第七話 「う●こが臭いのはなぜでしょう?と私は尋ねています」
翌週の月曜日、学校の校庭に温泉が湧いていた。
グラウンドのトラックの内周がすっぽり陥落し、
そこにお湯がたっぷりと溜まっている。
温度は、ややぬるめ。ちょうど良い湯加減だと校内は沸き立っていた。
温泉に入りたいと生徒は盛り上がり、
水泳部は温水プールだと水着に着替え始めたのだが、
陸上部顧問の柑子先生が苛立ちながらピストルを片手にしていたため、
入浴は自重された。
「これじゃあ練習できないじゃない!」
先生の焦りはもっともだった。
来週の土日には県大会を控えている。
トラックを使えない状況は、陸上部にとって非常事態だった。
女子キャプテン飛鳥先輩も顧問の隣で、
お湯で冠水したフィールドを遠目に眺めていた。
放課後、校庭では練習できないと判断した柑子先生は、
学校からバスで15分程の場所にある市営グラウンドを借りる手配をしていた。
俺たちがバスを降りると、市民グラウンドには一般ランナーの走る姿も見えた。
移動で時間を取られて焦りを募らせていた顧問の柑子先生は、
到着早々にハードメニューを告げた。
全国大会を目指すという壮大な目標を掲げている先生は、
「そんなことじゃ高校総体に出られないよ!」
みたいなスポコン的なセリフを、
400mトラックを何周も回り続ける生徒達にぶつける。
とりあえず今は走る。トラックを12周半走れば、ひとまず解放される。
「ダラダラ走っちゃダメ!
ラップが75秒をオーバーしたら、もう一周追加だからね!」
悲鳴が上がり、ペースが上がった。
集団の前列を走っていた砂岡が、ゴールラインをまたぐと、
すっとトラックから外れた。
口元を押さえて歩きだし、そのままトイレの方に向かっていく。
砂岡と並走していた先輩はリバース(もどす)のジェスチャーを皆に示して
砂岡の後姿を目で追った。
そんな一連の様子を見ていた蒼生が、険しい顔をして柑子先生の前に立った。
「体調を悪くしてまで練習する事に、何の意味があるんですか」
先生は一瞬驚いた顔をしたものの、
「あれくらいは大丈夫よ、練習しているうちに体が慣れる。
全国大会目指してるんだから」
「全国大会に出ることは、そんなに大切なんですか」
蒼生の質問に、先生は面食らったように見えた。だが、きっぱりと言い切った。
「大切だと思いますよ」
蒼生は深くため息をついた。
「適度な運動なら体にいいですけど、リバースなんて本末転倒ですよ」
体育会の世界の中でずっと生きてきた先生と、
う●こ至上主義の宇宙人では価値観が合うはずもない。
だが蒼生は先生を前に、なおも言葉を続けた。
「人間の一番大切な目標は、地球のために生きることなんですよ?
みんな地球の体調を整えるために手を合わせていく仲間なんです。
どっちが足が速いとか、勉強が出来るかなんて、地球には些末な問題です。
他人との比較や、個人のプライドのために、
大切な体にストレスを与えて体調を崩して、
一度食べたものを戻してしまう事の方が、どれだけ問題の多い行動なのか…。
他人との競争のために、体に負担を与えるなんてありえません!
人間は、毎日新鮮なうんこだけしていればいいと思います。
比べるなら、だれが一番いいうんこをしているかを比べるべきです。
それ以外の比較や競争なんて、何の意味もないと思います!」
この子は何言ってるの?
