第9話 鉄の旋律、影の訪れ
アイゼンの朝を支配するのは、もはや絶望の沈黙ではなかった。
街の各所に再興された鍛冶場から響く、硬質な金属音。それはまるで、巨大な怪物が規則正しい鼓動を取り戻したかのような、力強い「鉄の旋律」だった。
ルナが開発した新型の魔導炉からは、不純物を一切含まない純白の煙が立ち上り、青く澄み渡った空へと溶けていく。浄化された大地からは、十年間眠っていた高純度の鉄鉱石が次々と運び出され、職人たちの熟練の技によって、王都のそれをも凌駕する武具へと姿を変えていた。
「……いい音。この街が、本当に生き返ったんだなって実感するよ」
市庁舎のバルコニーで、ミリアが目を閉じて風の音を聞いていた。彼女の耳は、数キロ先で瓦礫を運ぶ人々の話し声や、新しく開店した酒場の喧騒、そして――。
「ルナ姉、フィオナ姉。……『雑音』が混じり始めた」
ミリアの言葉に、執務机で複雑な貸借対照表を精査していたルナが、静かに顔を上げた。
「雑音、ね。……具体的には?」
「街の北側、古い時計塔の影。それから、三番街の廃屋。足音がしない連中が、五人……いや、七人。昨日から、私たちの動向をずっと探ってる」
ミリアの指先が、地図の一点を正確に指し示した。
フィオナが、壁に立てかけていた大剣を無造作に掴み、肩に担いだ。
「へえ、バシュラル伯爵の兵じゃないね。あいつらはもっと、蹄の音を隠さない馬鹿ばっかりだったし。……となると、王都の『掃除屋』かな?」
「おそらくね」
ルナは書類を閉じ、窓の外を見つめた。
「『魔鋼』の噂は、すでに王都の耳にも届いているはず。魔導院にとって、自分たちの利権を脅かす未知の技術は、手に入れるか、さもなくば根絶やしにすべき対象だわ。……エドワード・ヴァイン。あの男、思ったよりも執念深いようね」
ルナは、怯えるどころか、薄く笑みを浮かべた。
「いい機会だわ。アイゼンの治安が、単なる自警団レベルではないことを、王都の連中に教えてあげましょう。――フィオナ、ミリア。準備はいい?」
その日の深夜。
月が雲に隠れ、アイゼンが深い闇に包まれた刻。
黒い装束を纏い、気配を完全に殺した影たちが、ルナたちが宿泊している市庁舎の裏手へと音もなく着地した。彼らは王都直属の隠密部隊「影の爪」。魔導具によって声を消し、姿を晦ませる、暗殺の専門家たちだ。
「……ターゲットは三名。長女を拘束し、魔鋼の製法を吐かせろ。妹二人は抵抗するなら始末して構わん」
リーダー格の男が、手信号で指示を飛ばす。
彼らが二階の執務室の窓へと手をかけた、その瞬間だった。
「――暗闇でコソコソするのは、ネズミの仕事だよ」
頭上から、冷ややかな声が降ってきた。
影たちが驚愕して見上げると、そこには月光を背に、巨大な剣を軽々と振り回す少女――フィオナが立っていた。
「悪いけど、この街の夜道はまだ舗装が終わってないんだ。……足元、気をつけてね?」
フィオナが屋根から飛び降りると同時に、空中で大剣が一閃した。
ただの物理攻撃ではない。ルナが事前に施した「風の付与魔法」により、剣筋は真空の刃となって影たちの隊列を切り裂く。
「くっ……伏せろ! 魔法騎士か!?」
影の一人が叫ぶが、その喉元に、無音で飛来した一本の矢が突き刺さった。
「残念、ただの冒険者だよ」
闇の中からミリアが現れる。彼女の瞳は、暗視魔法によって怪しく黄金色に輝いていた。
ミリアは矢を番えることなく、指先だけで不可視の魔力の弦を引き絞る。
「私の目は、心臓の音まで見えるから。隠れても無駄だよ」
影たちは即座に陣形を立て直し、煙幕と毒針を放ったが、彼女たちの前ではそれすらも無意味だった。
フィオナの剛腕が、石畳ごと影の一人を叩き潰し、ミリアの精密な射撃が、逃げようとする者の脚を正確に射抜いていく。
そして、最後の一人が逃げ場を失い、広場の中央で立ち尽くした時。
瓦礫の影から、優雅に歩み寄る一人の女性がいた。
「……貴方が、リーダーですね」
ルナは、冷気で形成された美しい椅子に腰掛け、足元で震える男を見下ろした。
「王都魔導院の監査官、エドワード・ヴァインに伝えなさい。『アイゼンの扉は開かれている。ただし、それは対等な商人と、敬意ある客人のためだけだ』と」
「……お、お前ら……自分が何をしているか分かっているのか……! 魔導院に逆らって、この国で生きていけると思うな……!」
男が恨みがましく叫ぶ。ルナはその言葉を、退屈そうに聞き流した。
「生きる? いいえ、私たちは『支配』しに来たのよ。この街の鉄が王都の門を叩く時、どちらが膝を突くことになるか、楽しみにしていてちょうだい」
ルナは指を鳴らした。
瞬間、男の周囲の地面が凍りつき、彼の体を傷つけることなく、首から下を完全に拘束した。
「ミリア、彼らの持ち物をすべて没収して。特に魔導院の刻印がある装備は、重要な『証拠品』になるわ。フィオナ、残りの連中はガルスさんのところへ。新しい下水路の工事、人手が足りないと言っていたでしょう?」
「了解! 王都の精鋭様に、アイゼンの泥掃除ができるかな?」
フィオナが不敵に笑い、動けなくなった男たちを引きずっていく。
嵐のような夜が明け、再びアイゼンに「鉄の旋律」が響き始めた。
昨夜の騒動などなかったかのように、住民たちは活気ある朝を迎えていた。だが、街の境界には、さらに強固な防衛魔法の結界が張られ、その中心で三姉妹は次なる一手を見据えていた。
ルナは、手元に届いた一通の書状を眺めた。
それは、王都の財相ボルマンからではなく、隣国の有力な商会連合からの「招待状」だった。
「……アイゼンの魔鋼、どうやら海を越えて噂になったようね」
「ルナ姉、次はどうするの?」
ミリアが尋ねる。
「内政はガルスさんに任せられるまでになったわ。これからは、外の世界に『アイゼン』という新しい秩序を認めさせる段階よ。……まずは、この鉄を使って、王国最強の『私兵団』を組織しましょう。誰も手を出せない、真の聖域を作るために」
三姉妹の覇道は、アイゼンというゆりかごを飛び出し、王国全土、そして大陸の勢力図を塗り替えるための大遠征へと繋がっていく。
鉄の旋律は、やがて新たな時代の凱歌へと変わるのだ。
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