第三話
出発は翌朝だった。
なのに、眠れなかった。
電脳変動者は睡眠を必要としない——そのはずだ。横になるのはログの整理のためだ、と自分に言い聞かせながら、俺は天井を見ていた。アーク・ゼロの夜は、天井が2700ケルビンのオレンジに落ちることで始まる。その光の中で、頭の中がなぜか静かにならなかった。
「ALTへ。届くといい。」
「最初の人へ、渡す橋。」
百万年前の言葉が、ログの中で反復した。処理しようとするたびに、また浮かんだ。まるで何かのループに入り込んだみたいに。
俺は起き上がった。
横になっていても意味がなかった。
居住区を出ると、廊下は静かだった。
出発前夜のアーク・ゼロは、少しだけ温度が落ちる。照明が落とされ、人の流れが細くなり、都市全体が息を潜めているような時間。それでも完全には静かにならない。どこかで誰かが動いている音が、壁を通してかすかに届く。眠らない都市の、眠る前の気配。
俺はあてもなく上層に向かった。
理由を言語化しようとして——やめた。
最近、そういうことが増えていた。
緑層は、アーク・ゼロの最上層にある。
植物工場と公園区画が広がる、この都市で唯一「緑」がある場所。エレベーターが開いた瞬間、空気が変わった。濾過された無味無臭の都市の空気とは違う、微かに湿った、有機的な匂い。葉が光合成をやめない夜の匂い。
俺は通路に出た。
両側に植物工場のガラス区画が並んでいる。中では人工光が白く輝いていた。ただしその白は、研究区画の冷たい白とは違う。少し緑がかった、柔らかい光。葉の間を透過して屈折した光が、通路に落ちている。
俺はしばらく、その光の中に立っていた。
電脳変動者として、この行動を記録しようとした。
——感情ログの蓄積処理。出発前の環境調整。
打ち込もうとして、指が止まった。
そうじゃない、と思った。
なぜここに来たのか、本当のことを言えば——ただ、緑を見たかった。それだけだった。地上の廃墟には緑がない。あるのは光を嫌う菌類だけだ。アーク・ゼロの他の層にも緑はない。ここだけにある。
明日からしばらく、見られなくなる。
「なんでこんなとこにいるの」
振り返る前に、声がした。
リュクスだった。
調査スーツではなく、居住区の普段着姿だった。髪がいつもより少し乱れている。眠れなかったのか、それとも起きたばかりなのか——どちらとも判断できなかった。
「眠れなかった」俺は答えた。
「電脳変動者って眠るの」
「眠らない。でも横になっていても意味がなかった」
リュクスは少し俺を見てから、隣に来て壁に背を預けた。ガラスの向こうの植物工場を見る。その瞳が、光を受けて——名前の通り、少し輝いていた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「ここ、好きなのか」俺が聞いた。
「さあ」リュクスは少し間を置いた。「でも——」
また黙った。
珍しかった。リュクスが言葉を探している。いつもなら棘のある言葉がすぐに出てくるのに、今夜は違う。植物工場の柔らかい光の中で、リュクスは何かを言いかけて、飲み込んで、また探している。
「ここだけ、情報が優しい」
静かに言った。
俺はリュクスを見た。
「優しい」
「別星性別者にとって、外の空気は情報過多なの。熱、光、振動、匂い——全部データとして処理しなきゃいけない。研究区画は逆に無機質すぎて、それはそれで疲れる」リュクスは植物工場のガラスを見たまま言った。「ここは——植物の出す信号って、単純で、穏やかなの。光を受けて、水を吸って、育っている。それだけ。雑音がない」
「だからここに来たのか」
「たまに」リュクスは少し肩をすくめた。「あなたに言う気はなかったけど」
「なぜ言った」
リュクスが俺を横目で見た。
何かを言いかけて——また、やめた。
「なんか、嫌じゃないな。ここ」
それだけ言った。
俺は少し考えた。植物工場の光と、リュクスの横顔と、その言葉の意味を。ここが植物工場を指しているのか、それとも別の何かを指しているのか——判断できなかった。電脳変動者として分析しようとして、やめた。分析しない方がいい気がした。
