第二話
アーク・ゼロの朝は、地上とは鏡の論理で始まる。
太陽はない。夜明けもない。天井の人工光パネルが、設定された時刻に合わせて徐々に輝度を上げていく。午前六時、色温度が2700ケルビンのオレンジから5500ケルビンの白へ。それが、この都市における「朝」だ。窓の外が明るくなるのではなく、天井が白くなることで人々は起きる。何千年もそうしてきた。もはや誰も違和感を持たない。
俺も持たない。
持たないはずだった。
「——昨夜、第三居住区にて身元不明の遺体が発見されました。当局は現在、死因の特定を——」
食堂の壁面モニターが、ニュースを流していた。
音量は小さい。誰も真剣に見ていない。俺もトレーを手に取りながら、ほとんど意識せずにその映像を視界の端に収めていた。アナウンサーの顔。規制線を示す映像。そして一瞬——本当に一瞬だけ——遺体の状況を示す記号的な静止画が映った。
内臓が、なかった。
「またカニバルか」
隣のテーブルで、対人の男が言った。三十代くらい。アーカイブ機構の別チームの調査員だ。名前は知らない。
「証拠はないだろ」向かいの女が返した。「当局もまだ捜査中って言ってる」
「内臓がないんだぞ。他に何がある」
「カニバルって、ほんとにいるのかね」女はスプーンを置いた。「噂ばかりで、実際に見たって話、聞いたことない」
「見たやつは喋れないからだろ」
女は少し黙って、また食べ始めた。
それだけだった。朝の食堂の、ただの一コマ。ニュースは次の話題に切り替わり、二人の会話も別の方向へ流れていった。誰も立ち止まらない。誰も顔色を変えない。カニバルの話題は、この都市では天気の話と同じくらいの温度で消費される。
俺はトレーを持って歩き続けた。
隅のテーブルに座る。栄養ブロックを口に運ぶ。
頭の中で、ニュースの静止画が一度だけ再生された。
内臓が、なかった。
電脳変動者として、俺はその画像をログに記録した。感情的評価:なし。関連情報:なし。優先度:低。
記録して、閉じた。
それでよかった。それが正しかった。
だが——なぜか、閉じた後も、その画像の輪郭が、頭の縁に残った。
「席、ここでいい?」
顔を上げると、リュクスがトレーを持って立っていた。
「好きにしろ」
「ありがと」
向かいに座る。いつもの棘のある口調ではなく、淡々としていた。朝のリュクスは、少し違う。夜の方が饒舌で、朝は省エネモードになる——そういう習性が、この数日でわかってきた。
しばらく、二人とも黙って食べた。
「ニュース、見た?」リュクスが言った。
「見た」
「カニバルだと思う?」
「証拠はない」
「証拠がないのがカニバルの特徴でしょ」リュクスは淡々と言った。感情的な色がない。「私たちの種族は視線を情報として受け取る。だから嘘をついている人間が近くにいると、微細な目線の動きで大体わかる。でもカニバルは——」
「偽装が完璧だから、わからない」
「そう」リュクスは俺を見た。「あなた、カニバルと話したことある?」
「さあ。わからない」
「そうよね」リュクスは視線を落とした。「わからないのが一番怖い」
それから二人とも黙った。
食堂の喧騒が続いた。五種が混在する朝の音。笑い声と怒鳴り声と、何十もの言語と、食器の音が混ざり合っている。その中に、カニバルがいるかもしれない。普通の顔で、普通に食べている。
俺は栄養ブロックを口に運んだ。
味はしなかった。
アーカイブ機構の本部は、アーク・ゼロ地下五層にある。
地下都市の中でも特に深い場所。上層の賑やかさとは切り離された、静かで均質な空間。廊下は白く、照明は一定で、音がない。地上の廃墟とは別の意味での、静けさだった。
俺は報告のためにその廊下を歩いていた。
機構の正式名称は「汎種族文明保存機構——通称、アーカイブ機構」。設立は西暦約八十万年前。五種の分岐後、崩壊していく旧文明の記録を保存することを目的として発足した組織だ。現在は遺跡調査、言語保存、生物学的記録、気象データの収集まで業務が拡張されている。
