鈴蘭と蜂蜜
「…………蜂蜜をいっぱい」
「はは、可愛らしいところがあるんだな」
そう笑うと、彼女は悔しそうに顔を顰め、こちらを見た。
灰色にけぶるその面立ちは繊細で美しく、女達が影で騒いでいる事を知っている。
灰色を持つ子供は階位が低いと呟きながらも、誰もが彼女の優雅さと賢さに目を奪われるのだ。
それが例えば同性であっても、彼女の姿には理想の王子様のような美麗さを見るらしい。
静かに佇む姿はしんと静まり返った湖のようで、ケープを翻して歩く姿は騎士達が見本とする程に凛々しくさえ見える。
横顔に落ちる睫毛の影に、僅かに持ち上がった唇の端の微かな窪み。
けれども、温めた牛乳には、蜂蜜をいっぱい入れる。
その頬に指先で触れ、彼女が困ったように、けれどもやれやれと微笑むと心が弾む。
ああ、君が好きだ。
君がここにいて、こちらを見て微笑むだけで、どんな仕事も完璧にこなして君を驚かせてやろうと密かに決意する。
僕はいつだって君の誇る友人でありたいし、君が密かに憧れる相棒でありたい。
年下の君に向けるこんな執着を知られたらと思えば気恥ずかしくもあったが、それよりも、愛する人が隣にいてくれるという喜びがいつだってその躊躇いを凌駕した。
君が好きだ。
とても、とても。
君が笑うだけで毎日が幸せになるし、君が怒ると胸が潰れそうになる。
だから毎日のように君に言おうと決めているのは、君が大好きだということなのだった。
淡いオリーブの枝葉の影の落ちる窓辺に立ち、ゆっくりと冬に向かう夜が明けるのを待つ。
机の上に散らばった書類と、あちこちへと奔走した残骸として残る手紙の束。
こうして今日もいつもの一日が暮れてゆき、その傍にはいつだって君がいる。
だから、どこまでも落ち、広がってゆくのはこうして共に過ごす日々が与えてくれる優しさばかり。
「馬鹿だな、君は」
「それでもいいのさ。僕は、君を伴侶に出来るように第一席の立場を維持しているようなものなんだ。君がいなければ、こんな仕事なんてしていないよ」
「そうか。だが私は、自分で望んで府王を目指したのだが……?」
愛しているからこそ選んだ言葉なのだが、彼女は少しだけ腹を立てたようだ。
ぴくりと動いた目元が可愛くて、怒られないように微笑みを手元で隠した。
「だからこそだ。府王の伴侶は、府王候補者からしか選べないと決められている。君の伴侶の座を他の男に取られるくらいなら、僕が府王になるしかなかった」
「私を府王にして、君が補佐をすれば良かったんだろう。なぜ、あれだけ努力してきた私をこうも簡単に追い抜いていくのかな」
「だって、君が他の候補者を選んだら困るじゃないか。或いは、私を選ぼうとしても、真面目な君が、国の事を考えて他の才能を持つ候補者の方が自分に向いていると考えたら、それも困る。であれば、決定権を持つ第一席になるしかなかったんだ」
そう言えば彼女は呆れた顔をしたが、そんな顔も可愛くて思わず抱きしめてしまうと、やれやれと肩を竦めて抱きしめ返してくれた。
(そう。こんなところなんだ)
府王の候補者になってから、なぜだか周囲に女達が群がるようになった。
美しく賢い彼女達は色とりどりの花々のようであったし、よりにもよって彼女からも、他の女達の方が華やかでいいだろうと言われてしまったが、どう考えても他の誰かを愛する事は出来なかった。
他の女達が薔薇や向日葵なら、彼女は確かに、涼しげに揺れる鈴蘭なのだろう。
けれども、灰色の雨にけぶる鈴蘭のような凛々しく儚げな佇まいが、いつだってこの胸を揺さぶるたった一つなのだ。
(僕を抱き締めてくれるのは、君だけなんだ)
こうして抱き締めて守ろうとしてくれて、間違った事をした時には叱ってくれるのは彼女だけ。
共に過ごしその心を得たいと思ったのも、この身に変えてでもと守りたかったのも彼女だけ。
なぜならこの魂は、最初から偏っている。
その真実を知っても恐れず、いつものように抱き締めてくれたのも、彼女だけであった。
「君は、困った奴だな」
そう笑う彼女の髪を撫で、少しだけ悪戯っぽい目でこちらを見上げた彼女に口付ける。
