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キウイ  作者: ケラマジカ
1/3

第一話

『「ある日、この世界にもし宇宙から生物学者がやって来たら、ヒトは『コモン・チンパンジー』『ボノボ』に続く3種類目のチンパンジーとして分類されるだろう。」


人類が初めて火を手にしてから、約140万年。


農業を発明してから、約1万年。


核を手にしてから、約80年。


そして——


自らのDNAを書き換える技術を持ってから、約30年後。


人類は、五つに分かれた。


誰の意図でもなく。


あるいは、すべての意図によって。


設計図は、最初からそこにあったのだ。


人類のゲノムの約98%を占める、長い間「ジャンクDNA」と呼ばれた領域。タンパク質をコードせず、意味を持たないとされてきた沈黙の配列。だが研究者たちはその沈黙の中に、やがて気づき始めた。


それは命令文だった。


まだ、実行されていないだけの。


トリガーを待つ、休眠中のプログラムとして。


そしてトリガーは来た。


誰も予測できない形で。静かに、確実に。


太陽が、ある年の秋に少しだけ機嫌を損ねた。それだけのことだった。


眠っていた設計図は、地域によって異なる目覚め方をした。赤道に近い者は、ある方向へ。極に近い者は、別の方向へ。そして人類は、静かに——取り返しのつかない分岐点を越えた。


気づいた者は、最初ほとんどいなかった。


私の娘が初めて空を見上げたのは、生後三ヶ月のことだった。


その瞳の色が、私とも夫とも違うことに気づいたのは、もう少し後のことだが、医師は「稀な色素変異」と言った。心配することはない、と。


遺伝子検査の結果が返ってきたのは、娘が五歳になった春。


検査技師の声が、電話越しに微かに震えていた。


「お母さん、これは……これまで記録されたことのない配列です。」


その言葉の意味を、私はまだ理解できていなかった。


娘は縁側で、いつものように空を見ていた。


何かを、待つように。


「あなたが这を読んでいるということは、もう時間がないということです。」』




「……なんだこれ」


古びた封筒を手に、俺は眉をひそめた。


黄ばんだ紙。かすれた文字。使われている言語は——旧式の遺跡言語解析機が「日本語」と判定するのに、0.3秒かかった。当然だ。この言語を母語として話す人間など、もはや宇宙上に存在しない。


差出人の欄には、見覚えのない名前。


だが住所の欄には、こう記されていた。


東京都、渋谷区——


俺が今立っているのは、まさにその座標だ。


西暦1,599,292年。


かつて「日本」と呼ばれた列島の、かつて「東京」と呼ばれた都市の、かつて「渋谷」と呼ばれた区画。今となっては正式名称もなく、調査資料の中では単に「遺跡群JP-TS-7」と記録されている場所。近代化に乗り遅れ、五種の嵐に飲み込まれ、そして静かに忘れられた国。


「……日本か」


呟いた言葉は、誰にも届かなかった。


外は、今日も黄色かった。


大気に滲んだ硫黄と崩壊した文明の残滓が混ざり合い、この星の空はもう何千年もまともな青を見せていない。調査用の呼吸マスクを外せば、喉の奥に鉄と腐葉土を足したような匂いが積もる。生命が完全に絶えたわけではない——だが、かつてここで栄えた何かが死んだ匂いは、確かにした。


建物の亀裂から差し込む光は、琥珀色に濁っていた。


廃墟の中は静かだった。百万年以上の風雨に耐えた構造物が、それでもまだ辛うじて天井を保っている。強化コンクリートと何か別の素材が混ざり合った壁は、表面が苔と結晶化した鉱物で覆われ、もはや元の色すら判別できない。床を踏むたびに、細かい粉塵が黄色い光の中に舞い上がり、ゆっくりと、ゆっくりと沈んでいく。まるでこの場所ごと、時間の底に沈みかけているみたいに。