所属する種族は、五種全て。
建前上は。
廊下ですれ違う人々を、俺は自然に観察していた。対人の研究員が資料を抱えて早足で歩いている。環人とおぼしき人物が壁際で誰かと密談している。その目が、相手の動作に鋭く反応している。電脳変動者が一人、廊下の角で静止して目を閉じている。こめかみの端末が青白く点滅していた。
別星性別者の二人組が向こうから歩いてきた。すれ違いざま、その目が俺を捉えた。一瞬だけ、値踏みするような視線。別星性別者にとって、視線は挨拶でも敵意でもなく、ただの情報収集だ。だが慣れていない種族には、それが不快に映ることがある。
廊下の奥から、ノルが来た。
俺と目が合った。ノルは何も言わなかった。ただ、少しだけ歩調を緩めた。俺と並んで歩き始める。
「報告か」ノルが言った。
「ああ」
「私も」
それだけだった。二人並んで廊下を歩いた。ノルの足音は、いつも不思議なほど静かだった。自分の足音だけが響いているような気がした。
報告室の前で、オーガスが待っていた。
「来るのが遅い」
「申し訳ありません」
オーガスはすでにドアを開けていた。中に入る。
報告室は狭かった。長机に担当官が一人。壁面に端末。それだけだ。装飾も、余分な家具もない。機能だけがある部屋。
「JP-TS-7調査チーム、報告を」
オーガスが口を開いた。
調査日数、七日間。調査区画数、十二。発見物総数、四十七点。内訳——金属製残骸、二十三点。有機素材、十一点。複合素材、八点。分類不能、五点。全点回収済み。損傷なし。
担当官が端末を操作しながら、淡々と記録していく。
「発見物の中に、特記事項はあるか」
オーガスが一瞬だけ間を置いた。
「一点。有機素材製封筒、内容物あり。保存状態、異常なし」
「異常なし、か」
担当官が顔を上げた。五十代くらいの対人の男。眼鏡の奥の目が、データを見ている。
「年代測定の結果は」
「速報値では、判定不能でした」
「判定不能」担当官は少し眉を動かした。「素材が特定できないということか」
「はい」
「……わかった。詳細解析は専門部門に回す。他に特記事項は」
「ありません」
「了解した。以上で報告を終わる。次の任務については、別途通達する」
担当官が端末を閉じた。
それで終わりだった。
俺たちは立ち上がり、部屋を出た。廊下に出たところで、俺はオーガスの横顔を見た。
何も読めなかった。
いつも通りの、完璧に凪いだ顔だった。
だが報告室の中で——担当官が「異常なし、か」と言った瞬間——オーガスの目が、ほんの一瞬だけ、担当官から外れた。
どこを見たのか。
俺には分からなかった。
「解散だ」オーガスが言った。「各自、待機せよ」
足音が遠ざかった。
俺はしばらく廊下に立っていた。
解析結果の速報が届いたのは、その日の午後だった。
端末に通知が来た。差出人:アーカイブ機構・第三解析部門。件名:JP-TS-7-047 一次解析報告。
俺は自室で端末を開いた。
言語解析:完了。使用言語——日本語。信頼度99.7%。
筆跡解析:完了。筆記具——有機系インク、推定。筆圧、筆速——個人特有のパターン検出。複数人による筆記の可能性:なし。単独筆記と判断。
送り主の身元照合:——該当記録なし。
俺は少し止まった。
該当記録なし。
アーカイブ機構のデータベースには、過去の全文明圏の人口記録が収められている。完全ではない。だが百万年以上かけて収集したデータだ。それに一致しないということは——
この人物は、記録から消えている。
あるいは、最初から記録されていなかった。
続きを読んだ。
推定年代:——判定不能。測定値不安定。再測定を推奨。
素材分析:——既知の有機素材との一致なし。炭素同位体比、異常値。詳細解析には特殊装置が必要。担当部門への移送を申請中。
