18時04分
「なんもねートコだけどな……ま、適当に寛いでってくれよ」
促され、ようやく敷居を跨いだ星翠と馨は、その言葉がありがちな比喩の類ではないことを、奇妙な違和感としてすぐに理解した。
一人分の靴しか並んでいない玄関を過ぎ、杉板張りの廊下を渡った先——案内された居間には小さめの液晶テレビ、木製のテーブル、座布団が一枚。
正面には大きな窓。そこから見えるのは、飾り気のない小さな庭。
「……?」
通された部屋を見回しながら。
膨れ上がっていく違和感に、星翠は思わず首を傾げた。
その違和感を言語化したのは、馨だった。
「——あの、花蕗……君、は……一人暮らしなの?」
初対面——なんの事情も知らないからこそ零れ落ちたその問い掛けに、静は軽く頷いた。
「実質は、ってトコだな。古いわボロいはいいトコぁねーけど、雨風凌げるだけ十二分ってな」
「そ、そうなんですか……え、その、ご両親は……?」
「生きてるぜ。親父にゃ会った事ねーけど、お袋は……まぁ、ぼちぼちってとこだな。名前貸しで保護者やってもらってる人が居るけど、こっちも年に数回会わねーからな。悠々自適にやらしてもらってるよ」
星翠と馨がそれぞれに、静の表情を見やる。
そこには一片の感情の揺らぎも、わかりやすい悲壮感もなかった。
そんな静の視線が、二人のそれとぶつかる。
困惑を示す二人の顔に、静は殊更意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
「花蕗静に悲しい過去あり、とでも思ったかよ。メェメェ泣きっ面拝みたかったんなら見込み違いだぜ、大将」
「そ、そんな事……は、ちょっと考えたけど……」
潔く認めた星翠に、静が軽やかな笑みで応える。
「はっ、そいつぁお生憎だ。ありふれたご家庭の問題如きで、一々《いちいち》メンタル凹ます程ナイーブに出来てねーもんでな」
応え、それから仕切り直す様に手を叩く。
ぱん、と。乾いた音が室内に響いた。
「そんな事よりお二方、腹具合はどんなもんだよ」
突然の話題転換に、星翠と馨は思わず顔を見合わせた。
「飯だよ、飯。なんか腹には詰められそーかい」
「えと……まぁ、普通に空いてる、かな?」
「松下さんは?」
「——その、一応、食欲は……あります」
「アレルギーは」
「え?」
「食品アレルギー。じゃなくっても、単に好き嫌いでもいーぜ。後は、宗教上の理由で肉が食えねーとか?」
「……いえ、特には……」
「そいつぁ結構。仙波は?」
「……ゴーヤとピーマンが苦手」
「んな特殊な野菜あってたまるか……いや、ピーマンはそんな事ねーけど」
「——え、もしかして花蕗君が作るの?ご飯」
部屋の押し入れから座布団を二枚取り出し、それらを適当に床へと並べながら、静は軽く体を伸ばす。
「野郎の襲撃がまたどのタイミングで来るかもしれねーからな、出前宅配頼むわけにもいかねー……かと言って空きっ腹で根詰めても仕方ねー。男飯ってのは心苦しいが、そこら辺は言いっこなしだぜ」
言い残して、静が部屋を後にする。
残された二人は、もう一度互いに目を見合わせて、
「……座りましょうか」
「……そうです、ね……」
どちらからともなく腰をおろし、ようやく一息つくのだった。
——————
沈黙の中、壁掛け時計の秒針が時を刻む音ばかりが部屋に響く。
規則的で無機的な、音と沈黙の往復。
ふと耳を澄ませれば、具材を切る包丁の小気味良いリズムが聴こえる。
居心地の悪い……けれどどこか穏やかなその空気感が、長く緊張し続けていた馨の口を、ほんの少しだけ軽くした。
「ええ、と……仙波さん、でよろしかったでしょうか……」
「は、はい!なんでしょうか!」
本来的に、仙波星翠は人付き合いが得意なタイプではない。生来のあがり症気質と控えめな性格も相まって、人間関係の構築は受動的な方だった。
