第8話 鋼の再誕、領主の強欲
アイゼンの空から「死の霧」が消え去ってから一週間。
かつて静寂と腐敗が支配していた街には、今や耳を打つような喧騒が戻っていた。
カン、カン、カン、と、一定の刻みで響くのは、街の北東部に位置する巨大な鍛冶工房群から放たれる「槌の音」だ。地下の魔力ラインが正常化したことで、熱源となる魔導炉が再起動し、十年間冷え切っていた鉄床が再び熱を帯び始めたのである。
「いい、火力が安定しないのは魔石の配置が歪んでいるからよ。ミリア、第三回路の調整を。フィオナ、貴女はあそこに積まれている粗悪な鉄塊をすべて粉砕して。不純物を取り除いてから再鋳造するわ」
ルナの凛とした指示が、煤煙の立ち込める工房内に響く。彼女はもはや、高価なドレスを纏った令嬢の姿ではない。袖を捲り上げ、革のエプロンを身に着けた、一人の「現場指揮官」としての顔を見せていた。
住民たちは、当初こそ彼女たちの指示に戸惑っていたが、ルナが提示した「成果報酬制」という仕組みに目の色を変えた。
ただ働かせるのではない。質の高い鉄を打てば、それに応じた「アイゼン貨」――ルナが独自に発行した、金貨との換金を保証する暫定通貨――を支給する。この経済的刺激が、絶望に沈んでいた職人たちの指先に、かつての熟練を呼び戻していた。
「……ルナ姉、すごいね。みんな、昨日まで死にそうな顔してたのに、今はあんなに必死になって鉄を叩いてる」
魔導回路の調整を終えたミリアが、額の汗を拭いながら感心したように言った。
「人は希望だけでは動かないわ、ミリア。けれど、自分の努力が目に見える『数字』と『温かい食事』に変わると分かれば、魔物よりも強く、貪欲になれる。それが人間の本質よ」
アイゼンの再誕。その象徴とも言えるのが、彼女たちが精製に成功した「魔鋼」だった。アイゼン特有の鉄鉱石に、地下から溢れ出す純粋な魔力を浸透させたその金属は、王都で流通する並の鋼鉄の数倍の強度と魔導伝導率を誇る。
これが市場に出れば、王国の軍事バランスすら書き換えかねない。ルナの狙いはそこにあった。
しかし、眩しすぎる光は、必ず影を呼び寄せる。
「……来たよ、ルナ姉。嫌な匂いのする一団が、西門に」
ミリアが顔を上げ、警戒の視線を向けた。彼女の鋭敏な感覚は、アイゼンの静寂を乱す「異物」の接近を捉えていた。
西門の瓦礫が取り除かれた大通りを、数十騎の騎馬隊が土煙を上げて進んできた。
その先頭を歩くのは、贅を尽くした銀の装飾が施された鎧を纏い、マントに「双頭の鷲」の紋章を刻んだ男。このアイゼンを含む辺境一帯を名目上の所領とする、隣接地の領主、バシュラル伯爵であった。
バシュラルは、整然と片付けられつつある街並みと、稼働を始めた工房から上がる煙を見て、その太った顔を醜く歪めた。
「……これは驚いた。呪われた廃都が、一週間でここまで息を吹き返すとはな。噂に聞いた通り、カルナ村の小娘どもが何やら奇跡を起こしたというわけか」
馬を止めたバシュラルは、迎えに出たルナを見下ろし、傲慢に言い放った。
「私が領主のバシュラルだ。娘よ、貴女たちの働きには感謝しよう。この街の浄化、誠にご苦労であった。さあ、残りの作業は我が軍が引き継ぐ。貴女たちには相応の『退職金』を支払おう。速やかにこの地を去るがいい」
広場に集まっていた住民たちの間に、動揺が広がった。せっかく手にした希望が、また権力者に奪われる。そんな絶望が、再び彼らの心を支配しようとする。
しかし、ルナは怯むどころか、くすりと小さく笑った。
「退職金、ですか。バシュラル伯爵、貴方は何か勘違いをなさっているようですね」
「何だと?」