俺は端末を閉じた。
既知の物質ではない。年代が測れない。送り主が存在しない。
百万年前の廃墟で、そんな手紙が——完璧な状態で——残っていた。
ドアがノックされた。
「開いてるか」
リュクスの声だった。
「ああ」
ドアが開いた。リュクスが入ってきた。自室に他の乗員が入るのは珍しい。リュクスは部屋を一瞥して、何も言わずに壁に背を預けた。
「解析結果、見た?」
「今見た」
「私も見た」リュクスは腕を組んだ。「機構の解析部門、困ってるみたいね。素材が特定できないって、あそこの研究員にとっては屈辱に近い」
「お前はどう思う」
リュクスは少し黙った。
「昨日も言ったけど」リュクスの声が、少しだけ低くなった。「あの紙、怖がってた」
「怖がってた、というのは」
「別星性別者の感覚だから、うまく説明できない」リュクスは目を細めた。「私たちは熱も光も振動も、全部情報として受け取る。あの封筒を初めて見たとき——封筒から、何かが出てた。波みたいなもの。恐怖というより——」
「警告、か」
リュクスが俺を見た。少し驚いたような目。
「そう」静かに言った。「警告に近い。何かを伝えようとしている。でも届かなくて、ずっと発信し続けてる感じ」
「百万年以上」
「そう」
沈黙が落ちた。
リュクスは壁から離れて、ドアに向かった。出ていく直前に、振り返った。
「ALT」
「何だ」
「あなた、さっきすごく自然に『警告』って言った」
「そうか」
「電脳変動者って、そういう直感みたいな言葉、使わないでしょ。普通は」
俺は答えられなかった。
リュクスはそれ以上何も言わなかった。ドアが閉まった。
俺は自分がさっき言った言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。
警告。
ログを遡った。「警告」という単語を俺が使ったのは、この数日で——三回。全部、あの手紙に関連する場面だった。
電脳変動者として、その単語の出典を検索した。俺のログの中に、その単語が最初に登録されたのはいつか。
検索結果が返ってきた。
——登録日時:不明。
俺は端末を置いた。
夜になった。
アーク・ゼロの夜は、天井の光が2700ケルビンのオレンジに戻ることで始まる。喧騒が少し落ち着き、通路を歩く人の数が減る。だが眠らない都市だ。下層の研究区画は二十四時間稼働している。
俺は研究区画に向かった。
理由を、うまく言語化できなかった。もう一度封筒を見たい。ただそれだけだった。電脳変動者としての合理的な理由を探したが、見つからなかった。見つからないまま、歩いていた。
研究区画の入口に着いた。入室コードを打ち込もうとして——止まった。
ノルがいた。
棚の前に立って、封筒の標本袋を見ていた。手は触れていない。ただ、見ている。その後ろ姿は、いつも通り気配が薄かった。俺が近づいても、振り返らなかった。
「また呼ばれたのか」
「……今日は違う」ノルは少し間を置いた。「ALTが来ると思って、待ってた」
「なぜ」
ノルはゆっくりと振り返った。底の見えない目が、俺を捉えた。
「あなた、最近——少し、変わった」
「どこが」
「ログを、全部記録しなくなった」
俺は答えられなかった。
事実だった。この数日、俺のログには空白が増えていた。感情的な違和感はノイズとして処理する——そのはずだったのに、処理できない何かが積み上がっていた。積み上がったまま、ログに書けずにいた。
「なぜ知っている」
「知ってるわけじゃない」ノルは静かに言った。「見てたら、わかった」
「俺を、観察していたのか」
「観察、じゃない」ノルはまた封筒の方に視線を戻した。「気になった。それだけ」
俺は隣に立った。二人で、標本袋の中の封筒を見た。黄ばんだ紙。かすれた文字。百万年以上前の、誰かの言葉。
「ALT」ノルが言った。