「明日、RU-VL-3に行く」俺は言った。
「知ってる」
「記録されていない失敗が、二度ある」
「知ってる」リュクスは少し黙った。「嫌な予感がする、って言ったでしょ。まだしてる」
「それでも来るのか」
「任務だから」即答だった。だが少し間を置いてから、「あなたが行くから、というのもある」
俺は何も言えなかった。
リュクスはすぐに、いつもの口調に戻った。
「勘違いしないでよ。万が一変なことが起きた時に、電脳変動者が判断を誤ったら困るから。監視が必要なの」
「そうか」
「そうよ」
リュクスは壁から離れて、エレベーターの方へ歩き始めた。
「おやすみ、ALT」
振り返らずに言った。その声が、いつもより少しだけ——柔らかかった。
「ああ」
エレベーターが閉まった。
俺は一人残って、植物工場の光の中に立っていた。
葉が、微かに揺れていた。換気システムの風に、ゆっくりと。
嫌じゃない。
その言葉が、ログに記録されなかった。
されなかったのではなく——記録しなかった。
初めて、意図的に。
翌朝の出発は、静かだった。
十五人が順番にタラップを上がり、ハッチが閉まり、エンジンが唸りを上げた。アーク・ゼロの人工光が遠ざかり、誘導灯の青白い列が点になり、消えた。
上昇するにつれて、空が黄色くなった。
いつもの色だ。地上の色だ。
だが今日は、それがいつもより少しだけ重く見えた。
RU-VL-3までの飛行時間は、約六時間だった。
船内は静かだった。
いつもの任務前と違う静けさがあった。誰もが口を開かない。食堂に集まっても、会話が続かない。誰かが端末を操作し、誰かが窓の外を見て、誰かが目を閉じている。
記録されていない失敗。
その事実が、言葉にならないまま全員の中にある。
俺は食堂の隅で、端末を開いていた。RU-VL-3の既存データを読み返していた。衛星画像。地形データ。かつてウラジオストクと呼ばれた沿岸部の記録。画像の中の廃墟は、JP-TS-7と似ていた。黄色い大気。崩れた構造物。百万年以上の時間が積もった風景。
違うのは——海が、近い。
かつて「日本海」と呼ばれた水域に面した場所。今もその水域は存在するが、色が違う。衛星画像の中の海は、灰色に近い青だった。かつての青ではない。だが水は、まだある。
「読んでも意味ないわよ」
リュクスが向かいに座った。朝の省エネモードが戻っていた。昨夜の植物工場とは別人のような、淡々とした顔。
「既存データが少なすぎる。読めるものがほとんどない」
「だから読んでる」
「天の邪鬼ね」
リュクスは自分の端末を開いて、何かを操作し始めた。
しばらく、二人とも黙って作業した。
「ノルは」俺が言った。
「自室」リュクスは答えた。「ずっとそこにいる。出発前から」
「何をしているか知っているか」
「知らない。でも——」リュクスは少し間を置いた。「たぶん、準備してる」
「何の」
「さあ」リュクスは端末から目を上げた。「でも、ノルって——いつも何かを知ってる顔をしてるでしょ」
俺は答えなかった。
知っている顔。ノルがいつも見せる、底の見えない目。あの目が何を知っているのか、俺にはまだ分からなかった。
「もうすぐ着く」
オーガスの声が船内に流れた。
俺は端末を閉じた。
着陸の衝撃は、小さかった。
7番船がRU-VL-3の地表に降りた瞬間——俺は何かが違う、と感じた。
何が違うのか、最初は言語化できなかった。視覚情報は変わらない。黄色い大気。茶色い地表。地平線まで続く廃墟群。JP-TS-7と同じような風景のはずだった。
だが——
「音がする」
隣でノルが言った。
俺は耳を澄ました。
ハッチはまだ開いていない。船内の機械音だけが聞こえるはずだ。エンジンの余熱。換気システムの駆動音。乗員の息遣い。
それ以外の何かが——あった。
微かな、低い音。振動、と言った方が正確かもしれない。床を通して、足の裏に届くような。船体の外から来ている。地面から来ている。
「地盤の振動か」セオが言った。「地震か」
「違う」リュクスが静かに言った。その目が細くなっていた。別星性別者として、外の情報をすでに処理し始めているのが分かった。「リズムがある」