足元には崩れた瓦礫と、原型を留めない機械の残骸。かつてここに人が住んでいたという痕跡は、もはやほとんど残っていなかった。


それでも——この封筒だけは、残っていた。


なぜ。


百万年以上の時を越えて、なぜこれだけが。


瓦礫の隙間から、何か植物に似た菌類の触手が壁を這っているのが見えた。黄緑色の、光を嫌うような生き物。この星に残った生命は、もうほとんどがそういうものだ。太陽を避け、廃墟の影に潜み、誰にも見られずに増殖する何か。かつて人類が「自然」と呼んでいたものとは、もう似ても似つかない。


「おい、ALT。何か見つけたか」


耳の後ろに埋め込まれた通信端末が、チームリーダーの声を拾った。


「……ああ」と俺は答えた。「手紙だ」


「手紙?」


「紙の、手紙。封筒入り」


しばらく沈黙があった。外では風が鳴った。廃墟を吹き抜ける風は、笛のような、あるいは何かが呻くような音を立てる。この星特有の音だと、最初の着陸日にリーダーが言っていた。慣れろ、そのうち聞こえなくなる。 実際、もう三日目には気にならなくなっていた。


「……回収して7番船に戻れ。今日の調査はそこまでだ。日が落ちる前にJP-TS-7を出たい」


「了解」


俺は封筒を標本袋に収めながら、もう一度だけ手紙の冒頭に目を落とした。


「あなたが这を読んでいるということは、もう時間がないということです。」


誰が書いた。


誰に宛てた。


そして——なぜ、俺が読んでいる。


立ち上がると、膝についた粉塵が黄色い光の中に散った。出口に向かって歩き始めると、背後で何かが微かに音を立てた。振り返っても、何もない。瓦礫と、火星では見ないようなカビた蔓の模様の菌類と、時間の堆積だけがある。


外に出ると、空は相変わらず黄色かった。


地平線の向こうに、7番船のシルエットが見えた。曇った琥珀色の空を背景に、それだけが妙に現実的な輪郭を持っていた。俺は標本袋を握り直して、廃墟の外へ踏み出した。


足元で、乾いた何かが砕ける音がした。


振り返らなかった。


7番船は、廃墟群の外れに降りていた。


高さ三十メートルほどの楕円形の船体は、黄色い大気の中でも鈍く光を反射している。表面を覆う装甲合金は傷だらけで、これまでの調査で受けた無数の擦過痕が年輪のように刻まれていた。舷側に刻まれた「   SU C  N 7」という数字だけが、妙にくっきりと読めた。


タラップを上がると、与圧ハッチが重い音を立てて閉まった。


マスクを外す。船内の空気は、外とは別物だった。濾過された、無味無臭の空気。それでも最初の一呼吸は、いつも少し戸惑う。外の腐った匂いに慣れた肺が、清潔な空気を異物として処理しようとする。


「遅い」


振り返る前に、声が来た。


壁に背を預けて腕を組んでいたのは、リュクスだった。調査スーツの首元を緩め、こちらを一瞥してすぐに視線を逸らす。その目が一瞬だけ、俺の手にある標本袋に止まった。


「紙切れ一枚回収するのに随分かかるじゃない。電脳変動者って、処理速度遅いの?」


「お前も外に出てみれば分かる」


「遠慮する。あの星の空気、皮膚が嫌がる」


別星性別者にとって、外気は情報過多らしい。硫黄の匂いも、風の振動も、全部データとして処理してしまう。俺には理解できない感覚だが、リュクスが地表調査を免除されている理由はそこにある。


俺はそのまま通路を進もうとした。


「……手紙、って言ってたわね」


背後から、また声。


振り返ると、リュクスはもう壁から離れて別の方向を向いていた。こちらを見ていない。独り言のような口調だった。


「百万年前の紙が残ってるわけないでしょ。何かの罠か、仕掛けか。どっちにしても碌なものじゃない」


「だから回収した」


「ふうん」


それだけ言って、リュクスは通路の奥へ消えた。


俺は少し考えてから、歩き出した。




ブリーフィングルームには、すでにオーガスがいた。


長机の上頭に座り、端末を操作している。俺が入室しても顔を上げなかった。四十代に見える顔立ち。日焼けとも違う、均一に暗い肌の色。短く刈り込んだ白髪。何種族かを示す識別タグは、いつも服の下に隠れていて見えない。


