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天の剣(3)

【side:ロナ・ボレアリス】


「ロナ・ボレアリス? ボレアリスってあれだろ? ”元”伯爵家の」

 三回戦の対戦相手の男は、あたしが名乗るとすぐにそう言った。見せびらかすように胸に付けた家の紋章を指でなぞりながら、人を馬鹿にしたような甲高い声で。その目には、他者の没落を娯楽として消費する、下品な光が宿っている。

 その一言で、あたしの心は冷たく、鋭く尖った。

 この男、シュトロム・ハワードと言ったか。聞いたこともない。ここ数年で、金で爵位を買って取り立てられたどこぞの新興男爵家の息子だろう。

 男爵は取り立てられた一代限りの位だ。だから必死なのだ。子を聖騎士、すなわち王の近衛にして取り入り、家の地位を盤石なものにしようと。親の野心の傀儡であるこの男の、中身のない軽薄さに反吐が出る。

「ええ、そうよ。そのボレアリス」

 未だに貴族連中は、あたしの家名を聞くとそう言って嘲笑う。五年前にハットン家に貶められ、国庫横領などという馬鹿げた濡れ衣を着せられたボレアリス家は、爵位を剥奪された。祖父も、父も、叔父もその後すぐに暗殺された。ハットン家の薄汚い陰謀だということは公然の秘密だが、もはや貴族としては堕ち切っている。

 そして、誰よりも家名を誇っていた母は、壊れてしまった。

 毎日のように裸足で田畑を踏み荒らし、舞踏会の真似事をしている。その目にもう正気はない。

 だから、取り戻す。

 上級聖騎士となって、伯爵相当位を得る。全てを奪っていった者たちを、法の下に裁くために。あたしには、明確な目標がある。

 この男に負けるわけにはいかないし、負けるはずもない。

「分からせてやるよ。現貴族の力をな」

 この手の嘲笑にはもう慣れている。後ろで一つにまとめたあたしの赤髪が風に揺れた。――母と同じ、そして父が撫でてくれた、ボレアリスの血の象徴。あたしは髪紐をきつく結びなおすと、細剣を引き抜き、構えた。

 審判役の先生が、深く息を吸い込むのが見えた。唇が「は」の形に開く。あたしはそれを合図にして魔力を循環させ《反射神経強化》を行う。

「はじめっ!」

 シュトロムは土属性魔法を発動。シュトロムの足元から岩の柱が突き上げられ、その勢いで高く飛んだ。いや、空中に放り出されたというべきか。

「終わりだ! うおおおっ!」

 ニヤけ面を崩さないシュトロムの頭上からの大振り。欠伸が出そうだ。足を一切動かさず、構えた細剣で滑らせるように流す。鳴った金属音は大したものだが、腕に伝わる衝撃は羽毛のように軽い。

 体勢を崩した彼は地面にそのまま転がった。鈍い音、受け身が全く取れていない。次の手を全く考えていない攻撃だ。

 空からの大上段。確かに初めて見たら驚くかもしれない。これで一回戦、二回戦を勝ち抜いたのだろう。だが、誰もやらないのは分かっていれば対処が容易だからだ。

「ありがとう、シュトロム・ハワード。現貴族の力については理解できたわ」

「ば、バカにするなよっ!」

 転がるシュトロムにそう吐き捨てると、彼は立ち上がり、まっすぐ突っ込んできて剣を二度三度と振り回した。まるで児戯。今度は最小限のステップだけで全てかわす。

「流派だけは立派に貴族なのね」

 銀獅子流。彼の剣筋は酷く拙いが、貴族階級が習うことの多いその流派であろうことが見て取れた。本来はもっと腰を落とし、体全体で振るう剣のはず。彼はただ腕だけで振り回しているだけ。