脅威から守るという大義名分があったからこそ、保つことが出来ていた自信という名の仮面。不意に顕わになった、その下の素顔は、馨の硬さを解きほぐす一端となった。
自分と同じように緊張している、自分よりも歳下の少女。
目の前の事実に、更にもう一息緊張を緩めた様子の馨が、疑問を口にする。
「あの……最近の高校生男子というのは、みんなあんな感じなんでしょうか……」
予想だにしていなかった質問。
だが、星翠が言葉に詰まることはなかった。
「絶対そんな事ないと思いますよ」
「そ、そうですよね!よかった……時代が変わり過ぎてるのかと思って、怯えてしまった……」
変なところで安堵を感じるものだなぁ、と。星翠は少し可笑しくなって、口元を手で隠す。
「……インパクト強いですもんね、花蕗君」
「口が悪くて気が利いて、赤い長髪の女顔イケメン……属性盛り過ぎで渋滞してますよね……」
「属性」
「し、失礼しました!こちらの話でして——」
言いつつ、馨は再び顔を伏せる。
内心に抱えているであろう恐怖、憔悴を想像して——仙波星翠は更にもう一度、自らの勇気を奮い立たせる。
「——馨さん!」
「!ぅぇ、は、はい!?」
唐突な名呼びに、馨が素っ頓狂な声をあげる。
「状況が状況だし、馨さんが知らなくて私が知っている事があるのは事実です。でも、私は決して馨さんを傷付けたり、嫌な思いをさせたりはしません。だから——私はもう少し、馨さんと仲良くお話がしたいです……駄目ですか?」
それは、場違いな言葉だっただろうか。
今本当に必要とされる言葉だったのか、それはわからない。
だが、馨は見た。
正座した少女——その膝の上で震える、強く握られた拳。
小刻みに震える唇。
『それでも』、真っ直ぐに自分へと向けられる眼差し。
その視線に、ようやく馨は理解する。
——彼女はきっと、自分と同じだ。
人付き合いが苦手で、自分から誰かに声を掛けるのなんてもっと苦手。そんな自分と変わらない——自分よりも幼い少女が『それでも』、全身全霊の勇気を以て私に歩み寄ろうとしてくれている。
何故か。その答えは、既に少女自身の口から語られていた。
「えっと、あの——では……星翠、ちゃん?」
控えめに、その名を呼ぶ。
「——はい!」
その言葉に、星翠が大きく笑う。
花が咲く様に、陽が昇る様に。
そんな少女の顔を見て改めて、松下馨は、彼らを信じようと心に決めた。
——————
「…………」
「…………」
唖然。もしくは、呆然。
目の前に並べられた二人分の皿——その上にどかっと盛られた山盛りの炒飯を前に……星翠たちはここに来て、本日最大の困惑を示した。
「胡椒、辣油、にんにく……は自己責任な。言っとくけどマジで何にも気にしねーから、二人とも好きに食ってくれよ。足りなかったら言えよ、またなんか考えるから」
「は、花蕗君?」
「ぁあ?レンゲじゃなくて普通のスプーンのが良かったか?」
変なところで妙にズレた気遣いに、星翠が首をぶんぶんと振る。
「じゃなくて、ちょーっと……多い、かも?」
「お、なら良かったぜ」
「え」
「足らねーよりゃ万倍良いだろ。残りゃ明日の朝飯にすりゃ良いだけだしよ」
「……うちのおばあちゃんと同じ事言ってる」
「良い身内持ってんじゃねーか」
カラッとした笑みを浮かべる静。
その笑顔を、ふいと馨へと向ける。
「知らねー男の飯にゃ抵抗あるだろーけどよ。腹ぁ決まるんなら、腹一杯食ってくれよ」
言葉に、馨は目線を皿へと戻す。
作りたての炒飯からは、ほかほかと湯気が立ち、見るからに食欲をそそった。
意を決して、と言うほどに大それたものではなかったが。言葉の通り、僅かばかりは確かにあった内心の抵抗を噛み潰し、馨が一口、炒飯を口へと運んだ。
——————
「——————美味しい」
心の底からの一言。
これに静は、
「はっ、レシピ守りゃー家炒飯なんざそうそう失敗しねーよ」
などと憎まれ口を吐きながら——それでも、大きな笑顔で応えた。