全員が黙った。
リズムがある。
地震にリズムはない。地盤沈下にリズムはない。自然現象にリズムはない。
「何かが」——リュクスはゆっくり言った——「動いている」
船内が、しんと静まり返った。
百万年以上廃墟のはずの場所で。記録されていない失敗が、二度あった場所で。
何かが、まだ動いていた。
「準備しろ」
オーガスが言った。
その声に、動揺がなかった。
完璧に、なかった。
俺はオーガスの横顔を見た。温度のない顔。凪いだ目。
驚いていない。
まるで——知っていたかのように。
ハッチが開いた。
黄色い光が、船内に差し込んだ。
腐った匂いが来た。鉄と硫黄と、何かが死んだ匂い。呼吸マスクをつける。外に出る。
足が地表に触れた瞬間——振動が、はっきりと感じられた。
低く、規則的に。まるで何か巨大なものが、地下で脈を打っているような。
リュクスが隣で言った。声が、わずかに固かった。
「怖がってる」
「何が」
「この場所が」リュクスは廃墟群を見渡した。「JP-TS-7の封筒と、同じ種類の——警告」
俺は廃墟を見た。
黄色い光の中に、崩れた構造物が立ち並んでいた。百万年以上風雨に耐えた残骸。その奥に、さらに奥に、何かがある。
音は、そこから来ていた。
「行くぞ」
オーガスの声が響いた。
俺は一歩、踏み出した。
足元で、地面が——微かに、応えるように——震えた。
廃墟群の入口で、オーガスがチームを分けた。
「二手に分かれる。東区画——ALT、ノル、カレン、ミオ。西区画——セオ、ヴァン、ライラ、他。俺は西区画に入る」
「リュクスは」リュクスの目が細くなった。
「船に残れ」
「なぜ?私が行った方が情報統率に―――」
「この場所の外気は、お前には過負荷になる。ここはJP-TS-7と違う」
リュクスは少し黙った。反論を探しているような顔だった。
「わかった」
それだけ言って、振り返らなかった。タラップを上がり、ハッチの中に消えていく。
俺はその背中を見た。
オーガスが、何故リュクスを切り離したのか。
合理的な理由には聞こえた。だが――
「行くぞ」
オーガスの声が遮った。
東区画への道は、廃墟の迷路だった。
JP-TS-7と地形の性質が違った。あちらは平坦に崩れた都市の残骸だったが、RU-VL-3は起伏がある。かつて海に面した地形の名残か、地表が波打つように崩れている。足元が不安定で、踏みしめるたびに細かい粉塵が黄色い光の中に舞った。
振動は、まだ続いていた。
規則的に。低く。
歩きながら感じ続けることに、じわじわと慣れていった。慣れていくことが、むしろ不気味だった。
廃墟の隙間から、かつての海が見えた。
灰色に近い青。波はある。打ち寄せる音が、かすかに届いた。
百万年以上経っても、海は動いていた。
「ここ」ノルが言った。「なんか、息をしてる感じがする」
「廃墟が、か」
「廃墟じゃなくて」ノルは足を止めて、地面を見た。「地面が」
俺も立ち止まった。
振動を、もう一度意識した。規則的な、低い脈動。
息をしている、という表現が——妙に正確な気がした。
「先に進もう」カレンが言った。端末でスキャンしながら歩いている。「生命反応は——今のところなし。金属反応と有機反応が混在している。通常の廃墟と大差ない」
「通常の廃墟に振動はない」ミオが無口な声で言った。
カレンが少し黙った。「……それはそうですね」
俺たちは歩き続けた。
最初の異変は、廃墟に入って三十分後に起きた。
瓦礫の密集した区画を抜けた先に、少し開けた空間があった。かつて広場か、大きな建物の内部だったのかもしれない。床面が広く、天井に当たるものがない。黄色い空が、直接見えた。
そこに——いた。
俺は最初、それを建物の残骸だと思った。
壁面から突き出た、何か。有機的な形をした、何か。
だが——動いた。
ゆっくりと、節のある脚のようなものが、瓦礫の上を這った。
「止まれ」俺は言った。
全員が止まった。
それは、かつて何かだったものだ。
