飛空箒 航程14 〜羽田創司〜
世界が光に包まれる。
溶ける地面に吸い込まれ、粘体の中をゆっくりと落ちていくような感覚。
転移トラップ――
『廃墓苑』で起きた謎転移じゃない。
迷宮深層に時折現れる、殺意の高い悪辣な罠だ。
即座に体を丸め、頭を腕でガード。
これだけで生存率は跳ね上がる。
転移直後の衝撃から急所を守るための、探索者にとって半ば常識となった転移時の鉄則だ。
体感にして2, 3秒。
浮遊感が途切れた直後、ドシンッ、と重力が全身を打ち据える。
……よかった。
ひとまず、足場はある。
烈光に焼かれた瞼を無理やりこじ開け、ぼやけた視界のまま周囲を見回す。
同時に、軋む腕の痛みを堪えて体を跳ね起こす、が――
「ぐっ、ぅう……」
世界が揺れる。
頭の中をミキサーで掻き回されるような鈍痛。
脳そのものを振り回されているような不快感に耐えきれず、そのまま地面へくず折れる。
転移酔いだ。
「グゾッ……」
聴覚までイカれた。
喉から漏れたはずの自分の声が、まともに聞き取れない。
一体どれだけの距離飛ばされたのか。
『新宿大深圏』で12層分飛ばされた時でさえ、ここまで酷くはなかった。
――カッ。
不意に、近くで小さな物音がした。
反射的に顔を上げる。
だが視界は未だぼやけたまま。輪郭しか判別できない。
人影。
男が座っている。
「あー、マスター?ワレワレ。侵入者だ」
気の抜けた声。
「そうそう、店の地下。……え?我?いやムリ。今ちょっと忙しい」
途切れ途切れにしか聞こえない。
耳の奥で水でも入ったかのように、音がぐにゃぐにゃに歪んで聞こえる。
店?
地下?
ここは迷宮じゃないのか――?
混乱する頭で必死に状況を整理しようとする。
石造りの床。
湿った空気と、微かに漂う香草の匂い。
そして、恐らく何かの書き物をしながら、電話のように虚空に向かって話す男。
迷宮にしては、妙に生活感があった。
「はぁ……」
男が露骨に面倒臭そうな溜息を吐く。
「暴れられても面倒よな……おっと、今のは貴殿に向かって言ったのではないぞ、侵入者殿。縛らなければマスターが怒り狂って暴れるのでな。少々窮屈やもしれぬが、許せ」
何なんだこいつ。
そのまま、どこからか取り出したロープを俺の腕に回し始めた。
……下手だな。致命的に。
左右の長さが合っていない。
おまけに結び目が甘く、締める順番も適当。
途中で「む?逆か?」とか呟きながら結び直している。
拘束される側の俺でさえ「やる気あるのかこいつ?」と思うレベルで雑だった。
それから5分。
謎の男は早々に拘束を諦め、俺の両手をロープでぐるぐる巻きにしただけで満足したらしい。
辛うじて形になっている程度の紐の塊を残し、そのまま俺を放置。
自席へ戻ると熱心に――いや、鬼気迫る勢いで何かを書き殴り始めた。
俺はと言えば、転移酔いこそだいぶマシになってきたが、本調子には程遠い。
男の様子を窺いながら、もしもの時の逃走経路を静かに確認していた。
しかし、広いな。
地下とは思えないほど、空間には余裕があった。
薄暗くはあるが完全な闇ではない。
天井に等間隔で吊られた白色灯が部屋を照らしている。
電気が通っているのか?
少なくとも松明やランタンの類ではない、安定した人工の光だった。
床は石造り。
だが迷宮のように荒削りではなく、人の手で均されたように平坦だ。
壁際には木箱や樽、紙束の詰まった棚が並び、地下倉庫めいた雑然さがある。
中央付近には、執務机に向かって猛烈な勢いでペンを走らせる男。
巻いた顎髭に、無造作に伸びた白髪交じりの髪。
細縁の眼鏡をかけた痩身の老人で、ローブ越しにも分かるほど背が高い。
年齢は初老ほどだろうか。
くたびれた学者のような風貌だが、眼は爛々と輝き、手は異様な速度で動いている。
机の上には紙、紙、紙。
山積みになった書類の隙間に、空になったコーヒーカップ。
さらに開きっぱなしの分厚い本が何冊も積まれている。
忙しい、というのは嘘ではないらしい。
男は俺への警戒をほとんど切っている。
というか凄まじい集中力で執筆しているため、こちらへ注意が向いていない。
男の背後に分厚い鉄の扉。
その反対側の壁際には、さらに奥へ続く通路。
灯りが途中で途切れているため、その先は見えない。
窓はない。地下と言っていた。
武器になりそうなのは……棚の横に立てかけられた鉄パイプ。
生憎、『意挫骨断』はトレントに吹っ飛ばされた際、手放してしまったらしい。
……やるか?
鉄パイプまで3メートル。
このまま大人しくしていても状況は好転しない。
少なくとも全面降伏という状況は避けたい――
その時。
ゴン、と。
鈍い音を立て、鉄扉が開いた。
「戻ったぞ」
白衣の女性。
白衣の下には黒いシャツ。
褐色の肌に、金の髪。
年齢は二十歳前後。
整った顔立ちだが、その目だけは氷のように冷たい。
女は部屋へ入るなり、俺を見る。
その瞬間――床を蹴った。
転がるように棚へ飛び込み、立てかけられている鉄パイプを掴み取った。
「おい」
低い声。
女が呆れたように男を見た。
「拘束しておけと言っただろ」
「仕方なかろう。我まだサピエンスの身体構造に慣れておらんのだ」
男は顔すら上げない。
紙へペンを走らせたまま、不満げに答える。
「大体何故腕が二本しかないのだ。これでは執筆効率が悪すぎる」
「知らん。せめて逃げられない程度には縛れ」
「善処した」
何なんだこいつら。
緊張感がまるでない。
逆にそれが不気味に感じて、鉄パイプを握る手に力が入る。
「……はぁ。随分と物騒なお客様だ」
白衣姿の女が、ポケットへ突っ込んでいた右手をこちらへ向ける。
気怠げな態度とは裏腹に、その眼だけは妙に鋭かった。
「所属と目的を聞こうか。素直に話すならランダム転移で済ませてやる」
一拍置き、淡々と続ける。
「拒否するなら、記憶と装備を剥いで海の真ん中に捨てる」
脅し文句の温度が低い。
冗談ではなく、本当に実行できる人間の声音だった。
「ま、待ってくれ。何の話だ。本当にわからないんだ」
侵入者、と言っていた。
となると、こいつらが転移トラップを仕掛けた訳じゃない――?
「ほお?その状態でシラを切るか。なかなか肝が据わってるじゃないか」
視線の先は鉄パイプ――ではない。
俺の背後。
何もない空間を見据えている……いや、違う。
「……見えてるのか?」
「あたり前だろ。むしろ隠せてると思ってたのか?」
さすがに舐めすぎ、と呆れた声で言う。
その視線は間違いなく、俺の背後に浮かぶ発光体――"虫"を捉えていた。