「標本袋、こちらに」


顔を上げないまま、手だけが差し出された。


俺は標本袋を渡した。オーガスはそれをゆっくりと検分し、封筒の外観を端末のカメラで記録してから、静かに置いた。


「言語解析は完了しているか」


「日本語と判定された。信頼度99.7%」


「内容は」


「手紙だ。個人が書いたもの。宛先は——」


俺は少し間を置いた。


「判読できなかった」


嘘ではなかった。宛先の名前は、解析機が判定を保留にしたままだった。理由は不明だ。


オーガスは俺を見た。何かを測るような、温度のない目だった。感情を読もうとしたが、何も読めなかった。この人物の内面は、いつもそうだ。表面が完璧に凪いでいる。


「わかった。アメリカ地下都市への帰還後、研究部門に引き渡す。それまで保管しておけ」


「了解」


「以上だ。休息を取れ。出発は夜明け前になる」


俺は一礼して部屋を出た。


廊下に出た瞬間、背後でオーガスが端末を操作する音が止まった。


何かを考えている気配がした。


振り返らなかった。




自室に戻ると、俺は標本袋をロッカーの棚に置いた。


電脳変動者として、今日のログを更新する。遺跡群JP-TS-7、第三区画。発見物:有機素材製封筒一点、内容物:手書き文書一点。言語:日本語。状態:異常なし——


異常なし。


俺は少し考えた。


百万年以上前の紙が、劣化もなく残っていた。それを「異常なし」と記録することへの、微かな違和感。だが電脳変動者としての判断基準では、感情的な違和感はノイズとして処理される。ログに残すべき情報ではない。


俺はログを保存して、ベッドに横になった。


天井を見た。


「あなたが这を読んでいるということは、もう時間がないということです。」


手紙の冒頭が、頭の中で反復した。なぜ反復するのか、分からなかった。電脳変動者の記憶処理では、重要度の低い情報は自動的に圧縮されるはずだ。なのに、この一文だけが、妙に鮮明なままだった。


まるで——最初からそこにあったような。


ドアが微かに音を立てた。


開いてはいない。ただ、誰かが外に立っている気配がした。


「……誰だ」


返事はなかった。


しばらくして、足音が遠ざかった。静かで、軽い足音。俺はその足音に、聞き覚えがあった。


ノルだ、と思った。


なぜ彼女がここに来たのか。なぜ何も言わずに去ったのか。分からなかった。だが不思議と、怖くはなかった。


ただ——何か、言いたいことがあったのかもしれない、と思った。


俺は目を閉じた。


電脳変動者は睡眠を必要としない。それでも俺は時々、こうして横になる。ログの整理のためだ、と自分に言い聞かせながら。


暗闇の中で、手紙の文字が滲むように浮かんだ。


時間がない。


誰の時間が。


俺はその問いに答えを出せないまま、夜明けを待った。


夜明け前の7番船は、違う顔をしていた。


休息時間中は最低限に落とされていた船内照明が、出発一時間前になると段階的に上がり始める。オレンジがかった薄い光が、まず通路の足元から滲み出すように広がり、次第に天井のパネルが白く覚醒していく。それに合わせて船全体が、微かに振動し始める。エンジンの暖機。金属が熱を持ち始める感覚が、床越しに足の裏に伝わってくる。


俺は通路に出た。


十五人分の気配が、船内に満ちていた。


個室のドアが順番に開き、調査スーツを着込んだ乗員たちが無言で流れていく。誰も喋らない。出発前のこの時間は、いつもそうだ。眠っていた者も、眠れなかった者も、同じ無表情で通路を歩く。長期調査任務の乗員というのは、感情の消費を自然に抑えるようになる。喜怒哀楽は体力を使う。ここでは体力は、別のことに使う。


食堂に寄ると、自動配給機の前に数人が並んでいた。


高カロリーの固形栄養ブロックと、濃縮された水分補給剤。見た目も味も、毎回同じ。それでも誰も文句を言わない。文句を言う元気があるなら、もう一口食べた方がいい。


俺はトレーを受け取って、隅のテーブルに座った。


向かいに、ノルがいた。


気づかなかった。いつからそこにいたのか分からない。トレーの上の栄養ブロックに視線を落としたまま、食べてもいない。ただ座っている。その存在感は重いのに、気配がない。人間というより、最初からそこにあった家具のような——