人間大——いや、少し大きい。二メートルほどの体躯。だが形が、生き物の形をしていなかった。皮膚のようなものに覆われているが、その表面が半透明で、内側に何かが透けて見えた。発光している。青白く、弱く。放射線に長期間晒された生物が、細胞レベルで変質した結果として獲得した発光機能——そういう記録を、どこかで読んだことがあった。
頭部に当たる部分に、複数の感覚器官があった。目のようなもの。だが形が違う。瞳孔がなく、全面が濁った白だった。
「核変異体」カレンが小さな声で言った。「教科書で見たことある。核の残滓が残った地域に出る」
「生きてるのか」ミオが言った。
「生きている、とは言えない」俺は答えた。「生命活動を維持している、と言った方が正確だ」
それは俺たちの気配を捉えたのか、感覚器官をこちらに向けた。
動きが、止まった。
硬直。それから——
「来る」ノルが言った。
変異体が動いた。速くはなかった。だが迷いがなかった。節のある脚が瓦礫を踏みしめ、まっすぐこちらに向かってくる。
「排除する」俺は言った。
腰の標準装備——高周波振動刃を抜いた。近接戦闘用の武器だ。通常の調査任務には過剰装備だが、地表調査では必携とされている。こういう場面のために。
変異体が距離を詰めてくる。
十メートル。八メートル。五メートル。
俺は踏み込んだ。
変異体の突き出した前肢を躱し、側面に回り込み、頸部に当たる部位に刃を当てた。高周波振動が組織を断つ。一瞬の抵抗があって——切れた。
変異体が倒れた。
青白い発光が、ゆっくりと消えていった。
しんと静かになった。
「終わりですか」カレンが言った。
「終わりだ」
ミオが近づいて、倒れた変異体をスキャンした。「核種反応、検出。セシウム系の変異体。旧核施設の周辺に多く見られるタイプだ。攻撃性はあるが、判断力は低い。数が少なければ、脅威度は中程度以下」
「こんなのが過去二度の失敗の原因だったのか」カレンが言った。
「違う」俺は答えた。
全員が俺を見た。
「これを排除できなかったチームが、記録を残せないまま終わったとは思えない。これは——この場所の表面にいるものだ」
俺は廃墟の奥を見た。
振動は、まだ続いていた。
変異体が倒れても、地面の脈動は止まっていない。
「本当に怖いものは」ノルが静かに言った。「もっと奥にある」
誰も否定しなかった。
さらに奥へ進んだ。
変異体はその後、もう一体出た。
今度はカレンが処理した。端末で変異体の動きを予測し、ミオが動きを止め、俺が止めを刺した。三人の連携で、十秒かからなかった。
「慣れてきた」カレンが言った。少し声が明るくなっていた。
「慣れるな」俺は言った。「これは前座だ」
カレンの顔が、また引き締まった。
東区画の深部に入ったのは、着陸から一時間後だった。
構造物の残骸が密集し、外光が遮られる区画に入ると、ヘッドライトを点けた。黄色い大気の光から切り離された、人工の白い光が廃墟を照らす。
影が、鋭くなった。
壁面が密集している。かつて何かの施設だったのか、壁と壁の間隔が狭い。廊下のような通路が続いている。
「ここ、何だったんでしょう」カレンが周囲を見回して言った。「建物の規模が大きい。工場か、施設か」
「わからない」俺は答えた。「記録がない」
「記録がない、か」カレンは少し笑った。「この任務、それが多いですね」
ミオが端末で周囲をスキャンしていた。「金属反応、多数。複合素材、確認。有機素材は——」ミオが少し止まった。「有機素材、反応あり。壁面」
俺はヘッドライトを向けた。
壁だった。百万年以上前の、何かの建物の内壁。表面はほとんどが苔と結晶化した鉱物で覆われていた。だが——その下に、何かが刻まれていた。
近づいた。
苔を少し除けると、文字が見えた。
深く、丁寧に刻まれた文字。日本語ではなかった。既知のどの言語でもなかった。記号に近い、だが記号ではない何か。人が意図を持って刻んだことは、見れば分かった。
だが——人が、刻んだのか。
変異体が刻んだとは思えなかった。あれに、文字を刻む知性はない。
では、誰が。
解析機を当てた。
処理が始まった。数秒かかった。
——照合不能。ただし、類似パターンを断片的に検出。
