第3話 黒霧の深淵、蜘蛛の女王
ドレミアの街から北西へ半日ほど歩くと、そこには「黒霧の森」と呼ばれる広大な樹海が広がっている。
陽光を遮るほどに高くそびえる巨木の群れ、そして地表を這うように漂う、粘り気のある灰色の霧。この霧には微弱な魔力が含まれており、方位磁石を狂わせ、冒険者の感覚を麻痺させる。
「……霧が深いね。まるでお墓の中にいるみたい」
フィオナが鼻を鳴らし、大剣の柄を握り直した。彼女の肌は、周囲に満ちる魔物の殺気を敏感に感じ取っている。
「ミリア、足跡はどう?」
ルナの問いに、末妹は地面に跪き、濡れた土を指でなぞった。
「……大型の多脚種。それから、小型の個体が無数に。全部、森の中央……一番霧が濃い方に向かってる。でも、変なの」
「何が変なの?」
「足跡が、逃げているみたいに見える。何かに追い詰められているような、そんな不規則な歩幅」
ミリアの指摘に、ルナは目を細めた。
通常の「変異種」であれば、周囲の魔物を駆逐して縄張りを広げるものだ。しかし、もしその変異種自体が何かに怯えているとしたら。
「警戒を強めましょう。私たちの敵は、依頼書にある蜘蛛だけではないかもしれないわ」
三人は森の深部へと足を踏み入れた。
道中、幾度となく「霧蜘蛛」と呼ばれる下位個体が襲いかかってきたが、彼女たちの連携には一切の無駄がなかった。
ミリアが気配を察知して位置を特定し、フィオナがその剛腕で蜘蛛の硬い外殻を叩き割り、漏れた魔力をルナが氷結の術で封じ込める。
返り血の一滴すら浴びることなく、彼女たちは着実に「深淵」へと近づいていく。
やがて、霧の向こうに巨大な「繭」のドームが見えてきた。
それは、数十本の巨木を白い糸で繋ぎ合わせて作られた、おぞましい建築物だった。ドームの周囲には、この森に生息する鹿や狼、さらには不運な冒険者のものと思われる装備品が、糸に巻かれた状態で吊るされている。
「……あそこね」
ルナが短く告げた瞬間、頭上の樹冠から凄まじい質量が降り注いだ。
ドォォォン! という地響きと共に、三人の前に姿を現したのは、全長五メートルを超える巨大な蜘蛛――変異種・クイーン・ヴェノムだった。
その背中には、まるで苦悶する人間の顔のような模様が浮かび、八本の脚は鋼鉄のように黒光りしている。さらに異様なのは、その全身から紫色の毒ガスを噴出していることだった。
「フィオナ!」
「任せて!」
フィオナが地を蹴り、巨大な蜘蛛の正面へと躍り出る。
クイーン・ヴェノムが前脚を鎌のように振り下ろすが、フィオナはそれを錆びた大剣の腹で受け流した。火花が散り、衝撃波が周囲の霧を吹き飛ばす。
「はあああぁっ!」
フィオナは力任せに押し返すと、そのまま蜘蛛の関節を狙って一閃を放つ。しかし、蜘蛛の外殻は想像以上に硬く、剣を弾き返した。
「ギィィィィィィッ!」
蜘蛛が耳をつんざくような悲鳴を上げ、口から粘着性の糸を吐き出した。
同時に、ミリアの放った三連射の矢が空中で糸を射抜き、その軌道を逸らす。
「ルナ姉、普通の矢じゃ殻を抜けない! 関節の隙間も糸でガードされてる!」
ミリアが叫びながら、次々と矢を放ち、蜘蛛の目を牽制する。
ルナは冷静に戦況を分析していた。
この蜘蛛は単なる変異種ではない。魔力を吸収し、それを外殻の強化に回している「魔力食い」の個体だ。物理攻撃だけでは決定打に欠ける。
「フィオナ、下がって。ミリア、火焔草の粉末を散布しなさい!」
ミリアは即座にポーチから赤い粉末を取り出し、風の魔法を込めた矢で空中に散らした。
蜘蛛が不快そうに身悶えする。火焔草の粉末は、微細な発火点を持つ。
「凍てつき、そして砕けよ――『氷界・連鎖崩壊』」
ルナが両手を大地に触れる。
瞬間、蜘蛛の足元の水分が爆発的に凍結し、その巨大な体を氷の柱が突き上げた。
しかし、ルナの狙いは蜘蛛を凍らせることではない。
極低温に晒された蜘蛛の外殻は、急激な温度変化に耐えきれず、目に見えない微細な亀裂を無数に生じさせた。
「今よ、フィオナ! 一点突破!」
「了解ッ! 最高の一撃を食らいなよ!」
フィオナが大剣を大きく振りかぶり、ルナが凍らせた蜘蛛の眉間へと全筋力を叩き込んだ。
パリン、という硬質な音と共に、鉄壁を誇った外殻がガラスのように粉砕される。
大剣は蜘蛛の脳を貫き、緑色の体液が噴き出した。
絶命したクイーン・ヴェノムが地面に伏すと、森に静寂が戻った。
フィオナは大剣を肩に担ぎ、荒い息を整える。
「……ふぅ、手強かった。でも、ルナ姉の策がなきゃ、今頃こっちが糸巻きにされてたかもね」
「助かったわ、二人とも。でも、本当の仕事はこれからよ」
ルナは蜘蛛の死骸に近づくと、ナイフを取り出し、その腹部を丁寧に裂いた。
中から現れたのは、淡い光を放つ十数個の卵。そして、蜘蛛が飲み込んでいたのであろう、未消化の魔石の塊だった。
「この卵は王都の魔導院が高値で買い取るわ。そしてこの魔石……これはこの森の魔力の源。私たちがこれを持つということは、この森の生態系を握るということよ」
(……不純物が多すぎるけれど、磨き方次第では……)
その時、ミリアが森の奥を見つめて呟いた。
「ルナ姉、さっきの違和感……まだ消えない。この蜘蛛、やっぱり誰かに『植え付けられた』ものじゃないかな? 自然にこんな変異をするなんて、おかしいよ」
ルナの手が止まる。
ミリアの直感は、しばしば真実を射抜く。
もしこの変異種が人為的なものだとしたら、ドレミアのギルドがこの依頼を放置していた理由も、単なる難易度の問題ではない可能性がある。
「……面白いわね。私たちの最初の功績が、誰かの計画を邪魔することになるなんて」
ルナは不敵に微笑んだ。
「ミリア、残りの卵も全て回収して。一つも残さず、私たちの『資本』にするわ。フィオナは周囲の警戒を。……誰かが見ている気がするわ」
三姉妹は、死闘の跡を後にした。
彼女たちの背後、霧の深淵から、幾つかの赤い光が彼女たちを見送っていた。
それは魔物の目か、あるいは、彼女たちの台頭を快く思わない「人間」の目か。
ドレミアの街に戻った時、彼女たちを待っていたのは、賞賛の嵐だけではなかった。
ギルドの奥、重厚な扉の向こう側で、一人の男が報告書を握りつぶしていた。
「……カルナ村の小娘たちが、あの『女王』を狩っただと? 予定が狂う。早急に、彼女たちの素性を洗え」
三姉妹の覇道は、まだ始まったばかり。
しかし、彼女たちが手にしたのは単なる報酬ではない。王国の闇に触れるための、最初の手がかりだった。
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