「食べないのか」


俺が言うと、ノルはゆっくりと顔を上げた。


目が合った。


何かを、見透かすような目だった。責めているわけでも、値踏みしているわけでもない。ただ、深い。底が見えない。


「……食べる必要を、感じなかった」


低い声だった。抑揚が薄い。


「それは俺も同じだが」電脳変動者は栄養補給の効率が高い。「一応食べておいた方がいい。今日は長い」


ノルは俺を見たまま、少し間を置いた。


「ALT」


「何だ」


「昨日、何か見つけたんだろう」


断定だった。疑問の形をしていない。


俺は一瞬、答えを探した。「手紙だ。オーガスに報告した」


「そう」


ノルはそれ以上何も聞かなかった。またトレーに視線を落として、今度はゆっくりと栄養ブロックを口に運んだ。


俺も食べた。


沈黙が続いた。不思議と、不快ではなかった。


「手紙って」


ノルが、また口を開いた。独り言のような声だった。


「誰かが、誰かに宛てた言葉だろう」


「そうだ」


「届いたのか」


俺は少し考えた。「百万年後に俺が読んだ。届いたとは言えないかもしれない」


ノルは何も言わなかった。


だがその目が、微かに——何かを確認するように——俺の顔を見た。


出発のアナウンスが船内に響いた。




離陸は、静かだった。


エンジンの轟音は船内にはほとんど届かない。感じるのは、重力が微かにずれる感覚だけだ。床が下に引っ張る力が弱まり、体が少しだけ軽くなる。窓の外で、黄色い大地がゆっくりと遠ざかっていく。


JP-TS-7が、点になった。


廃墟群が、地平線に溶けた。


かつて東京だった場所は、上から見ると何もない荒野と変わらなかった。人類が百万年以上かけて積み上げたものが、ただの地形になっている。俺はしばらくそれを見ていた。


「感傷的ね」


隣にリュクスが来ていた。


窓の外を見もせずに、腕を組んで立っている。その瞳が、俺の側頭部あたりを捉えている。別星性別者の視覚は広域だ。正面を向いていても、横の情報を精密に処理できる。


「別に」


「電脳変動者が窓の外を見続けるのは、感傷以外に理由がない。感情ログの蓄積過多じゃないの」


「お前は窓を見ないのか」


「見ても情報が多すぎる。あの星の大気、嫌いなの」俺をちらりと見て、「それより、手紙」


「何が」


「オーガスに全部話したの」


俺は少し間を置いた。「調査記録として報告した」


「全部?」


「……内容の詳細は、帰還後に研究部門が解析する」


リュクスは少し黙った。その沈黙は、いつもと少し違った。棘がない。


「ねえ、ALT」


「何だ」


「百万年前の紙が劣化せずに残ってるって、おかしいと思わない?」


「思った」


「思ったなら、なぜログに書かなかったの」


俺は答えられなかった。なぜ分かった、と聞こうとして、やめた。別星性別者は視線を情報として読む。俺が昨夜ログを更新したときの微細な表情変化を、リュクスはどこかで拾っていたのかもしれない。