断片的に検出された語句が、画面に表示された。
一つだけ、翻訳できた単語があった。
「——待っている——」
俺は画面を見た。
待っている。
誰が。何を。
「ALT」
ノルの声だった。
振り返ると、ノルが壁から少し離れた場所に立って、文字を見ていた。その目が——いつもと違った。底の見えない目が、今は何かを見ている目だった。見ていた、ではなく——認識している目だった。
「この文字」俺は言った。「読めるか」
ノルは少し黙った。
「……全部は、読めない。」
「全部は」
「少しだけ」ノルはゆっくり言った。「少しだけ、分かる気がする」
「なぜ」
「さっきのリュクスみたいだった」
俺は何かを聞こうとして——
通信が入った。
耳の後ろの端末が、セオの声を拾った。
「こっちで——何か、見つけた。来てくれ」
声が、震えていた。
西区画への移動に、十二分かかった。
廃墟の迷路を走った。ヘッドライトが揺れ、影が踊った。振動は続いていた。
セオたちのグループがいたのは、西区画の中央部だった。
着いた瞬間、俺は止まった。
セオがいた。ヴァンがいた。ライラがいた。他の乗員も——数えた。
一人、足りなかった。
「ユウが」セオが言った。声が、まだ少し震えていた。「ユウがいなくなった」
ユウ。対人の、若い男だった。今回の任務で初めて乗り込んできた新人。二十代の前半で、いつも端末を手放さなかった。
「いつから」
「十分前」セオは周囲を見回した。「この区画を調査していた。すぐ後ろにいたんです。振り返ったら——いなかった」
「足音は」
「聞こえなかった」
「叫び声は」
「なかった」
俺は周囲を見た。ヘッドライトが廃墟を照らす。瓦礫と苔と、結晶化した鉱物と。人の痕跡は——ない。
解析機でスキャンした。体温反応、なし。生命反応、なし。足跡、なし。
なし。
全部、なし。
変異体が倒せる。だが、これは倒せない何かの仕業だ。
「捜索を開始する」
オーガスの声だった。
振り返ると、オーガスがそこにいた。いつから来ていたのか分からなかった。全員の後ろに、静かに立っていた。
その顔を、俺は見た。
温度のない顔。完璧に凪いだ目。乗員が一人消えたという報告を受けて——
驚いていなかった。
眉一つ動かさなかった。戸惑いも、焦りも、恐怖も——何もなかった。
まるで、この展開を最初から知っていたかのように。
「全員、俺の指示に従え。単独行動は禁止する」オーガスは淡々と言った。「セオ、最後にユウを見た位置を示せ」
セオが端末で座標を送った。
オーガスはそれを確認して、地図端末に書き込んだ。機械的な動作。感情のない手続き。
俺は、オーガスから目を離せなかった。
驚いていない。
「ALT」
隣でノルが言った。小さな声だった。
「何だ」
「オーガスを」ノルはオーガスの背中を見たまま言った。「信じるの?」
俺は答えられなかった。
信じる、という概念を処理しようとした。信頼とは、過去の行動実績から算出される確率値だ。オーガスのこれまでの行動は、任務として正確だった。判断は的確だった。
だが——
変異体が二体いた。変異体程度で記録が残せないチームではないはずだ。それ以外の何かが、過去二度の調査を終わらせた。そして今、乗員が一人消えた。
そしてオーガスは驚いていない。
「分からない」俺は正直に言った。
ノルは少し黙った。
廃墟の奥で、振動が続いていた。低く、規則的に。何かが、まだ動いている。
「ALT」ノルがまた言った。
「何だ」
「壁の文字」ノルはゆっくり言った。「待っている、って書いてあった」
「ああ」
「誰かを待っている場所で」ノルは静かに続けた。「一人、消えた」
俺は廃墟を見た。黄色い光と、深い影と、百万年以上積もった時間の中に。
「それが偶然だと思う?」
答えは、出なかった。
オーガスが振り返った。全員を見渡す目。俺の目と、一瞬だけ合った。
何も読めなかった。
「移動する」オーガスは言った。「全員、ついて来い」
足音が、廃墟に響いた。
振動が、また一度——強くなった。
まるで、応えるように。
第3話 了
ガッ