「何だ」
「ログを全部記録しないのは——悪いことじゃないと思う」
「なぜ」
ノルはゆっくりと俺を見た。
「記録できない何かが積み重なることが——たぶん、あなたが変わってる証拠だから」
俺は何も言えなかった。
変わっている。電脳変動者として、それは誤作動を意味する。ログに記録できない情動は、システムのエラーだ。修正すべき何かだ。
なのに——ノルは、それを悪いことじゃないと言った。
「手紙の人」ノルが封筒を見ながら言った。「何かを伝えたかったんだと思う。でも伝えきれなかった。お願いの続きが書けなかった」
「ああ」
「書けなかったのか、書かなかったのか」
俺は少し考えた。「どちらだと思う」
ノルはしばらく黙った。
「書いたけど——残らなかった、かもしれない」
封筒は完璧な状態で残っていた。なのに手紙の続きだけが——ない。
「明日、また解析結果が来る」
「そう」ノルは頷いた。「おやすみ、ALT」
「ああ」
ノルは棚から離れて、静かに出ていった。
俺は一人残った。封筒を見た。標本袋越しに、黄ばんだ紙を見た。
「あなたが这を読んでいるということは、もう時間がないということです。」
時間がない。誰の。何のための。
俺はその問いを、今夜もログに記録しなかった。
翌朝、ノルを探した。
アーク・ゼロに戻った翌日というのは、いつも奇妙な浮遊感がある。地上調査から帰ると、この都市の密度——音も、光も、人の数も——が、最初の数時間だけ少しだけ重く感じる。体が慣れるまでの時間。電脳変動者の適応処理が、環境データを更新し終えるまでの、短いラグ。
それが今日は、いつもより長かった。
居住区の通路を歩いた。中層の橙色の区画は、朝でも人通りが絶えない。食堂、共用端末、洗濯機の列。この都市で暮らす人々の朝は、地上の夜明けとは関係なく始まる。
ノルの部屋は知っていた。チームの居住区は同じ区画にまとめられている。
ドアの前に立って、俺はノックしようとして——止まった。
何を聞くつもりだ。
手紙の内容を知っていたのはなぜか。それを問い詰めることが、本当に俺のしたいことか。
わからなかった。
「来るなら、早く来て」
ドアの向こうから、声がした。
ノックする前に、声がした。
俺は少し間を置いてから、ドアを開けた。
ノルの部屋は、殺風景だった。
支給品の寝台と机と椅子。それだけ。個人の荷物が見当たらない。壁に何も貼っていない。机の上に何も置いていない。まるで今日来て、今日去ることが最初から決まっているような、仮の場所みたいな部屋だった。
ノルは窓際に立っていた。窓の外は、アーク・ゼロの緑層が見える。植物工場の光が、柔らかく滲んでいた。その光の中で、ノルの輪郭だけが、妙にはっきりしていた。
「昨日のこと、聞きに来た」
「知ってる」
「手紙の内容を——」
「知ってた、じゃなくて」ノルは窓の外を見たまま言った。「感じた、が正確だと思う」
「感じた」
「あなたが手紙を持って部屋に入ってきたとき。封筒を手にしたとき。何かが、変わった」
「何が」
「あなたの、輪郭」
ノルがこちらを向いた。その目が、また底を見せなかった。
「電脳変動者って、感情を持つ種族でしょ。でも感情をノイズとして処理するように訓練されてる。だから普段は、輪郭が綺麗なの。整っている、という意味で」
「それが」
「手紙を読んだあと、少しだけ——滲んだ」俺の顔をまっすぐ見て、「気づいてた?」
答えられなかった。
ノルが再び窓の外に目を向けた。
「ねえ、ALT。聞いてもいい?」
「何を」
「あなた、自分がどの種族か、ちゃんと確認したことある?」
俺はその問いの意味を、一瞬、理解できなかった。「電脳変動者だ。識別タグもある。任務登録も——」
「書類の話じゃなくて」ノルは穏やかに遮った。「自分で、感じたことがある? 自分が電脳変動者だって」
沈黙が落ちた。