という空気が、成り行きを見ていた生徒たちの間を支配していた。
蒼生と柑子先生の周りには、自然と人垣が出ていた。
彼らは、蒼生の論理よりも、
蒼生が何度もうんこと言った事に驚いているようだった。
陸上部員にも蒼生の本性が、とうとう知れ渡ってしまった。
顧問の柑子先生は、途中から蒼生の言っている事が見えなくなって来たのか、
二の句を継げずにいた。
「練習を続けましょうよ」
部員達が騒然とする中、沈黙を破ったのは、のぞみだった。
現実に目を向ければ、あと二週間で県大会。
どう言い訳をしてもその日はやってくる。
よけいな事を考えるより少しでも練習した方がいい。
そう思う部員が大半だった。
のぞみの言葉をきっかけに、誰もが何事もなかったかのように練習は
再開された。
柑子先生もスターターピストルを手にしたまま、短距離選手のスタート地点に
向かった。
市民グラウンドでの練習を終えて部員たちがバスに乗る中、
俺とのぞみは片付けをするからと言って顧問にそのまま残る許可をもらい、
蒼生と話をする時間を作った。
塞ぎ込む蒼生の肩を抱いて、のぞみが元気づけた。
「蒼生ちゃんの話は、100%理解できたわけじゃないけど面白かったよ」
のぞみは蒼生の勇姿を称えた。
「柑子先生も色々考えているんだな…」
俺は、柑子先生の話にも一理ある、という事を蒼生に伝えたかった。
「山吹君とのぞみさんは、柑子先生の言っている事が理解できるんですか?」
蒼生が不服そうに放った言葉に、俺とのぞみはうなずいた。
「そうですか」
蒼生は、靴紐を結び直しながら、ぼそりと言った。
俺は言葉を補足した。
「柑子先生がウチの高校で陸上部の顧問をしているっていうのも、
先生が大学時代に有名な選手だったという実績がモノをいって
採用になったみたいだからな。
先生の言ってることは実用的というか、正しいよ」
「蒼生ちゃん、実際はそんなものなのかなぁとも思うよ。
人間が生きていくってことは…」
俺とのぞみの現実に則した意見を聞くと、蒼生は、
「皆さんの価値観は、そうなんですね…。
地球のために、良いうんこをする事の方が、ずっと大切な生き方なのに」
常に変わることのない自論をつぶやいた。
そんな蒼生にのぞみは、
「でもわたしは、棒高跳びでいい成績を挙げたいと思うよ。
いい成績を上げて、全国大会に出て、認められたいという気持ちは、ある。
体操を諦めたちゃったから、棒高跳びで頑張りたいと思うし、
頑張っている事を、体操を続けている友達にも伝えたい。
蒼生ちゃんの言ってることは何となく理解できるけど、
私は大会に出るって目標を捨てる事は出来ないよ」
のぞみは蒼生に、自分の生きる意味を示した。
「そうなんでしょうね、皆さんは」
蒼生は溜息をついた。
「私は皆さんの考え方が全く理解できないです。
本当に無意味で無駄な生き方をしているなと思っています。
でも、皆さんの生き方はそんな簡単に変わるものではないんでしょうけどね」
市営グラウンドは夕日で赤く染められ、
トラックの赤と映えてミステリアスな様相を呈していた。
「俺たちも次のバスで帰ろうぜ」
もうグラウンドには誰もいなかった。
三人はそれぞれのバッグを持ち、グラウンドの出口へ歩き始めた。
すると――
「蒼生はるか、だね」
背後から女の子の声が聞こえた。
体育倉庫の前にウェーブのかかった金髪で、
白い肌をした北欧的な美少女が立っていた。
背丈は150センチちょっと位なのだが、妖艶という雰囲気を全身にただよわせ、
赤みがかった瞳にはそのまま引き込まれるような妖しさがあった。
蒼生と目が合うと、その少女はこう語りかけた。
「うんこが臭いのはなぜでしょう」
水を打ったように静かになる、というのはこういう状況を指すのだろう。
あっけにとられてしまった。
蒼生からの返事が無いのを訝った少女は、
もう一度同じ質問を繰り返した。
「うんこが臭いのはなぜでしょう、と私は尋ねています」
横柄な態度の色白少女を睨み返すと、蒼生はその質問に淡々と答えた。