「このアイゼンの暫定統治権は、王立銀行および財相ボルマン伯爵の承認のもと、私、ルナ・カーヴィルが正当に保持しています。貴方は『名目上』の領主ではありますが、この十年、管理義務を放棄し、一銭の税も、一人の兵も送らなかった。王国の法典第十七条、領地管理放棄に関する特別項を適用すれば、貴方の支配権はすでに失効しています」
バシュラルの顔が、屈辱で赤黒く染まった。
「……貴様、誰に口を利いている! そのような紙切れ一枚の法理が、実力行使の前に通用すると思っているのか!」
バシュラルが合図を送ると、後方の兵たちが一斉に抜剣した。
その瞬間、風が止まった。
伯爵の鼻先に、巨大な鉄の塊が突きつけられた。
「……動くなよ、伯爵。あんたの首の皮なんて、私の剣の錆よりも薄いんだからさ」
いつの間にか間合いを詰めていたフィオナが、大剣を伯爵の喉元に静止させていた。彼女の瞳には、一切の慈悲がない。
「フィオナ、下げなさい。お客様を脅してはいけないわ」
ルナが冷ややかに制するが、フィオナは剣を引こうとしない。
「ルナ姉、こいつら、私たちの街を奪いに来たんだよ? ここで叩き出さないと、また同じことの繰り返しだよ」
「ええ、分かっているわ。だからこそ、『取引』をするのよ」
ルナはバシュラルに対し、一枚の書類を突きつけた。
「伯爵。貴方の背後にいるのは、王都の魔導院ですね? 彼らから『アイゼンを奪還せよ』との密命を受けてここへ来た。……違いますか?」
バシュラルの目が大きく泳いだ。正解、ということだ。
「魔導院は、私が公売にかけた蜘蛛の卵を買い叩けなかったことを根に持っているのでしょう。ですが、伯爵。貴方は彼らに利用されているだけです。もしここで私たちが抵抗し、貴方の兵に死者が出れば、不名誉なのは貴方だけだ。対して、もし私と手を組めば……この工房で生まれる『魔鋼』の優先購入権を貴方に差し上げましょう」
「魔鋼だと……? あの伝説の金属を、安定供給できるというのか?」
「ええ。アイゼンの地下資源は、私の管理下でこそ真の価値を発揮します。貴方は『名誉ある領主』として王都に報告し、実利として魔鋼を手に入れる。私は、私の街の自由を確保する。……悪い話ではないはずです」
バシュラルは、喉元の剣の感触と、ルナが提示した巨大な利益を天秤にかけた。
やがて、彼は震える手で汗を拭い、兵たちに剣を収めるよう命じた。
「……フン。交渉の余地はあるようだな。だが、娘よ。魔鋼が期待外れだった場合、次は軍勢を率いて戻ってくるぞ」
「その必要がないことを、すぐに証明して差し上げますわ。……さあ、ガルスさん。伯爵とその兵の皆さんに、我が街自慢の『パンとスープ』を。ただし、代金はきっちりいただきますので」
バシュラルの一団が不承不承ながらも広場の椅子に座るのを見て、ルナは静かに息を吐いた。
「ルナ姉……本当にあんな奴と組むの?」
フィオナが不満げに剣を収める。
「組むのではないわ。餌を与えて飼い慣らすのよ。敵対するよりも、利益を共有して依存させる方が、よほど強固な盾になる。……でも、これで王都の魔導院が本気で私たちを『障害』と見なすことは確定したわね」
ルナは、再び煙を上げ始めた工房の煙突を見上げた。
鋼が再誕した。それは同時に、王国を支配する既得権益という名の岩壁に、最初の一撃を叩き込んだことを意味していた。
アイゼンは、もはやただの廃都ではない。
王国の秩序を侵食し、新たな時代を鋳造する「覇道の工場」へと変貌を遂げたのである。
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