飛空箒 航程23 〜羽田創司〜
目が覚める。
最初に感じたのは身体の軽さ。
泥中を進んでいるようだった昨日までの怠さが、綺麗に吹き飛んでいた。
体を起こして周囲を確認。
高い天井。
染み一つない壁。
窓を覆う厚手のカーテン。その隙間から差し込む細い陽光が、絨毯の上に金色の筋を描いている。
「……どこよ、ここ」
もちろん記憶喪失なんてことはない。
カルミナさんの指示で雑貨店に来たことも、その隠し階段を下って3番扉とやらに入り、あてがわれた部屋で寝たことも覚えている。
ついつい漏れた呟きは、今見た光景が信じられなかったから。
ベッドから起き、カーテンを開ける。
「マジか……」
窓の外に海があった。
外界から切り離された空間に、独自の自然環境を持つ迷宮――いわゆる箱庭型迷宮。
その活用は、迷宮発見当初から現在に至るまで、人類が追い求める夢の一つ。
太陽、大気、水に気候に生態系。
外部から隔絶されながら、それら全てが内部だけで循環する空間。
仕組みの完全な解析は、永久機関や不老不死と同じ棚に置かれた夢物語だ。
国家予算を食い潰し、人生を丸ごと捧げて、欠片ほどの成果が得られれば儲けもの。
そんな地球人類垂涎の空間が、雑貨屋の地下で宿泊施設として使われている。
……やっぱとんでもないわ、あの人。
——リリリリリン。
呆然と窓の外を眺めていると、ベッド脇に置かれていた鈴が独りでに鳴った。
摘まめる程度の取っ手がついた、小さな呼び出し鈴。
そう思っていたのだが。
『おはようございます、羽田創司様。朝食のご用意ができております』
鈴の側面が柔らかく歪み、ぱくりと口の形に変わった。
そこから聞こえてきたのは、店員さんの声。
どうやら呼び出すためではなく、呼び出されるための鈴だったらしい。
◇◆◇
部屋を出ると、廊下には店員さんが待っていた。
ただし昨日とは別の人だ。
同じ薄い栗色の髪。
同じ白いエプロン。
背格好までよく似ているが、顔立ちには微妙な違いがある。
何より、笑顔が違った。
昨日の店員さんは完璧な表情を浮かべているのに、その奥に感情が見えなかった。
対して目の前の女性は、目尻を柔らかく下げ、ごく自然に微笑んでいる。
「昨日の方は?」
「本日は非番でございます」
「シフト制なんだ、ここ……」
魔女が運営する正体不明の雑貨店にも勤務表があるらしい。
案内に従って食堂へ向かおうとした、その時。
『少し待て』
ペンダントからジャンクスフィアの声がした。
「どうした?」
『むむむむむ……』
「何その掛け声」
ペンダントから白い靄が噴き出す。
「……なにしてんの?」
『むむむむーん!はぁっ!』
気合いの入った声とともに、白い靄が廊下いっぱいに広がる。
視界が完全に塞がれ――次の瞬間、一気に晴れた。
「は……?」
そこには初老の男性の死体が転がっていた。
いや……違う。
死体ではなく、ジャンクスフィアの身体だ。
胸元のペンダントがカタカタと震える。
『ワシを乗せろ』
「どこに?」
『額でよい』
言われるまま、床に横たわる初老男性の額へペンダントを置く。
直後、死体同然だった身体が大きく息を吸い込んだ。
「ふぅ……!」
上半身を起こしたジャンクスフィアが、首と肩を順番に回す。
骨の鳴る音が廊下に響いた。
「やはり物に宿るのは窮屈であるな!サピエンスの身体も不便で仕方ないが、こっちの方が万倍マシだ」
ジャンクスフィアは立ち上がると、腰を左右へ捻ってストレッチを始めた。
「感謝するぞ助手殿!夜通しマンガを読んでおったおかげで創作意欲が湧いた。お主らが帰ってくるまで、ワシは執筆活動に勤しむとしよう!」
ジャンクスフィアが何もない空間へ手を伸ばす。
指先が白い靄の中へ沈んだ。
そのまま横へ引くと、何もなかった廊下に人一人が通れる隙間が開く。
向こう側に見えたのは、昨日見た地下倉庫。
ジャンクスフィアが軽く手を振り、その隙間へ入っていくと、白い靄は跡形もなく消えた。
「今のは……」
「魔女様方の固有空間——通称"巣篭もり"へ通じる扉でございます」
店員さんは、何事もなかったように説明した。
「許可された者しか出入りできませんが、ペンダントをお持ちの羽田様でしたら、白衣の魔女様の空間へいつでも入退室いただけます」
「俺も入れるんですか」
「はい。もっとも、接続先の指定を誤りますと、別の魔女様のお部屋へ通じる可能性がございます」
「それは……どうなるんです?」
「侵入者として各魔女様の張った防衛術式が作動します。塵どころか、魂も残らないかと」
「絶対に一人で入らないようにします」
食堂へ向かって歩きながら、昨日から気になっていた店内の構造について尋ねてみた。
「通称でよろしければ、ご説明いたします」
店員さんが指を一本立てる。
