19時11分
「〜〜」
ニコニコと、満面の笑顔で頬張る星翠。
未だ硬さの残る表情で、それでも手を止めない馨。
頬杖を突き、そんな二人の様子を眺める静の口元は綻んでいた。
急いで食べていた訳でもなかった。
それでも、二人の皿が空になるには、そう大した時間は要らなかった。
「ご馳走様でした!すっごく美味しかったー!ね、馨さん」
「は、はい——うん。本当に、美味しかった」
「そいつぁ結構。追加の皿は……要らなそうだな」
「うん、お腹いっぱい」
「はい、ご、ご馳走様でした……!」
「お粗末さんってトコだ……と、ちょっと待ってな」
パタパタと食器を下げに、台所に向かう静。
少しの間を置いて戻ってきた彼の手には、ガラスの小鉢が二つ。
白くもっちりとした質感の、食後のデザートだった。
「わ!なにそれ、牛乳寒天?」
「惜しい。寒天粉はなかったからな、片栗粉で固めた牛乳餅だ。苦手じゃなけりゃってな」
簡素ながらに可愛らしいその外観を暫く見つめ、二人は牛乳餅を口に運ぶ。
共に口が回るタイプでもなし、大仰な感想が飛び出してくることはなかった。それでも、嬉しそうな二人の顔を見て、静もまた、柔らかく微笑む。
その時。ぽたりと一粒、大粒の涙が古びたテーブルの天面を叩いた。見やれば、小鉢を片手に持ったまま、馨がぽろぽろと泣き出してしまっていた。
「ぅお、どうした。情緒壊れたかよ」
「いえ、あの、す、すみません……」
堰を切ったように、止めどなく溢れ続ける涙。
戸惑う星翠と静へ向けて、言葉に詰まりながら……それでも、馨が口を開く。
「誰にも言えなくて……ずっと怖くて。でも仕事あるし、相談出来る人いないし、大事にはしたく無くて……」
影より現れる、異形。恐らくその気配を、彼女はずっと感じていたのだろう。
およそ常識の範疇外、荒唐無稽の恐怖。
相談できる相手は居らず。どころか、仮に無理矢理誰かに打ち明けようものなら、自らが異常者扱いされかねないのではという、怯え。
蓋をしていた数多の感情。決壊の、その最後の一押しは、見知らぬ少年少女から手渡された、ささやかな優しさだった。
「本当は、私は大人だから、君たちにこんな姿、みっともないし、駄目なんだけど——ごめんなさい、その——」
星翠が唇を噛む。
松下馨が抱え込んでいた痛みの全てがわかる訳では無い。何を言っても、どんな共感も。吐き出される嗚咽の前には、どこか薄っぺらである様に思えてしまって。星翠は、次の言葉を見つけられずにいた。
そんな沈黙を。
「いや、歳は関係ねーだろ。バイアスエグすぎるぜ、先輩」
花蕗静は、さも簡単に一蹴した。
馨と——そして星翠の視線を受けながら、静はやはり大した事でもなさそうに、肩をすくめる。
「アンタのしんどいや、おっかなかったってのがみっともねー訳あるかよ。ガキだろうがジジィだろーが、怖ぇもんは怖ぇし、嫌な事は嫌だろ。ソイツをなんとか出来るかもしんねー種火を持ってたのが、たまたまテメーよりガキだったってだけだろ——この際だからはっきり言っとくぜ、松下さん」
すくめながら、けれど。
眼差しだけは真っ直ぐに、馨へと向けて。
「俺達はアンタを助ける。だからアンタも、しっかり気張って、助けられてくれよ」
そう、言い切った。
——————
「ぅお」
食事を終えて暫し。
食器洗いを終えて部屋に戻った静が見たのは、スーツ姿のまま体を横たえ、小さく寝息を立てる馨の姿だった。
「少し横になっていい?って聞かれて……すぐに寝ちゃった」
人差し指を口元にやりながら、声を絞って報告する星翠に、静が軽く手を挙げて応える。
「相当消耗してたんだろーよ。寝かしとこーぜ」
同じ様に声を絞るその様が、何故だか少しだけ可笑しくて。小さな微笑みを浮かべながら、星翠が頷く。
「結局全部任せちゃった。洗い物くらい手伝えば良かったね、ごめんね?」
「阿呆抜かせよ。客人炊事場に立たせられるかってんだ」
「またしてもおばあちゃんと同じ事言ってる……というか、花蕗君は食べないの?ご飯」
「昼飯が遅かったもんでな。気に掛けねーでも、後で適当に済ますさ」
言いつつ、静がふと馨の顔を見やる。
色濃い隈。乾燥した唇。仄かにこけた頬。
「……しっかし、歳を理由に助けの一つも呼べねーとは、全く大人ってのは窮屈そうで同情するぜ」
「……うん。きっと、すごく葛藤があったんだろうね——事実として、私達が子供なのは間違いないし」
「はっ。人間なんざ何時くたばるかもしんねーのに、たかが数年十数年誤差だろ。何年生きたかなんかよりゃ、何して生きてきたかのが余程大事だと思うけどな」
「……その割に年上や目上の人には礼儀正しいよね、花蕗君」
「テメーの思想ばっか現実に持ち出すほど世間知らずじゃねーもんでな。それに、誤差だから蔑ろにしていいって道理はねーからよ」
腰をおろし、息を吐く。
そんな少年の姿を、少女は覗き込む様に、黙って数秒見つめる。