愛しているよと心の中で呟き、体を離してからもう一度、今度は言葉にして愛しているよと囁きかけた。
擽ったそうに笑う彼女の頬を撫で、その体を抱き締めるだけで疲れが吹き飛びそうだ。
「僕は幸せ者だ。この立場は誰にも渡すものか。君は絶対に僕の奥さんにする」
「やれやれだな。困った次期府王様だ」
「そもそも、君との間にはもう子供達がいるんだぞ?それなのに、府王の選定の日までどうして結婚出来ないんだろう。もし君を伴侶に出来なかったら、僕はこの国の議会に乗り込んで滅茶苦茶にしてやるよ」
それもまた腹に据えかねる事であったが、府王の婚姻は府王となってからのみ決められる国事である。
勿論、様々な適齢期が過ぎてしまうので、正式な夫婦を名乗れずとも家庭を持ち子供を得る事は許されているが、それは、府王の選定の際に府王となった者の判断で幾らでも覆せる。
府王たる者は、己の力を最大限に引き出せる相棒こそを伴侶として選び、外交に挑まねばならないのだから。
「……………やめてくれ。本気でやりそうだな」
「本気だとも。だって君は、僕のたった一つの宝物なんだ。君がいなければ意味がない」
「………いいか、子供達がいるんだ。あの子達の前では、そんな事を言わないでくれ」
「みんな知っているよ。ヴィンセントからは、父上は、家族で事件に巻き込まれても母上しか助けないから、僕は早く自立しなければと思ったと言われている」
「…………まったく。息子に言わせていい台詞ではないんだぞ。自慢げに言うな」
そう笑った彼女が、わざと怖い顔をして、それがまた可愛くて抱き締めた。
ねぇ、君。
僕はいつだって君を愛しているよ。
その温もりを思い出して彼女の手が触れた場所を撫でたが、冷たく凍えた胸はからりとも鳴らなかった。
ひび割れた鏡と、床に落ちて粉々になったままの宝石箱に、窓辺の花瓶の花はとうに枯れている。
「……………でも、本当にそうなんだ。僕はいつだって君しか大事じゃないんだよ。多分、どこか頭がおかしいんだろう。それでも、君がいてくれたからまともでいられたんだ」
そう呟き、鏡を見て歪んだ微笑みを浮かべた。
最愛の人はもういない。
求婚され断った第三席の女が、彼女を襲うようにと代理妖精達に命じ、馬車に乗った次男と共に殺されてしまったからだ。
そして、事もあろうか、彼女を乗せた馬車を任されていた御者妖精は、彼女を馬車に乗せたまま祟りものから呪いに転じてしまった。
この手に愛する人の亡骸を取り戻す事も出来ず、あの黒い馬車は国境を越え、今は、旧ガゼット周辺領域を走りながら大陸一の大国であるヴェルクレアに向かっている。
あの方を喪って可哀想にとこの手に触れようとした女を、この手で殺せたなら良かったのかもしれない。
だが、祟りものになる訳にはいかなかった。
最後の一手が残されているのに、この国での立場を悪くする訳にもいかない。
もう一度笑おうとして上手くいかず、指先で唇の端にそっと触れる。
ああ、あの馬車は今、どのあたりを走っているのだろう。
(…………ジャバスは、彼女の一族に古くから仕える御者妖精だった。我が子のように彼女を愛していた彼が狂ったのは、愛するものを守れなかった妖精の悲劇なのだろう………)
その一報を聞き、駆け付けて触れたのは、穢れて真っ黒に澱んだ馬車の轍で、そこからはジャバスの悲しいまでの狂気が伝わってきた。
逃げて、逃げて、逃げて、どこまでも走って、この身が滅びても走り続けなければならない。
誰にも追い付かれないよう、誰にも脅かされないよう。
この身が災いに成り果てようとも、後ろに乗せた子供達だけは、絶対に守らねばならない。
これは、大切な大切な子供達なのだ。
その思いはきっと、愛するものを奪われまいとする妖精の恐怖で、ジャバスが彼女の事を今でも守るべき子供だと考えていたのが、悲しくて嬉しかった。
逃げ続けながら代理妖精達に切り刻まれ、事切れても彼は手綱を離さなかった。
それはもしかしたら、首を落とされても走り続けた妖精馬達も、同じような思いだったのだろうか。