「まず、1番扉《猫だまし》。一般のお客様にご利用いただく、表向きの雑貨店でございます」
黒猫の看板が下がっている普通の店。
この街——交都バルヘイムにある『留守番猫の雑貨棚』は小洒落た食器やインテリア何かを置いているが、街によっては薬屋や武器屋など、別の店になることもあるようだ。
二本目の指を立てた。
「2番扉《種明かし》。魔女様方が製作された薬品や魔道具を販売する区画です。一定以上の信用を得たお客様のみご案内しております」
昨日、階段の途中で通り過ぎた扉だ。
あの向こうに、地球なら国家が奪い合うような品が並んでいるのかもしれない。
三本目。
「3番扉《灰かぶり》。皆様がお泊まりになった、魔女の共犯者の避難者や賓客を保護するための区画でございます」
ここも街によって様相が異なるらしい。
共犯者とか避難者とか物騒な単語は聞こえないふりをした。
「そして3番扉よりさらに奥に、先ほどご覧になった《巣ごもり》がございます。魔女様方が所有する、それぞれ固有の空間です」
それぞれの魔女から許可された者しか入れないその場所は、全ての店に通じているのだという。
地球の研究者が聞いたら卒倒するな、これ。
店員さんが最後の1本を立てる。
「最奥には《窯の底》がございます」
「窯の底?」
「魔女様方が集まり、話し合いをなさる場所です」
ようは会議室。
それだけだというのに、名前のせいか不穏な場所のように思えてしまう。
「なお、《窯の底》につきましては、ペンダントをお持ちであっても、招待なく立ち入ることはできません」
「入りたいとも思いませんけどね」
そこまで聞いて、もう1つの疑問を聞くことにした。
「……魔女って、何人かいるんですか?」
「はい」
店員さんは足を止めることなく答えた。
「《留守番猫》は、現在6名の魔女様によって運営されております」
「6人も」
思わず聞き返した。
箱庭型迷宮じみた空間を宿にし、さらにその奥に個人専用の異空間まで所有している。
そんな人々が、6人。
「……この店、滅ぼせる国とかあるんですか?」
「挑戦なさった国もあったと伺っております」
……逆に滅ぼしちゃった感じだろうか。
「ご安心ください。滅ぼされてはいません」
俺の顔色を読んだのか、店員さんが穏やかに補足する。
「更生されただけです。国の中枢ごと」
さらに物騒な感じだった……。
◇◆◇
食堂の扉を開けると、既に俺以外の全員が集まっていた。
長いテーブルの上には、焼きたてのパン、卵料理、燻製肉、果物、湯気を上げるスープ。
とても9人で全ては食べられないほどの料理が、所狭しと並んでいる。
「ソウジ君!これこれ!これ食べなよ!中にチーズ入ってる!」
タロウさんが丸々と太った拳大のワニみたいな魔物を、こちらへ掲げた。
表面は香ばしく焼かれ、裂けた腹から溶けたチーズが垂れている。
「ありがとうございます。遠慮しときますね」
隣ではサエさんが果物を1つ持ち上げ、真剣な顔で眺めていた。
「これ、皮ごと食べられるんでしょうか」
「さっきタロウが食べてたからやめとけば?」
レナさんが答える。
「…………やめときます」
悩んだ末、果物をテーブルに戻した。
ティナさんは山のように積まれた燻製肉を黙々と消費している。
その隣では爺さんが、茶器で優雅に茶を飲んでいた。
震明さんは窓の外に見える海に興奮しながら、手元のパンを忙しなく口に運んでいく。
長瀬さんでさえ、相変わらず眉間には皺を寄せているものの、昨日より食の進みが早い。
森を抜けた。
街へ着いた。
温かい寝床で眠り、まともな朝食にありつけた。
その安堵感から、全員が少しだけ浮かれている。
ただ一人。
ガイさんだけが、スプーンを持ったまま、スープの表面を見つめていた。
表情の少ない人だが、いつにも増して重い。
「どうかしたんですか?」
朝食を食べながら聞いてみる。
「……妙な夢を見た」
その一言で、騒がしかった食卓が少しだけ静かになった。
「夢?」
サエさんが首を傾げる。
ガイさんはしばらく黙り、思い出すように目を細めた。
「空が割れていた」
「空が?」
「その向こうに、星があった」
スープの表面に映る自分の顔を見つめながら、ガイさんは続ける。
「誰かが立っていた気がする。だが、顔が思い出せない」
「それだけ?」
ティナさんが尋ねる。
ガイさんは小さく頷いた。
「それだけだ」
「じゃあ、腹減ってんだよ」
そう言って、ティナさんがガイの皿へ燻製肉を三枚追加した。
「食べれば治るさ」
「……そうだな」
そこで、その話は終わった。
すぐに食卓の賑わいが戻る。
タロウさんが2匹目のチーズワニを確保し、サエさんが戻した果物の皮を恐る恐るかじり、レナさんが店員さんへ箱庭空間の気候について質問し始める。
変な夢の話など、朝食が終わる頃には、誰の頭からも消えていた。