「…………」
「…………なんだよ」
「ううん、その……生きにくそうだなーって」
「お、悪口か?」
「違うってば」
笑いながら否定して、星翠が続ける。
「花蕗君って多分、凄く色んな事を考えながら毎日を過ごしてるんだと思う」
「初手外しだな。頭空っぽもいいとこだぜ」
星翠が再び。可笑しそうに笑う。
「もう、最後まで聞いてよ」
「……承知だ大将」
——————
「自分のことは勿論、人のこと……その人が何を大事にしていて、何を蔑ろにされたら怒るのか、とか。その人にどんな生活があって、どんな風に世界を見てるのか、とか。その上で、そういう色んな人たちの『大切』をとても大事にしてる。大事に出来る人だって、知ってる」
けれど、と言葉が続く。
「けど時々……誰かの『大切』を守る為に、自分の『大切』を明け渡してしまってる様に見える。勿論何か、本当に譲れない場所は守ってるんだろうけれど……その『本当に譲れない場所』が、凄く小さい様に見える」
沈黙。
「……ずっと感謝し続けてる。今でも……多分この先もずっと。理由がなんでも、それは変わらない。でもだからこそ……今だからこそ、もう一度聞きたい——花蕗君はあの日、どうして私を助けてくれたの?」
幻想からの侵略者。
一歩間違えれば、結末は大怪我どころの騒ぎではなかった。そんな危険を全て承知で、少女の盾として立ち塞がった少年がいた。
言葉は、二ヶ月前の答え合わせだった。
「……アンタは本当に、すげー変わったな——いや、変わったってのは違うのか。とにかく、本当にすげーよ」
「褒めて煽てて誤魔化しても駄目だよ」
「——ったく……」
軽く頭を掻きながら。
やがて、観念した様に、静は重い口を開いた。
「……この家な、俺の親父の持ち物なんだわ」
「え?でも、さっき——」
「あぁ。会ったこともねーな。……見ず知らずの父親に飼われてるのさ、俺は」
「——飼われてる?」
「妾の子なんだよ、俺」
ひゅっ、と。
喉元から嫌な空気が飛び込んでくるのを感じながら……それでも辛うじて、星翠はその目を逸らさずに踏み止まった。
「俺のお袋が……ま、あんまり褒められた人間じゃ無くてよ。ツラの良さだけで人生渡ってるタイプの女だったらしーんだけどな。で、そのツラの良さにまんまと引っ掛かったアホが俺の親父でよ。知りゃしねーし興味もねーけど、これがとにかく金だけは持ってた男でな。熱上げ浮かれて、お袋を囲ったとこまではよかったんだが、それが正妻にばれて……そっから先は、まぁお察しって奴だ」
静の言葉は、いつもと何も変わらない。
重さも、悲壮も孕まない、どこまでも軽く、軽く、軽い。
「お袋は正妻に顔を〝潰されて〟お払い箱。親父もツラと身体以外売りのねー女が、セールスポイント無くしちまえば、そらお役御免もやむなし。ただ、男にゃ一個誤算があった」
その軽さと裏腹な、事実。
「捨てた女のガキが、てめーの惚れ込んだ女にそっくりなツラぁしてやがったのさ。今更どーにもなんねー未練が疼いたのかは知らねーけど……ともかくガキは囲われて、今や食うには困らず。めでたしめでたし、って寸法さ」
どこまでも——どこにも。
ただ一度の救いすら見当たらない、現実。
「この話のキモはなんだと思うよ、文学兎」
「——それ、は……」
「俺の……花蕗静の存在価値は、俺自身とは無関係に押し付けられたこのガワだけなんだよ」
静が手を振って、先回りの否定を口にする。
「誤解されても心苦しいから言っとくけどよ、生憎そんなんに傷心する程おセンチなメンタルは持ち合わせてねーからよ。こんなもんはただの現実ってだけなんだけどな」
言葉は続いた。
「俺の人生は、俺の持ち物じゃねー。けど、だからこそ。俺は、俺の尊厳だけは渡さねー。居場所がなくても、理解されなくても……命を落としても。俺が俺自身に立てた誓いや、決めた事だけは、何があっても譲らねー」
その目には、哀しみも、痛みも無く——。
「助けられた、なんてのぁ酷い買い被りだぜ。俺はただ、俺の決めた代物に従ったってだけ——あんなモンは、ただの結果論だ。だから、アンタが何某か恩やらなんやら感じる必要、どこにもねーよ」
ただ。空っぽな笑みだけが、そこにはあった。
——————
「……自分語りが過ぎたぜ。悪ぃな、食後につまんねー話だったわ」
言葉を見つけられない星翠。
それでも懸命に紡ごうとした言葉を、
「——なにか私に」
「無い」
先回りで、静が否定した。
「今回の依頼はアンタと連名だ。力は借りるし、滅茶苦茶頼りにしてるぜ。けどな、俺の人生——俺自身の為に、アンタが出来る事は何も無い。必要ともしてない。だから金輪際、そんなつまんねー事口にするなよ」
静かに立ち上がり、踵を返す。
「……先輩の目が覚めりゃ、すぐに次の方針決めだ。それまでは大将、アンタもよいよい体ぁ休めとけよ」
部屋を出ていくその背中には、確かな拒絶があった。