「うんこが臭いのは、人間が食べてしまわないように、という地球の配慮です」
金髪少女がニヤリと笑った。
「分かってるじゃないか」
蒼生の表情に警戒の色が浮かんだのを見て、北欧的な美少女はあいさつを始めた。
「君が67C星の選抜生命体なんだな。よろしく」
その少女は可憐な容姿とは似つかわしい、ぶっきらぼうな口調で話した。
「あなたは…」
「私は紅緒、という名前。君は蒼生はるかっていう名前なんだな」
蒼生の目が鋭くなった。
「紅緒さん、あなたは何色なの」
「私は赤だ」
「それなら許す訳にはいきません」
蒼生の瞳に火花が走った。
いったいどういう関係なんだ、彼女たちは。
その説明や紹介を受けられる状況ではない、という雰囲気はすぐに理解できた。
俺の隣でのぞみが茫然としている。
対峙する二人の少女の間には殺気が漲っていた。
「紅緒さんはどこの星の人なんですか?」
「ED1A3Dだよ」
「すみません、私の勉強不足で。失礼ながら存じ上げておりません」
蒼生は一瞬殺気を消し去ると、丁寧に頭を下げた。
「でも紅緒さん、どうして地球に来たんですか?」
「君と理由は変わらないよ、蒼生」
「なるほど、理解しました。それなら容赦はいりませんね」
蒼生の怒りに、紅緒が笑顔で答えた。
「どうする?私と一戦交えるつもりか」
紅緒は、手に握っていた赤い豆粒のような玉を、そのまま下に叩きつけた。
地面から白い煙が上がり、地中からツタのような赤い植物が一本芽を出すと、
それはシュルシュルッと伸びながら紅緒の背丈まで伸びて、
蛇のようにかまちをあげた。
その先端は大きな蕾のようにみるみる膨らむと、弾けるように割れ、
食虫植物に似た毒々しい真っ赤な花が口を開いて、
今にも飛びかからんとしている。
紅緒はその開口頭を、右手で制御しながら得意げな顔をした。
「どうだい?私だってこの星に受け入れられているんだぜ」
蒼生は苦い粉薬を飲みこんだような顔をしていた。
「赤い人たちのやり方はいつもそうですね。分かりました。
その勝負受けて立ちます」
蒼生の宣告を聞いた紅緒は口の端を少し上げると、
赤い花を操るかのように手を前方に振り出した。
真っ赤に開いた花の茎が伸び、蒼生に飛び掛かる。
瞬時に赤い茎が蒼生の体を縛り上げ、そのまま中空に持ち上げた。
目の前で起きている非現実的な出来事。いったいこれは何なのだ。
蒼生を助けるべきなんだろうけど、一体何をどうすればいいのか…。
正直、足がすくんで何もできない。のぞみが俺の背後に身を寄せた。
縛り上げられた蒼生が俺の方を見下ろして、言葉を発した。
「山吹君、私のカバンを開けてもらえますか?」
宙吊りになった蒼生のちょうど真下、芝生の上には蒼生の通学カバンが落ちていた。
「あれを拾うのか…」
俺は、蛇のような植物に目を配りながら、思い切ってカバンに飛び込む。
カバンの取っ手をさっとつかむと、走り抜けて離れた位置に立ち、
蒼生に声をかけた。
「カバン、取ったぞ!」
「ありがとうございます。あの…カバンの中に青い玉が入っているんですけど、
探してもらえますか?」
「青い玉?」
意外にも蒼生は落ち着いていた。
俺はいつ襲撃されるかもしれない恐怖に怯えながらカバンを開け、
その中を手探りで掻き分けたが、食虫植物が襲い掛かってくる様子は無く、
俺の挙動をぼんやりと眺めている。
「山吹君、焦らなくて大丈夫です。落ち着いて探して下さい。
あの…余計なポーチとかは開かないで下さいね。
あっ、そこには入っていないですから…」
蒼生は自分の危機的状況よりも、カバンの中を見られることに動揺していた。
青い玉がなかなか見つからず、蒼生を見上げると、
スカートの中が丸見えだった。
「な、何見てるんですか!見ないでください!この変態!
真剣に探してください!」
慌てて俺は、視線をカバンの中に移す。
「どこかに透明の小さなケースがありますから、
ウサギのイラストが描いてあるやつです。
あっそれです!その中に青い玉が入ってますよね?