「感情的な違和感はノイズとして処理される。ログに残す情報ではない」


「電脳変動者ってそういうものなの」リュクスは鼻で笑った。「感情をノイズって言える種族、私には理解できない」


「お前たちは感情も情報として処理するだろう」


「処理するのと、切り捨てるのは違う」


俺は何も言わなかった。


リュクスはそのまま通路の奥へ歩き始めて——ふと、振り返った。


「その手紙、研究部門に渡す前に、ちゃんと読んだの?」


「冒頭だけだ」


「ふうん」


また、鼻で笑う。だが今度は、棘ではなく——何か別のものが混じっていた気がした。


「まあ、好きにすれば」


それだけ言って、リュクスは消えた。




巡航高度に達すると、船内は静かになった。


乗員のほとんどが自室か作業室に戻り、通路には誰もいない。窓の外は雲を越えて、黄色から深い群青に変わっていた。大気圏を抜けると、星が見える。無数の、冷たい光。


俺はロッカーに戻り、標本袋を取り出した。


手袋をして、封筒を開けた。


手紙は二枚あった。一枚目は、すでに読んだ。冒頭の一文で止まっていた。


二枚目を、広げた。


インクがかすれていた。だが読めた。解析機が、リアルタイムで翻訳を流し始める。


「娘の名前はユヅキといいます。五歳です。


この手紙を書いている今、私は娘が何者なのかを、まだ理解できていません。


ただ一つだけ分かることがあります。


娘は、何かを待っています。


生まれた日から、ずっと。


あなたが这を読んでいるなら——あなたはきっと、娘が待っていた何かです。


だから、お願いがあります。」


そこで、インクが途切れていた。


続きは、なかった。


俺は手紙を裏返した。何も書いていない。封筒の中を確認した。何もない。


お願い、の続きが——ない。


俺はしばらく、その空白を見ていた。


何億何百何万年前の誰かが、何かを書こうとして、書けなかった。あるいは——書いたが、残らなかった。


ユヅキ。


解析機が、その名前だけを別枠で表示した。


——判定保留。理由:類似パターン検出。照合先:不明。


俺は解析機の画面を見つめた。


類似パターン。照合先、不明。


それはどういう意味だ。


窓の外で、星が流れた。


アメリカ地下都市「アーク・ゼロ」への進入は、いつも同じ順序で始まる。


まず、警告灯。


船体前方のパネルに赤いランプが三つ灯る。管制塔からの誘導信号だ。自動操縦が切り替わり、船が僅かに傾く。窓の外、何もない荒野の地表に、巨大な亀裂が見えてくる。人工的に切り裂かれた地面。幅三百メートル、長さ一キロ以上に渡る開口部。縁に沿って誘導灯が並び、黄色い大気の中でだけ青白く光っている。


地上では、青はここにしかない。


「降下開始」


オーガスの声が船内に流れた。


俺は窓に張り付いた。毎回見ているのに、毎回同じように見てしまう。


船が亀裂に吸い込まれていく。


壁面が迫る。岩盤を削り取って造られた垂直の壁に、無数のケーブルと配管が走っている。冷却システム、電力供給、水循環——地下都市の生命線が、むき出しのまま壁に貼り付いている。降下するにつれて、壁の色が変わる。岩盤の灰色から、金属パネルの銀色へ。そして——


光が、来た。


「……っ」


思わず目を細めた。


地下二百メートルを越えたあたりから、光量が急激に増す。天井に敷き詰められた人工太陽パネルが、昼の光を完璧に再現している。色温度5500ケルビン。かつて人類が「自然光」と呼んでいた光に最も近い白。地上では何千年も見ていない色だ。


目が慣れると、全景が見えた。


アーク・ゼロ。


縦に深く、横に広く。地下空間をそのまま都市にしたような場所だ。岩盤を削り続けて造られた空洞は、もはや洞窟という言葉では足りない。高さ五百メートルの天井に人工空が広がり、その下に幾層にも重なる居住区、商業区、研究区が階層ごとに色分けされている。最上層は緑——植物工場と公園。中層は橙——商業と居住。下層は青——研究施設と動力区画。


人が、いた。


無数の人が。


船着港に近づくにつれて、人影が見え始める。港の外の連絡通路を行き交う人々。エレベーターシャフトを上下する輸送カプセル。橋のような通路が層と層を繋いで、人の流れが川のように動いている。


これだけの数の、これだけの種類の人間が。


「毎回思うけど」


隣にリュクスがいた。いつの間にか来ていた。窓の外を見ている。その瞳が、光を受けて——名前の通り、少し輝いていた。


「ここ、好きじゃない」


「なぜだ」


「情報が多すぎる」だが口元は、微かに緩んでいた。「でも、嫌いでもない」


着港のアナウンスが流れた。




ハッチが開いた瞬間、音が来た。


地上の廃墟では失っていた感覚——人の声、機械の駆動音、何十種類もの言語が混ざり合う喧騒——が、一気に押し寄せてくる。俺は一瞬、処理が追いつかなかった。電脳変動者として入力を整理しようとして——うまくいかなかった。情報量が多すぎるのではなく、懐かしいのだ、と気づいた。この音が。


