天の剣(2)
【side:カタリナ・リグタール】
「はあー、今すぐ退学したいです」
おっと、思わず心の声が。けれど本音です。退学したいです、今すぐに。
皆さんはいいですよね。それぞれの騎士学校で実力を認められて、この聖騎士養成学院に来ているわけですから。
私は違います。金です。父が金を積んだのです。確証はないですが、多分裏口入学です。私が入れるはずないので。実力試験ではきちんと手を抜きましたので。本当に父も要らないことをしてくれました。ありがとうございました。
なぜ父が私をこの学院に入れたかというと、我がリグタール家から聖騎士を輩出して王家に忠誠を示したいからです。男爵という土地のない名ばかり一代貴族から脱したいからです。が、このカタリナ・リグタールには関係のないことです。
そんなことより寝ていたい。
けれども、自主退学はできません。父を怒らせてしまうからです。父を怒らせれば、脛もかじれなくなり、夢見るぐうたら人生も実現できないでしょう。寝るのに青空はちょっと寒い。
しかし、この学院は実力無しとされた生徒を退学にすると聞きます。
なんとか、退学にさせられたい……!
それに当たって、私にも反省するべきことがあります。
足元に転がる対戦相手の男。イシドロ・マルニオと言ったでしょうか?
「ワシの負けじゃ……」
呻くように敗北を認める姿は何ともかわいそうです。黒い肌は南方の出身でしょうか? オルセン侯爵領あたりかな?
その声を受けて、審判役の先生が淡々と右手を上げました。
「勝者、カタリナ・リグタール!」
その宣告に、観客席からパラパラと気のない拍手が聞こえました。それもそうでしょう。剣でも魔法でもなく背負い投げで決着がつく試合なんてつまらないですから。見栄えのしない試合。それでいいのです。目立たず、騒がれず、どうせ次の試合で静かに負けますから。
それにしても、初戦は勝ってしまいました。
最初の二、三の剣戟で分かりました。彼は強い。今まで戦ってきた誰よりも。当然、父が用意していたあの偉そうな剣術指南役よりも。
剣への体重の乗せ方が変幻自在で、うねるような太刀筋は全く読み筋が立たず、捌くだけで精一杯でした。あのまま剣で打ち合っていれば、あと数合で確実に押し負けていたでしょう。
彼が扱うのが片刃の剣だったから勝てただけです。シミター、と言ったでしょうか? 南方ではよく使われる武器だそうです。
私が押し負けたフリをして剣を手放した瞬間、魔法陣展開を行う仕草で釣られた彼の大振りを避けて、咄嗟に刃のない峰の部分を足の裏で踏みつけました。そして、無理やり体勢を崩して投げることができただけ。もし彼が凡夫なら、魔法陣展開のブラフに反応できず、あの大振りは誘えませんでした。もしあれが両刃の剣だったら、峰を踏むこともできませんでした。本当に、紙一重の運勝ち。剣速や魔法発動速度など、純粋な実力は完全に負けていました。このカタリナ、生まれて初めて本気でした。ちょっとワクワクしてしまいました。だからこそ勝ってしまったのが惜しいのですが。
トボトボと勝者用の控室に向かい、扉を開けるとそこには数人の生徒がいました。皆、次の試合に向けて精神を集中させているのか、あるいは先ほどの試合の興奮が冷めやらないのか、一様に口数は少なく、部屋は静まり返っています。あぁ、皆さんとても強そうです。場違いかもしれません。「四侯爵の一角、ステファン家のご子息が入学する。縁を繋いでおけ」と父に言われたのを思い出しました。うん、面倒ですね。父の言葉を頭からそっと消します。
次の試合まで隅の椅子に座って気配を消そう……そう思った矢先でした。
そんな静寂を破るように、あの不快な声は響き渡ったのです。
「おやあ、そこにいらっしゃるのはリグタール男爵家のカタリナ嬢ではございませんか?」
そのねっとりとした猫撫で声を聞いて、私は「あ、一番面倒くさいのがやってきたな」と直感しました。
そして、声のした方を見遣って、その直感が正しかったことを知るのでした。