「どうした! ボレアリス! 僕の剣が怖いのか! 没落した”あの”ボレアリスだもんなあ!」

「はあ、バカね」

 ため息が出る。もう、終わりにしよう。彼が隙だらけで大振りな剣を振りかぶったその瞬間、冷静に彼の背後にある空間に意識を合わせる。

 ――《瞬転》発動。

 一歩踏み出すと、視界が白く塗りつぶされ、体が空間に溶けて再構築されるような浮遊感が走る。

 次の瞬間、あたしは男の背後に立っていた。目の前には、虚空を切り裂く彼の剣。鼻をかすめるのは、驚きと恐怖で開かれた彼のうなじから発せられる、汗の匂い。

「なっ!? どこだ!?」

 眼前からあたしが消え、うろたえ叫ぶ彼の肩を、細剣の腹で軽く叩く。

「”この”ボレアリスよ」

 瞬転。それは我が家にのみ伝わる秘伝。二、三メートルの短距離を瞬間移動するこの技は、五十年前の戦争でボレアリス家を白魔法の大家にまで押し上げた至宝。

 貴族ではなくなったとはいえ、この技に刻まれた誉れの尊さは、決して失われない。

 降参を認め、その場にうなだれる男に興味などなく、一瞥だけくれてやると背を向けた。喝采も野次も耳には届かない。重い扉を開けて勝者側の控室へ入ると、闘技場の喧騒が嘘のように遠ざかった。

 いくつかの瞳が品定めするようにあたしを見た。

「あれがボレアリスの……」

「全員殺されたんじゃ」

「バカ、声が出けえよ、聞こえるだろ」

 そんなことを囁き合っている。あたしは髪紐を解くと、見せびらかすようにして髪をかきあげた。

「あ、ロナちゃん」

 そこで、明るい声があたしの名を呼んだ。

 控室に入ると、黒いローブにすっぽりと体を包んだ少女が、嬉しそうに駆け寄ってくる。薄く紫がかった白い髪が、子犬の尻尾のように揺れていた。

「アルル! てことは、アルルも勝ったのね」

「あ、うん。なんとかね。ロナちゃんもおめでとう」

 アルルは少し眉を下げて言った。

 彼女の名前はアルル・ヴェラ。寮の同室になった彼女とは会って三日ばかりだが、不思議と気が合った。

「当然! あたしが負けるはずないんだから。アルルと当たるのは決勝ね」

「どうかな……。みんな本当に強そうだし、私はあんまり自信ないかも……」

「何言ってるのよ。”青薔薇”が泣くわよ」

 彼女はあたしの言葉に、少し困ったように笑った。

 アルルはヴェラ孤児院で育ったと言っていた。魔獣被害で親を失った子どもたちのための孤児院だ。彼女は、自分を育ててくれた孤児院に恩返しをするために、聖騎士となって金を稼ぎ、寄付をするのが夢なのだそうだ。

 あたしとは違う、立派な夢だ。

 アルルの夢は、誰かの未来を創る。けれどあたしの夢は、陰謀と血に汚された過去の幻影を追いかけているに過ぎない。

 失った命は戻らない。それでも、家名に誇りを取り戻せば、母の心は修復できるかもしれない。そんな一縷のために、あたしは剣を振っている。

「ロナちゃんは聞いた? ”天剣”の話」

 聞き慣れない言葉に首をかしげると、アルルは続けた。

「あの剣聖様みたいな剣捌きで、もう”天剣”なんてあだ名が付いてる」

「へぇ、強いのね。でも、五回戦まで上がってくるかも分からない」

「なんかすごく強いんだって。優勝候補だって噂になってるんだよ」

「ふうん、でもあたしは負けないわよ」

「ロナちゃんが強いのは知ってるけど……でも……」

 アルルの頭をくしゃくしゃと撫でる。

「心配性ね!」

「や、やめてよお……」

 ”天剣”か。それでも自信に満ちていた。ボレアリスの秘伝、瞬転への絶対的信頼だ。そいつの剣がどれほどすごかろうと、あたしの後ろ髪さえ切れやしないだろう。


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