そうして祟りものから転じたあの呪いが最初に食らったのは、自分達を殺した代理妖精達だと聞いている。
「…………うん。みんなが、君を愛していたんだ。それなのに、君を憎んだあの僅かな者達のせいで、君の運命が歪められてしまった。…………きっと、怖かっただろう。悔しかっただろう。…………でも、君を傷付けた者達には罪を償わせたから、もう怖くないよ」
鏡の中の自分を見つめながらそう呟き、また歪んだ微笑みを浮かべた。
困った人だと微笑んで抱き締めてくれる彼女はもういないけれど、この不在はほんの僅かな時間だけのこと。
(ごめんね、……………痛かったね。怖い思いをたくさんしただろう。今もきっと、不安で怖くて仕方がないよね。けれど、もうすぐ迎えに行くから、もう少しだけ我慢しておくれ)
「だって僕は、君を失うつもりなんてこれっぽっちもないんだから」
そう呟いて微笑むと、背後から誰かの溜め息が聞こえた。
「……………やあ、ヴィンセント」
振り返ると、そこに立っていたのは長男だ。
いつの間に部屋に入ってきたものか、もはや、使用人達もこの部屋には入れなくなったのに、この子だけはまだ、ここに近付く事が出来るらしい。
ああ、我が子なのだなと思うと、久し振りに両手で抱き締めてやりたかったが、多分、そうするには色々と遅過ぎた。
「母上を迎えに行かれるのですか?正直なところ、あれこれと手を打ちましたが、あの馬車が向かうのはヴェルクレアだ。あの大国の力を思えば、いつ調伏されてもおかしくはない」
「ふふ、僕を誰だと思っているんだい?府王はね、元々外交の為に飼われる王族なんだ。だから僕達は、自分が王になった時の為に、各国との外交ルートをこれでもかと手に入れてあるんだよ。…………例えば、ヴェルクレア王との密約とかね」
そう言えば、こちらを見た息子が驚いたように目を瞠った。
「…………まさか、あの馬車を、わざとヴェルクレアに向かわせたのですか?」
「そうだ。でもこれは、僕なりの魔術の構築と計算に基づいている。少しでも計算が狂えば、あの呪いは誰かに壊されるか、封じ込められるだろう。……………けれど、他に道があるかい?彼女達はもう、殺されてしまった。真っ当な手段では取り戻す事は出来ない。唯一の可能性があるとすれば、………少しでも呪いとしての力を蓄えさせ、それを僕が使い魔として手に入れるしかないからね」
「……………成る程。なぜ馬車を止めないのかと思っていましたが、…………あの馬車にかの大国の獲物を食わせる事も、父上の計画でしたか。だからこそ、第一席の立場を辞する為にありとあらゆる手を使い、各所に根回しをし、………この国を捨てるおつもりですね?」
そう尋ねた息子の灰色混じりの澄んだ瞳は、こちらを真っ直ぐに見つめても、揺らぎもしない。
小さな頃は雷にも怯えて泣いていた怖がりだったが、いつの間にか彼女そっくりの優雅で物静かな佇まいを身に付けていた。
自慢の息子だ。
けれども、どれだけ愛する我が子であっても、この心はとても脆弱で、その愛だけでは生きてゆけなかった。
「……………議員達には、もし我が国の呪いがヴェルクレアを脅かせば、国際問題になる。責任を取って僕が鎮めてくると話してあるよ。彼等は賢くてしたたかだ。僕の本心がそこにないとは知りつつも、この話を美談として国民を上手く纏めるだろう。だからね、この国では君の立場も悪くはならないからね」
かつて彼女がやってくれたように、袖口のカフスを直しながらそう言ったが、やはり彼女のように綺麗には留められなかった。
それが悲しくて唇を噛み、あと少しの辛抱だと自分に言い聞かせる。
何度も。
何度も。
「でしょうね。中央の議員達が、なぜか第五席のはずの僕を、次期府王かのように扱い始めましたからね」
「うん。僕の持てる限りの外交ルートと、情報や知識の全ては君に預けたと話してある。実際に、その全てを君に譲るつもりだ。…………引き止められるとまずいから、中央との連携が取れるまでは内緒だったんだよ」
(……………だって、君がいない)
