第4話 黄金の使者と、沈む影
交易町ドレミアの西門を、三人の少女が潜ったのは、日が完全に落ち、街灯の魔石が淡い燐光を放ち始めた頃だった。
三姉妹の姿は、出発時とは明らかに異なっていた。フィオナの錆びた大剣には蜘蛛の緑色の体液がこびりつき、ミリアの外套の裾は森の泥と霧で重く湿っている。しかし、先頭を歩くルナの足取りだけは、まるで王城の回廊を歩くかのように優雅で、その瞳には獲物を仕留めた者特有の静かな熱が宿っていた。
彼女たちがギルドの扉を再び押し開けた瞬間、酒場を兼ねた広間は、文字通り「凍りついた」。
数時間前まで彼女たちを嘲笑っていた冒険者たちが、信じられないものを見る目で彼女たちを凝視する。その視線の先にあるのは、ルナの背後でフィオナが誇らしげに担いでいる、巨大な蜘蛛の足――そして、布越しにも不気味な光を放つ、変異種の卵が入った麻袋だった。
「……まさか、本当に仕留めたのか」
誰かが掠れた声で呟いた。その声は波紋のように広がり、瞬く間にどよめきへと変わる。
「あの『黒霧の女王』だぞ? 王都の正規軍が半壊したって噂の……」
「しかも、たった三人の、あんな子供たちが?」
ルナは周囲の雑音を柳に風と受け流し、迷いのない足取りで受付カウンターへと進んだ。カウンターの奥では、前回彼女たちを軽視した受付嬢が、椅子から半分立ち上がった状態で硬直していた。
「報告に来ました。クイーン・ヴェノムの討伐、および卵十二個の回収を完了しました。査定をお願いします」
ルナが卓上に蜘蛛の牙を一本、無造作に置いた。それは大人の腕ほどもある巨大な牙で、まだ微かに猛毒の芳香を漂わせている。
「あ、ああ……ええ、ただちに。査定官を呼びます! 少々お待ちください!」
受付嬢は慌てて奥の部屋へと駆け込んでいった。
その時、ギルドの二階へと続く階段から、ゆっくりと一人の男が降りてきた。
仕立ての良い金の刺繍が入った外套を纏い、冒険者とは明らかに一線を画す洗練された、しかし油断のならない雰囲気を纏った男。彼の胸元には、王都の紋章――「黄金の鷲」が刻まれたブローチが輝いている。
「実に見事だ。辺境の原石とは聞いていたが、これほど早く磨き上げられるとはね」
男の声は、滑らかで心地よい響きを持っていたが、ルナはその響きの奥に潜む「支配者の傲慢」を聞き逃さなかった。
男はルナの前で立ち止まると、芝居がかった仕草で一礼した。
「初めまして、カーヴィル家の麗しき令嬢たち。私は王都魔導院の監査官、エドワード・ヴァイン。この地での『変異種調査』の責任者を務めている」
ルナの瞳が、僅かに細まった。
「……魔導院の監査官様が、このような辺境の支部で何をなさっているのですか? それも、私たちが依頼を達成したこの絶妙なタイミングで」
「鋭いね。嫌いじゃないよ、その疑い深い目は」
エドワードは薄笑いを浮かべながら、フィオナが持っている麻袋に視線を向けた。
「その卵だ。クイーン・ヴェノムの卵は、王国の軍事機密に関わる重要素材として指定されている。本来であれば、このような一般のギルド依頼に出るはずのないものだった。……手違いでね。それを回収するために、私はここに来た」
「手違い、ですか」
ルナの声に、温度が数度下がったような冷気が混じる。
「私たちが命を懸けて持ち帰った成果を、その一言で没収なさるおつもり? ギルドの規約によれば、正当な依頼に基づく戦利品の所有権は、第一に冒険者に帰属するはずですが」
周囲の冒険者たちが、固唾を呑んで見守る。王都の権力者に対し、一介の村娘が真っ向から反論するなど、正気の沙汰ではない。
エドワードは僅かに眉を動かしたが、すぐに余裕の笑みを取り戻した。
「もちろん、無償でとは言わない。相場の二倍、いや三倍の報奨金を約束しよう。それに加え、君たちには王都への推薦状を書いてもいい。どうかな? 名もなき辺境の娘が、一躍、王都の寵児になれるチャンスだ」
「お断りします」