タラップを降りる。


港は広かった。天井が高く、複数の船が同時に発着できる。床はガラス張りで、下の層の光が透けて見える。行き交う人々の顔を、俺は自然に観察していた。


対人の男女が荷物を運んでいる。普通の、当たり前の顔で。


環人とおぼしき人物が、誰かと親密に話している。その目が、相手の動作に鋭く反応している。


電脳変動者が一人、壁際で静止して目を閉じている。ログの更新中だ。こめかみの端末が微かに点滅している。


別星性別者の集団が連絡通路を渡っていく。彼らの動きには独特のリズムがある。情報を処理しながら歩く特有の、少し遅れるような足取り。


そして——


俺は立ち止まった。


人混みの中に、一人の子どもがいた。


五歳か六歳くらいの、小さな女の子。保護者らしき人物を見失ったのか、立ち尽くして周囲を見回している。その瞳の色が——俺の知っている色とは、違った。虹彩が、光の角度によって色を変える。そんな目を、俺はどこかで知っていた。


娘の名前はユヅキといいます。五歳です。


違う。百万年前の話だ。


「ALT」


オーガスの声だった。振り返ると、チーム全員がすでに港の出口に向かって歩き始めていた。俺だけが取り残されている。


「来い」


「……ああ」


俺は歩き出した。


子どもの方を、もう一度だけ見た。


すでに、保護者らしき人物に手を引かれて歩き始めていた。小さな背中が、人混みに溶けていく。


気のせいだ、と思った。


ログに記録する必要はない、と思った。


だが足が、一瞬だけ止まった。




報告室は地下三層にあった。


研究区画の奥まった場所。白い壁、白い机、白い照明。地上の黄色と、港の喧騒と、全部遮断された無菌の空間。


オーガスが標本袋を研究員に手渡した。


研究員は封筒を受け取り、手袋をして中身を確認し、端末にデータを入力した。機械的な動作。感情のない手続き。


「解析結果は三日後に」


「わかった」


それで終わりだった。


百万年前の誰かの言葉が、今、白い部屋の棚に収まった。


俺はその棚を見た。同じような標本袋が、何十個も並んでいた。どれかに、誰かの手紙が入っているかもしれない。誰かの日記が。誰かの最後の言葉が。全部、解析待ちの棚に並んで——


「終わりだ。解散していい」


オーガスが言った。


乗員たちが部屋を出ていく。俺も出た。


廊下に出ると、ノルが壁に寄りかかって待っていた。


全員が通り過ぎても、動かなかった。俺が最後に出ると、ノルは壁から背を離して、一言だけ言った。


「渡しちゃったんだ」


責めているわけではなかった。ただ、確認するような声だった。


「調査記録だ。規則通りだ」


「そうだね」


ノルは少し、俺を見た。


「でも、お願いの続き——気にならなかった?」


俺は答えられなかった。


気になっていた。ずっと、気になっていた。だがそれを認めることが、なぜか——怖かった。


ノルはそれ以上何も言わなかった。静かに踵を返して、廊下の奥へ歩いていく。


その後ろ姿を見ながら、俺は一つだけ気づいたことがあった。


手紙の内容を、俺はオーガスに話していない。


なのに、ノルは知っていた。


お願いの続きがある、ということを。


俺はその問いを、ログに記録しなかった。


記録できなかった、という方が正確かもしれない。


廊下の向こうで、アーク・ゼロの喧騒が続いていた。五種の人間が混在する都市の音。怒鳴り声と笑い声と、何十もの言語と、機械の音と、子どもの泣き声が全部混ざった、雑然とした、それでも確かに生きている音。


地上では、もう聞けない音だ。


俺はしばらくその場に立って、その音を聞いていた。


電脳変動者として処理するでもなく。


ただ、聞いていた。




第1話 了

Prostrating in gratitudeッ

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