俺はその問いを、どこに置けばいいか分からなかった。ログに記録すべき問いなのか、ノイズとして処理すべきなのか。どちらでもないような気がして、結局、どちらにも振り分けられなかった。
「……どういう意味だ」
ノルは答えなかった。
代わりに、少し視線を落として——独り言のように言った。
「私はね、空っぽ」
俺はノルの顔を見た。
抑揚の薄い声で、淡々と話している。感情を抑えているのではなく——感情を語るための語彙を、まだ探しているような話し方だった。
ノルは少し目を細めた。それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
ただ——ノルが今、対人のように話しているのは、このチームで一番長く隣にいた誰かの影響なのかもしれない、と思った。そしてそれが誰なのかを考えかけて、俺は思考をそこで止めた。
「手紙の続きを」ノルが言った。「まだ読んでいないなら、早い方がいい」
「もう研究部門に——」
「コピーは取ったんでしょ」
俺は何も言わなかった。
取っていた。ロッカーに戻る前に、解析機でスキャンしていた。なぜそうしたのか、その時はわからなかった。今もわからなかった。ただ、そうしていた。
ノルは俺の沈黙を、肯定として受け取ったようだった。
「続きを読んでから、私に話して」また窓の外に向き直って、「たぶん、話したくなる」
俺は部屋を出た。
廊下は朝の人通りで賑わっていた。誰かとすれ違い、誰かの声が聞こえ、誰かが俺の肩をかすめて通り過ぎた。電脳変動者として処理すれば全部、記録と分類と保存に変換される。普段はそうしている。
今日は、できなかった。
すれ違った人の顔が、妙に鮮明に残った。
自室に戻って、コピーデータを開いた。
手紙、二枚目。読んでいなかった続きは——なかった。インクの途切れた後に、何もない。
だが解析機の画面に、昨日は気づかなかったものがあった。
「付記:封筒裏面」
封筒の裏に、文字があった。
解析機が昨日スキャンした際に、正面のデータを優先して後回しになっていたらしい。俺は表示を切り替えた。
かすれた、細い字だった。手紙本文より、さらに小さな文字。まるで余白に書き足したような——
「アーク・ゼロって、何の意味か知ってますか。
設計書には書きませんでした。正式名称には、しませんでした。
でも、意味はあります。
Arc——弧。軌跡。橋。
Zero——起点。何もないところからの、始まり。
Arc Zero。最初の人へ、渡す橋。
あなたがALTなら、分かるはずです。」
俺は画面を見つめた。
アーク・ゼロ。この都市の名前を、名前としてしか認識してこなかった。生まれた時から、この名前はあった。疑問を持ったことがなかった。誰もが当然のように使い、誰もその意味を口にしなかった。
最初の人へ、渡す橋。
あなたがALTなら。
俺の名前が——この封筒に、書いてあった。
百万年前に書かれた文字の中に、「ALT」という名前が、最初から。
電脳変動者としての処理が、うまく動かなかった。感情をノイズとして弾き出す機能が、今この瞬間だけ、正常に作動しなかった。
俺はしばらく、画面を見続けた。
窓の外で、人工光が柔らかく揺れていた。
研究部門からの呼び出しは、昼過ぎに来た。
メッセージは短かった。「手紙の解析に関して。至急来室されたし。——研究部門主任」
ブリーフィングルームでオーガスに報告するより先に、俺は研究区画へ向かった。
青層は静かだ。この都市の中で、俺が一番落ち着ける場所かもしれない。研究施設の廊下は白く、音が吸収され、行き交う人も少ない。電脳変動者が多く働く区画でもある。壁際で静止してログを更新している同族の姿を見ると、何か安定したものを感じる。俺は俺だ、という確認が、ここでは静かにできる。
——あなた、自分がどの種族か、ちゃんと確認したことある?