ルナの即答に、エドワードの笑みが消えた。
「報奨金はギルドを通じて正規の金額をいただければ結構です。そして推薦状などという、誰かの顔色を窺って生きるための紙切れは必要ありません」
「……ほう。では、何が望みだ?」
「私たちは、この卵を『オークション』にかけます」
ルナは背後のフィオナとミリアに視線を送り、確信に満ちた笑みを浮かべた。
「この卵の価値を知っているのは、魔導院だけではないはず。隣国の商人や、独自に魔導研究を進める新興貴族たち。彼らにとって、この『変異種』の生体サンプルがどれほどの価値を持つか……監査官様なら、私よりもよくご存知でしょう?」
「貴女……自分が何を言っているのか分かっているのか? それは王国への反逆とも取られかねないぞ」
エドワードの周囲に、ピリピリとした魔力のプレッシャーが漂い始める。
「ルナ君、君は自由を謳歌するが、それは無秩序と何が違うのかね?」
エドワードは窓の外、魔力枯渇で枯れ果てた街路樹を冷徹な目で見つめた。
「魔力の枯渇は、文明の死だ。私はこの手を汚してでも、管理という鎖で民を繋ぎ止め、人類の灯を一日でも長く延命させる責任がある。君の提唱する『循環』がもし幻想に過ぎなかった場合、その時失われるのは、この国すべての命なのだよ。私は君のような博打打ちに、人類の未来を委ねるわけにはいかないのだ」
しかし、その圧力を切り裂いたのは、ミリアの冷ややかな一言だった。
「……ねえ、監査官さん。さっきから嘘の匂いがするよ。この森の蜘蛛、貴方たちが放流したんでしょ? 実験のために」
ミリアは、隠し持っていた小さな「魔石の欠片」をエドワードの足元に放り投げた。それは、森で蜘蛛の死骸から回収した、王都製の刻印が薄く残る触媒だった。
ギルド内が、静まり返った。
エドワードの顔から、人間らしい表情が完全に剥がれ落ち、冷酷な「管理者」の顔が露わになる。
「……辺境の猿にしては、少々鼻が利きすぎたようだな」
エドワードが指を鳴らそうとしたその時、背後から荒々しい足音が響いた。
「そこまでだ、王都の旦那!」
現れたのは、昼間の失態で赤っ恥をかいたはずのダリオだった。彼は自分のパーティー〈赤牙の槍〉を率い、エドワードを包囲するように立ち塞がった。
「俺たちは確かにろくでなしだが、ギルドの依頼を完遂した仲間を、王都の権力に売り渡すほど腐っちゃいねえ。……おい、お嬢ちゃん。昼間の借りは、ここで返させてくれ。ここは俺たちの『庭』だ」
ルナは意外そうにダリオを見つめ、それから小さく、そして不敵に笑った。
「……ダリオさん。貴方の評価を、少しだけ上方修正させていただきますわ」
エドワードは周囲の冒険者たちが一斉に武器を取るのを見て、舌打ちをした。ここで騒動を起こせば、魔導院の「不祥事」が明るみに出る。それは彼にとっても本望ではない。
「……今日のところは、この場を譲ろう。だが、カーヴィル。君たちは大きな間違いを犯した。王国のシステムを敵に回して、この先どこまで歩けるか、見ものだな」
黄金の使者は、沈む影を引くようにしてギルドを去っていった。
三姉妹の勝利。しかし、それは同時に、彼女たちが王国の巨大な腐敗の歯車に、直接指を突っ込んだことを意味していた。
その夜、ルナは宿の屋上で月を見上げていた。
「ルナ姉、これで良かったんだよね?」
ミリアが隣に座る。フィオナは階下で、ダリオたちと(嫌々ながらも)祝杯を上げている声が聞こえる。
「ええ。私たちは最初から、穏やかな成功など望んでいないわ。奪われる側から奪う側へ。そのためには、まずこの国の『王』が座る椅子の脚が、どれほど腐っているかを世に知らしめる必要がある」
ルナの手の中で、蜘蛛の卵が不気味に、しかし力強く鼓動していた。
三姉妹が手にしたのは、富ではない。
王国を根底から揺るがすための、「猛毒」という名の力だった。
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