いなければ自分は人間として機能しないので、これ以上の選択肢はどこにもなかった。
「…………叶わなければ、どうされるつもりですか?」
「呪いごと、どこかで果てるよ。彼女がいないのに生きてはゆけない。…………ごめん。そうしたら、君を置き去りにしてしまうね」
「…………いいえ。父上はそうするだろうと、ずっと昔から想像出来ましたからね。今更驚きませんよ」
「………うん。それでも、父親としては失格だ」
「ですが、あなたが義務だけの為に狂いながら生きてゆくよりは、よほどいい」
どんな顔でその言葉を言うのかと思えば、ヴィンセントは、呆れたような彼女そっくりの目で苦笑していて、何だか笑ってしまった。
「…………うん。僕も、自分が狂った場合に真っ先に殺すのは、君だと思っている。君は僕の最愛の奥さんによく似ているから。………だから、それだけはしたくないんだ。父親失格だけれど、それでも、君の事もとても愛してはいるんだよ」
「そのくらい知っていますよ」
「うん」
「…………ヴェルクレア王との密談があるのなら、………母上を取り戻せますか?」
その質問に少しだけ考え、けれども自信満々に頷く事は出来ずに苦笑して首を傾げた。
「どうだろうね。あの王が許したのはアルビクロム迄だ。より材料が潤沢な土地を経由してから途中で経路を変えるつもりだったけれど、既に誰かに力尽くで経路を変えられてしまった。…………であれば、またそういう事があるかもしれない」
「あの呪いの経路を変える事は、我が国の人間には、………いえ、妖精達にも難しいでしょう。恐らく、かなり高位の人外者が関与しています」
「だろうね。国境の向こう側には、かつて馬車型の辻毒を好んだ魔物の領地があった。階位上げにはもってこいだと思ったのだけれど、誰かがそれを懸念したのかもしれない。…………僕が生まれる前に死んでしまっていたけれど、その魔物は同族からも嫌われていたようだから」
「正直なところ、あの地は避けて正解です。残された魔物の術式によっては、母上の魂が取り込まれてしまう恐れがある」
「………うん。僕も後からそう思ったんだ」
そう言えば息子は呆れたような目をしたが、あの地で魔術階位を上げられれば、ヴェルクレアまで走らせる必要がなかったかもしれない。
少しでも早く彼女を取り戻したくて、ついつい気が急いてしまった。
(ここから先の土地は、戦場が多くなる。様々な怨嗟を取り込みながら呪いを育てて、そうしてまずは、格段に魔術階位を落とすアルビクロムへ)
恐らくはその地で、あの馬車は、狂乱状態を脱するだろう。
鉄を扱う街の魔術基盤は、妖精の馬車との相性はあまり良くない。
とは言え、それでも呪いを退けるだけの階位を持つ者達はおらず、ヴェルクレア王との密約がある限りは、あの馬車を迎え撃つ為の防衛策は成されない。
あくまでも、予期せざる災厄として、あの馬車はヴェルクレアに迎え入れられる。
特定の領域の力を定期的に削がねばならないヴェルクレア王の思惑と、こちらの目的が一致しているのだ。
だが、あの王には一つだけ伝えていない事がある。
それは、こちらがアルビクロムで馬車を回収するつもりがないという事と、最終目的地がウィームだという事だ。
(呪いとしての怨嗟を溜め込んだ状態から、アルビクロムで狂乱を覚まし、最後に必要なのがウィームの清廉な土地の魔術だ。出来れば、ウィームでも一つくらい獲物を得てくれれば上出来なんだけれどな…………)
「………全てが上手くいけば、こちらに戻られますよね?」
「うん。そのつもりだよ。君も、可愛い娘もいるからね」
「やれやれ、他の者達は、父上が馬車から家紋を削ぎ落とした際に命を落としたと思っておりますよ」
「まぁ、普通は死ぬからね。…………でも、僕は普通じゃないから。それに、呪いの格上げをする為に、獲物を与えておいたから、外から見たら僕が取り込まれたようにしか思えなかったんだろう」
「その方が、………姿を隠している間の、言い訳になるからですか?」