それを地面に投げて下さい!」
「これか?」
俺は言われるがままにケースから青い玉を取り出すと、地面に叩きつけた。
爆音と白い煙が立ち上り、地面から青い茎が生え、
蒼生のいる中空まで伸びていく。
その茎は、朝顔のような葉を節々から茂らせると、
先端のつぼみを膨らませて青い光を弾けさせた。
あの河原で見た、青いスケルトンに光る花が、茎の先端に咲いた。
その花に、蒼生は優しく語りかけた。
「じゃあ、お願いね」
青い光が強い閃光を放つと、突風のような迅速さで赤い花に襲い掛かる。
青い植物は、蒼生の体から赤い茎をメリメリはがすと、
蒼生を優しく包んで地面にそっと着地させた。
さらに一転、青い花は赤い茎に跳びかかると縛り上げ、
青と赤のらせん模様になって一本に絡まりあった。
二本の茎がギリギリと軋む音を立てる。
青いスケルトンの花弁がさらに光量を上げて、眩いばかりの光を放出すると、
赤い花はゆっくりと萎れ、枯れていった。
茶色く変色した花びらが、地面にカサリと落ちる。
「紅緒さん、これではっきりしたでしょ」
「まぁ結果は明らかだったな。確かに地球は、君を受け入れているよ」
「もう終わりでいいですか。
この戦いでどちらが傷ついても意味はないですから」
「了解、そんなことは分かってるさ。ちょっと確かめたかったんでね」
終戦を聞いて青い花が地中にもぐった。
枯れた赤い花と茎は粉々になり、空中に舞い上がる。
蒼生は射抜くような目を紅緒に向けて宣告した。
「地球はあなたたちを選ばないと思います」
「私だってその可能性は低いと思ってるよ。
ここではあんたたちにはかなわない」
赤い少女は素直に負けを認めたように見えたのだが、「でも…」と言葉を続ける。
「私だってここで生き残る方法を模索しているのさ。私にも権利がある」
それは認めると、言って蒼生はうなずいた。
二人は何やらひそひそと会話を始めた。
さっきまで死闘を繰り広げていた彼女たちが、
急に茶飲み話を始めたかのような和やかさを見せている。
この二人が敵同士なのか、もともと仲間だったのか、
傍目にはその判別もつかない。
突然現れた戦う植物には、心停止するほどの衝撃を受けたのだが、
それと同じくらいにこの二人の何事もなかったかのような佇まいが、
どこか不気味に感じられた。
「蒼生が私たち赤い人間を嫌っていることは知っている。
それは君の星の歴史に根差すことだからね。
でもそんなの私にはどうしようもないこと、という事は
蒼生も理解しているだろう」
蒼生はうなずいた。さらに紅緒は、
「この先場合によっては、私が蒼生を凌駕するかもしれない。
あるいは対等の立場に持ち込む可能性だってある。
地球が最終的に、私を必要とするとしたら、だけどね。
それを、蒼生は否定するかい?」
「本当にそうなるなら、それは受け入れざるを得ないですね」
「それなら一緒にやっていこう。お互い一人なんだしさ」
紅緒は握手を求めた。
蒼生も苦笑いしながら、その手を受け入れた。
そして紅緒が視線を俺に向ける。
「そいつがパートナーか。ふうん」
金髪北欧少女は、赤みがかった目で俺を上から下まで舐め回すように観察すると、
「私は紅緒だ。えぇと紅緒クランベリー、という名前に今決めた。よろしく」
紅緒は、俺の顔を見て笑いかけた。妖しい微笑にドキッとさせられる。
俺とのぞみも自己紹介をすると、紅緒から、
「じゃあ私も明日から、陸上部員になるから」
と突然入部を宣言した。
えぇっ何で?
のぞみも目を丸くした。
蒼生は、練習結構キツイですよと断ってから、先輩としてアドバイスを送った。
「高校転入の手続きを、先にした方がいいみたいですよ」
「ありがとう。じゃあまた明日」
紅緒は一人で、市営グラウンドの裏門の方に歩いて行った。
後に残された俺たち三人。
この後、蒼生に聞かなくてはならないことも、山ほど残されていた。