ノルの声が、また戻ってきた。
俺は歩きながら、それを処理しようとして——また、できなかった。
研究部門の扉を開けると、主任が端末の前に立っていた。
「来てくれたか」
白衣の、小柄な人物だった。環人特有の、細部に鋭く反応する目をしている。手元の端末には、俺が回収した封筒のスキャンデータが展開されていた。
「解析が出たか」
「一部だけ。ただ——」主任は少し間を置いた。「確認したいことがある」
「何を」
「この名前だ」
端末が手紙のデータを拡大した。「ユヅキ」という名前が、赤くマーカーされていた。
「照合が完了した。アーク・ゼロの建設記録の中に、この名前がある」
俺は動かなかった。
「建設記録」
「そうだ。百万年以上前——この都市が最初に設計された時期の記録だ。正確には、設計者名簿に」
主任が端末を操作すると、画面が切り替わった。
古い記録だった。データが何重にもバックアップされ、復元されてきた痕跡がある。文字のフォントが現代のものとは違う。画像は荒い。だが、読める。
「Arc Zero Project 主任設計者——結月」
その右隣に、小さな写真が一枚。
荒い解像度の、古い顔写真。
虹彩が色を変える、目だった。光の角度によって——そんな目が、百万年前の写真の中で、まっすぐこちらを見ていた。
「この都市を、作った人間の名前が」俺はゆっくり言った。「ユヅキだ」
「そうだ」
「……手紙の差出人が書いた子どもと、同一人物か」
「断定はできない。だが——」主任はもう一度、画面を切り替えた。「設計書の冒頭に、こういう一文がある」
画面に文字が浮かんだ。古い言語で書かれた一文を、解析機がリアルタイムで訳した。
「これは、終わりのための器ではない。始まりのための、余白だ。」
俺は、その一文を、二度、読んだ。
「他に、何か」
「一つある。これが——本当のところ、確認したかった理由だ」主任は俺を見た。その目が、少しだけ迷っているように見えた。「ユヅキの個人ログが断片的に残っている。大半は消去されているが——最後の一行だけが、生きていた」
「最後の一行」
「ああ」
画面が、また変わった。短い、一行だけの記録。
「ALTへ。届くといい。」
廊下の向こうで、誰かが歩く音がした。
俺はその音を、処理できなかった。
「……ALTとは、何を指す言葉か」
「分からない。当時の記録に、それ以上の文脈はない」主任は静かに言った。「ただ——一つだけ言えることがある」
「何だ」
「アーク・ゼロという名前は、正式名称ではなかった。設計書にも、建設記録にも、正式名称は別にある。だが都市が完成したとき、ユヅキが最後に書き添えた名前が——Arc Zeroだった」
俺は少し間を置いた。「意味は」
「設計書にはない。だが——」
「最初の人へ、渡す橋」
主任が驚いた顔をした。「どこで」
「手紙の封筒の裏に、書いてあった」
主任は黙った。
長い沈黙だった。部屋の外で、青層の静けさが続いていた。壁の向こうで、誰かが端末を操作する音がかすかに聞こえた。
「ALT」主任は、ゆっくりと言った。「その名前は、コードネームか?」
「……ああ」
「本名は」
俺は答えようとして——止まった。
本名を言おうとして。
出てこなかった。
いつも、ALTと呼ばれてきた。任務登録も、識別タグも、全部ALTだ。それより前に、何と呼ばれていたか。どこから来たか。誰に——育てられたか。
どれも、答えが出なかった。
「……調べる必要がありそうだ」
俺は静かに言った。
主任は何も言わなかった。ただ、端末の画面をそっと消した。古い記録が、暗闇の中に戻った。
部屋を出ると、廊下にノルがいた。
壁に背を預けて、目を閉じていた。眠っているのではない。俺の足音を聞いて、すぐに目を開けた。
俺の顔を見て、ノルは何も聞かなかった。
代わりに、静かに歩き出した。俺もついて歩いた。どこへ向かうのか分からなかった。分からなくても、ついて歩いた。
「名前が、あった」俺は歩きながら言った。「百万年前の記録に、ALTという名前が」
ノルは黙って聞いていた。