「それだけじゃないよ。あの第六席を餌にしたのは、彼が今回の襲撃に協力していたからだ。あの女とその一族は公の場で処刑するしかなかったけれど、それは、この国の為にある程度は筋を通す必要があったからだし、あんな物を混ぜたら奥さんが可哀想だからだよ。…………でも、一つくらいは相応しい獲物を与えてあげたかったからね。襲撃の作戦を立てた者を必ず一人は贄にしようと決めていたんだ」
その説明に、ヴィンセントは少しだけ肩を落としたようだ。
「…………そこ迄、母上は目障りでしたか。灰色を持ち生まれた、ただそれだけの事が。………母上ほど美しく聡明な女性はいません。だからこそ、第二席であられたのだ。それでも………」
「どうだろうね。人間はとても単純な生き物だから、もっと簡単な理由かもしれない。あの男はね、かつて彼女に求婚したんだ」
「…………そうなると今度は、よく贄にしようと思いましたね?」
「彼は、ばっさりふられてからは彼女を憎んでいたからね。僕だって、未だ彼女に想いを寄せている男なんか贄にしないよ。ご褒美になってしまうだろう?」
「…………いや、どちらにせよ、贄になるのならそうは思わないのでは?」
「…………そうかい?」
もう一度首を傾げ、ゆっくりと前に出た。
幸いにも今は少しだけ安定しているので、そろりと手を伸ばして息子の頭を撫でる。
こうしてやるには手遅れかなとも思ったが、どうやら間に合ったようだった。
「……………母上を、お願いします」
「うん。君には、僕の可愛い娘を任せてもいいかな?」
「妹の事は、父上が面倒を見るよりも、僕一人で育てた方が良さそうですね」
「はは、酷いなぁ。……………でもどうか、僕が二度と戻れなくても、…………忘れないでおくれ。僕はとても身勝手な親だけれども、君もあの子も、とてもとても愛していたんだ」
「言われなくても知っていますよ。…………父上は先祖返りだ。このようにしか生きられないのだと。それに僕はとうに成人しています。ここまで育ててくれたのは、父上と母上でしょう」
「……………僕は、とてもいい子供を持ったなぁ」
「可能であれば、弟も拾ってきてやって下さい」
「勿論、取り戻せるなら家族の全員を取り返してくるよ。……………それじゃあ、そろそろ行こうかな。彼女がいなくなってしまったから、……………この形を保つのもそろそろ限界だ」
指先がざわりと崩れて、濃密な魔術の気配を帯びる。
一礼した息子に背を向けて、予め開けてあった窓からバルコニーに出た。
(……………さて、君のところへ飛んでゆこうか)
何しろ、今の僕にはそれが出来る。
かつて、あの国から流れてこの地に落ち着いた、竜の血を引くその末裔として、このような先祖返りが生まれたのは初めてだというが、それはもしかしたら、いつも隣に彼女がいたからかもしれない。
竜はいつだって、竜の宝を守る為に戦うものなのだ。
(ウィームか、…………僕達の祖先が生まれた場所だな………)
この血筋の始まりに位置する土地にあの馬車が向かうのも、もしかしたら運命のようなものが作用しているのだろうか。
同じ府王の系譜に生まれた彼女にも、いや、本来はあの灰色を身に宿した彼女の方が、ウィームと光竜の血筋をより強く残している筈なのだから、その土地の呼び声が聞こえるのだろう。
誘導物を置かねばならないかと思ったが、馬車は真っ直ぐにヴェルクレアに向かっている。
呪いは、より我が身に近しい者を求めるとされていた。
相似性が強く、引き合うものの前に姿を現すのが階位を上げた呪いの理だ。
走れ。
走ってくれ。
止まらずに走り続けて、終焉や破滅から逃げ切り、どうかあの、我等の始まりでもある雪と魔術の清廉な国まで。
そうしてそこで傷を癒し、もう一度この手の中に戻ってこられるように。
走って走って、たくさん殺してもいいから。
もう一度、最もよく似た定めを持つこの手の中に帰ってきてくれたのなら、また君の為に蜂蜜をいっぱい入れた温めた牛乳を用意しよう。
その運命と僕以上に引き合う者など、存在しない筈なのだから。
だからきっと、僕達はまたすぐに会えるだろう。