刺繍過多で悪趣味なほどきらびやかな皮鎧、金属の肩当てには大きなハットン家の家紋。その男は油を塗りたくったように艶のある金髪を揺らし、作り物めいた笑みを顔に貼り付けています。ハットン伯爵家の三男、コーディ・ハットン。その甘ったるい香水の匂いだけで、私は頭痛がしてきます。
この男は、父とのコネが欲しくていっつもこうしてすり寄ってくるのです。生理的に全く受け付けないので、とても困っています。
私はこりゃまた長いのが始まるぞと思います。判で押したようなお世辞が始まるに違いない。ハットン伯爵家はなんとかして自派閥を作ろうと毎日夜会を開いていると聞きます。おかげでお金に困っているのでしょう。父の財力が欲しいのです。だからこうして、私にまで取り入ろうとする。貴族の付き合いというのは、本当に分かりやすくて、本当に面倒くさい。コーディという男も、親の都合のためによくやります。
だから、私はゆっくりと立ち上がってこう言ってやるのです。
「ハットン伯爵のご令息ではないですか。ご機嫌いかがですか?」
いや、これは仕方ないのです。事を荒立てれば、父から何を言われるか分かりませんから。
「機嫌はとてもいいですよ。なぜなら、カタリナ嬢の華麗な勝利を拝見しましたからね。あの南方の田舎騎士をいとも簡単に! お見事でした! そういえば、先程懐かしい顔を見ましてね。ロナ・ボレアリスという女を……」
ボレアリス? ああ、ハットン伯爵家に貶められたと噂のあの一族ですか。そういうことがあるから、父も必死になるわけです。貴族社会ですね。とても面倒ですね。けれど、私はにこやかに頷きました。そうすればコーディは勝手に話を続けてくれます。
一人で長々と喋ってくれるのはこの男の良いところでもあり、悪いところでもあります。
何も話さずニコニコしてればいいのはありがたいですが、長々と興味もない話を聞かされるのは苦痛でしかありません。
「……――いやはや、リグタール男爵の先見の明には、我が父も常々感服しております。平民から身を起こし、一代であれほどの財を成して男爵位を賜るなど、まさに現代の英雄譚! そのご令嬢であるカタリナ嬢が、こうして聖騎士への道を歩まれるのもまさに必然というわけです! 血は争えない、英雄の子は畢竟英雄と……」
はあー、話が長い。
よくもまあ、判子で押したみたいに毎回同じことが喋れるものだと、むしろ感心します。
父からハットン家とは仲良くしろときつく言われていますから、私はニコニコと愛想笑いを浮かべて話を聞くしかありません。普段あまり表情を作らないたちなので、頬の筋肉がひきつって痛くなってきます。この男と会った次の日は必ず顔が筋肉痛になるのです。これほどの苦難が他にあるでしょうか。いえ、ないでしょう。まさにこの学院という地獄に現れた悪鬼です。
私はコーディの話を右から左へと聞き流しながら、その視線を彼の背後へとそっと移します。そこに控えている小柄なメイドさんは、今日も無表情です。サヨさん、といったでしょうか? 切りそろえられた黒髪ショートに、黒くて大きくて丸い目。実家の黒猫を思い出します。あの無感動な表情の下では、一体何を考えているのでしょう。少なくとも、私と同じように「早く終わらないかな」と思っているに違いありません。
「……――――ということなのです。では、これで失敬。また機会があれば」
「ええ、また機会があればお話しいたしましょう」
やっと終わったー!
一応の礼儀ですから、一礼します。この先三年間はこの生活かと思うと、本当に気が滅入ります。二回戦は絶対に降参します。イシドロさんほどの実力者ではないでしょうし、今度こそ上手く手が抜けるはずです。
そして、寮部屋に帰ってお昼寝をするのです。そこまで思い至ったところで、あの固いベッドのことを思い出してしまいます。ああ、実家に帰りたい。羽毛が詰まったふかふかのベッドで、侍女が淹れてくれた甘いお茶を飲みながら、恋愛小説を一日中読んでいたいのに。それが私の夢見る最高の人生なのに。
ぐーっと背筋を伸ばすと、イシドロさんの剣を受けた手にまだ痺れが残っているのに気づきました。熱い。まだどくんどくんと自分の手が脈を打っているのが分かります。
徐々に上がる口角を自分の手で抑えます。
「はあー、今すぐ退学したいです」