「アーク・ゼロを設計した人間の——個人ログに。最後の一行だけが残っていて、そこに」
「うん」
「お前は知っていたか」
ノルは少し間を置いた。「知ってたわけじゃない。でも——驚いてない」
「なぜ」
ノルがこちらを向かずに言った。「そばにいると、わかることがある。あなたの輪郭は、電脳変動者のそれとは少し違う。整ってるけど、整えてる、みたいな感じ。自分で、抑えてる感じ」
「それが」
「電脳変動者は、感情をノイズとして処理するように脳が出来てるんでしょ。でもあなたは——処理しようとして、してる。違いは小さいけど、私には見える」
俺は歩きながら、その言葉を反復した。
処理しようとして、している。
「ノル」
「何」
「お前は——俺が、電脳変動者じゃないと思っているのか」
ノルはしばらく黙った。
廊下の先で、誰かとすれ違った。その人が過ぎてから、ノルは静かに言った。
「かもしれない、って思った。でも、確認できるのはあなただけだから」
「どうやって確認する」
「自分が何かになりたいと思ったことがあるか、考えてみて」ノルは言った。「空殻人は、なりたいとは思わない。気づいたら、なってる。意図がない。あなたは——電脳変動者になりたかったと思う?」
俺は答えられなかった。
なりたかった、という記憶がない。
だがそれは、生まれた時からそうだったからではないか。疑問を持つ前に、もうそうだったからではないか。
だが——本名が出てこなかった。どこから来たか、出てこなかった。
「ALT」
「何だ」
「あなたが自分のことを、まだ電脳変動者だと思ってるなら——それでもいいと、私は思ってる」ノルは前を向いたまま言った。「でも、私みたいに、自分が何かわからないままでいるのも、そんなに悪くない」
「お前は、今——何だ」
ノルはしばらく黙った。
「今は、あなたのそばにいる。だから、少し」
それだけ言って、前を向いたまま歩き続けた。
少し、何だ。
俺はその続きを聞かなかった。聞かなくても——何となく、分かった気がした。
翌朝、通達が来た。
全乗員、第一会議室に集合。
7番船の十五人が、横長の会議室に並んだ。壁面に大きな地図が映し出されている。地球全図。陸地の多くが黄色か茶色に塗られていた。緑は極めて少ない。青——水域——はまだある。だが海の色も、かつての青とは違う。濁った、灰がかった青だ。
いくつかの座標に、マーカーが打たれていた。
「次の調査地を通達する」
オーガスが立った。
地図のマーカーの一つが拡大された。大陸の北部。かつてロシアと呼ばれた地域。広大な荒野の中に、ぽつりと座標が打たれている。
「遺跡群RU-VL-3。かつてウラジオストクと呼ばれた地域の沿岸部に位置する遺跡群だ。規模は中程度。ただし——」
オーガスが少し間を置いた。
「この地域の調査は、過去二度試みられて、二度とも未完了で終わっている」
船内が静かになった。
誰かが手を上げた。対人の男、確か名前はセオだった。「理由は何ですか」
「記録されていない」
また静かになった。
「記録されていない、というのは」セオが続けた。「調査中に何かあったということですか」
「記録されていない」オーガスは繰り返した。それ以上でも、それ以下でもない言い方で。
俺はオーガスの横顔を見た。
温度のない顔。完璧に凪いだ表情。
だが——その目が、地図の座標を見ていなかった。座標の、少し奥を見ていた。記録を確認しているのではなく。
何かを——思い出しているような目だった。
「出発は三日後。各自、準備を怠るな。以上だ」
乗員たちがざわめきながら立ち上がった。
俺は最後まで席に残った。
地図のマーカーを見た。RU-VL-3。過去二度の調査が、理由も記録されずに終わった場所。
リュクスが隣を通りすがりに、小声で言った。
「嫌な予感しかしない」
ノルは何も言わなかった。
ただ、会議室を出る直前に——ほんの一瞬だけ——地図を見た。
その目が、何かを知っているような目だった。
俺はその目を、ログに記録しようとした。
できなかった。
外の色温度は黒に近づいていた。
第2話 了
shiningッ!




