かった筈だ。
考えながら、静は一つ、自らへと向けて舌打ちをした。
老いも進み、今や半ば以上に正気を失ってしまった実母。その怒りと憎悪の捌け口としての、自分。
取り立てて悲観していた訳でも無い現実をまざまざと見せ付けられて、嫌気がさした訳でも無い。仙波星翠に身の上を語り聞かせたのは、本当に些細な気まぐれでしかなかった。
——一丁前にセンチにでも浸ったかよ、馬鹿馬鹿しい。
壊れてしまった母の怒りを想う。
失われた自身の美しさを携えた、自らによく似た贋造物。
ろくに自由も利かなくなったその身体を、生活を……そんな代物に介護される、その屈辱を思う。
どうにか幸せになって欲しいと思い続けるが、その方法がわからない。
会ったことのない父の落胆を想う。
せめて自身が女なら他のやり方もあっただろうか。
男である自分には精々、若い頃の母の髪型を模して、その面影を守ることしか出来ない。彼の孤独に報いる術がわからない。
死して尚、少女の幻影を求め続けた、鎖のパラドクス能力者『菅野友尚』の無念を考える。自らが叩き潰したその欲望が本当に悪だったのか、もう確かめる術はない。
『菅野友尚』の魔手によって行方不明となった女子高生達の恐怖を考える。救えたかもしれなかった……けれども結局出会うことすらなかった少女達は今も、あの薄ら暗い異界にいるのだろうか。
どうにもならないこと、答えの出ない問いばかり。
堂々巡りの自問はそして、いつも同じところに辿り着く。
——幻想世界の虚構の少女。
気高く、力強く。
自らの生き方に名前を付けるという、とても大切で尊い教えをくれた少女。
孤独に打ち震え、涙した少女。
自身の最期は孤独ではなかったと、花蕗静に感謝を述べた少女。そして——花蕗静の無力が殺した、少女。
夥しい血。
壊れた身体。
崩れ落ちる臓腑。
涙、言葉、鮮血、恐怖悲嘆臓物肉、そして——
「——————っ」
込み上げた吐き気を抑え込もうと、口元を手で覆う。
——最後に、まともに眠れたのはいつだったか。
まともな食事を摂ったのは、いつだったか。不鮮明な日々の記憶に、我ながら呆れ返る。
食わねば死ぬ。
肉を受け付けなくなった体で、何か食せるものはないかと試行錯誤する日々。牛乳餅は、そんな過程で生まれた副産物だった。
——何がどう転ぶかもわかんねーからな、なんでもやってみるもんだ——
自嘲気味に笑うその目に、力はない。
花蕗静は、知っている。
自分が本当に望んでいるものを。
それは——
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「——!」
星翠の思考が寸断される。
発動状態を維持していた『検知』の魔法が、強い反応を示す。緊張に強張る体を奮い立たせ、その場で立ち上がる。
「——————花蕗君っ‼︎」
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引き戸が粉々に割れる。
姿を現したのは、三体の『影』。その切っ先が、花蕗静へと迫る。
だが、届かない。
『影』の強襲よりも、星翠の叫びに反応した静が『パラドクス』を起動する方が、一手早い。矢継ぎ早に繰り出される爪撃を全て撃ち落とした上で、静が構えを作る。
「——あぁ、喧嘩売りに来るには悪くねータイミングだったぜ、変質者共。ゴチャくそ考えて知恵熱出るかの瀬戸際だったからな……気が済むまで相手してやるよ」
——花蕗静は、嗤っていた。




